大会議室
特に名を聞かれることもなく、会社の名前も尋ねられなったので、神崎はそのチンピラにカードの仕組みを話して聞かせた。
相手のチンピラは一人で、近くに仲間が居る気配もしなかった。
初めは小馬鹿にしたような態度で聞いていたチンピラだが、最後には感心したようにうなずき、偽造できると聞いたときは目を輝かせた。
「じゃあ、カード持ってくれば、千円でチャージしてくれるんだな」
念を押すチンピラ。
伊藤に背を向けるように説明していた神崎のスーツの裾を引いた伊藤が、小声で話しかけてきた。
「大丈夫なんですか、先輩。俺、知らないっすよ」
「ああ、お前は知らなくていい」
伊藤を巻き込むわけにはいかないので、先に帰れと促した。
それでも、残っていた伊藤だが、始終不安そうな表情を浮かべていた。
とりあえず、チンピラの携帯の番号だけを聞き、明日の同じ時間、この場所で待ち合わせをした後、そのチンピラと別れ、神崎達も店を出た。
駅までの帰り道、ビビって震え上がる伊藤をなだめるのに苦労した。いつもの大らかではしゃぐ伊藤の以外な一面が見れて面白いと言うと、勘弁してくださいよと、苦笑いするのだった。次回は無料でチャージしてやるから落ち着けと言ったが、やはり自分とは違う世界の人間には、ビビる伊藤だった。
翌日、出社してしばらくすると、課長連中が全員会議室へと向かっていった。
課長が一人も居なくなり、総勢百名が座るこの巨大フロアは、社員達の話し声で賑やかになった。神崎のシステム障害対策課も、対策班を含めて二十名ほどになるが、神崎は特に注意することもなく、逆に神崎も一緒になって話に花を咲かせていた。
二時間経っても課長達は帰らず、神崎の机の内線が鳴った。藤沢からだった。
呼び出された神崎は会議室へと向かった。普段のシステム部の会議室ではなく、取締役などが使う大会議室と呼ばれる最上階の会議室だ。
神崎も入社時に見学したことはあるが、それ以降入ったこともない。何事かと気持ちが引き締まった。
扉をノックすると返事が無く、代わりに扉が中から開けられた。開けたのは藤沢だった。
大会議室に入ると、システム部の全課長が苦悶の表情を滲ませ、巨大な円卓の周りに座っている。
それだけではなく、数名の取締役も同席しているのだ。社長の姿はなかったが、代わりに社外取締役と専務までもが顔をそろえ、これがシステム部だけの会議ではないというのを物語っていた。
扉の取っ手を持った藤沢が眉毛を下げてアイコンタクトしてきた。困ったことが起こったらしい。
今日着てきた藤沢の綺麗な紫のスーツが、この場の雰囲気につけるとあまりに派手すぎて可哀想に思えるほどだった。
「神崎っ!」
円卓の上座に座る黒岩の大声が飛んできた。
「よく来てくれた。まあ、入れ!」
「失礼します」
深々と一礼して神崎は前に進んだ。
若干足はすくんでいたが、まだ表情はクールだ。
「時間を取らせてすまない。そこへ座れ」
いつになく硬い表情の黒岩が言った。
「はい。失礼します」
神崎は一礼して、黒岩の指さした席、黒岩からひとつ飛ばした左隣の席に座った。
革張りの大きな椅子だった。一脚幾らなのか検討もつかないほどの高級感だ。
「神崎。君を呼んだのは他でもない。何のことかわかるだろう」
黒岩の大声で問われた。
見渡すと課長連中は小さくなり、皆一様に眉間にシワを寄せている。特に小室はうつむいて顔が見えなかった。他の取締役は三名、社外取締役が一名、それに専務。その全員の表情が硬い。
一番まともに見える黒岩でさえ、いつものやり手の貫禄が薄れていた。
神崎は立ち上がった。
「はい。この間のハッキングの件でしょうか」
いつもより大き目の声でこたえた。
「そうだ。その件なんだが、君の意見を聞かせてくれ」
ドカっと背を預けた黒岩の高級椅子からギュゥゥっと皮のすれる音がした。
神崎は一同を見渡し、深呼吸してから話し始めた。
「その件ですが、産業スパイの仕業だと思っています」
神崎ははっきりと自信を持って言った。
一同が一斉に神崎を見つめ、どよめいた。小室も顔を上げて驚いた表情で神崎を見つめた。
「ほう。なぜ、そう思う」
少し身を浮かせた黒岩が尋ねた。
「はい。まず、相手は愉快犯ではありませんでした。その証拠もあります。次に相手からダウンロードしたデータの中にあった、月産自動車の資料ですが――」
そこまで言うと、専務が叫んだ。
「おいっ! そこまで知っているのか! お前、たかだか主任だろう! どうなっているんだ!」
神崎はその声にびっくりした。
すかさず黒岩が椅子の肘掛けを押し、身を上げた。
「専務。失礼ですが、今はこいつに説明を求めています。とりあえず、聞いてみては如何ですか」
「ううん……」
そう唸って、専務は座り直した。
「続けたまえ、神崎」黒岩が言った。
気を取り直して神崎が続けた。
「私がダウンロードした相手のデータの中に、月産自動車の小型車の資料がありました。詳しくは見ていませんが、エンジンの設計図まであったことから、あれは月産自動車から非合法に入手したものだと思われます」
「うむ」黒岩が目を閉じてうなずいた。
「次に相手は香港からアクセスしてきました。これは後からご説明いたします。では、相手の目的はなんなのか。ここからは私の憶測になりますが……部長、宜しいでしょうか」
黒岩に向き直る神崎。
「構わない。言ってみろ」
黒岩は肘掛けに両肘を乗せ、右手で顎を触りながら言った。
「はい。少々お聞き苦しいことを言わなければなりません。お気に障ることがあったら仰ってください。失礼します」
そう言ってから、一呼吸おいて話し出す神崎。
「約一年前、グループ企業である四菱自動車が車体耐久試験で不正をしたことは、ニュースにもなり、世間で大変騒がれました。十年前の不正も合わせ、四菱自動車は大打撃でした。そこで、月産自動車との小型車部門の合併が発表されました。それが半年前です。それ以降、このニュースは報じられませんが、実は合併が実行されていないことは、内部の人間しか知りません――」
「おい!」
専務が叫んだ。
「それは、関係あるのか?」さすがに、黒岩がいぶかしげに神崎に問うた。
「はい。これが肝なんです」
「そうか。続けろ」
「はい。世間では、二つの自動車会社の小型車部門は合併してると思っています。ですから、産業スパイは月産自動車にハッキングを仕掛け、具体的には四菱自動車が合併しているはずの月産の小型車部門ですが、そこから両社の資料を入手するつもりだったんだと思われます。恐らく、『二社そろった資料』の売買が、産業スパイの仕事だったと推察されます。ところが、月産に四菱自動車の資料が無かった。あわてた産業スパイは四菱自動車にハッキングを仕掛けた。もちろん、月産に無かった資料を四菱自動車から盗もうと考えたからです。しかし、四菱自動車のファイアウォールは守りが堅い。長年産業スパイに狙われてますから、他より守りが堅いのは当然です。そこで、グループ企業であるうちに目をつけた。四菱重工にハッキングで侵入しようとしたのです。私でもその方法をとるかもしれません。なぜなら、もしうちのサーバーをクラックして通ることができれば、方法はいくつかありますが、グループの四菱自動車のほとんどのサーバーにはアクセスできるようになるからです。ですから、グループの中でも守りが弱いと思ったうちに仕掛けたんだと思います」
話を聞いていた黒岩が口を開いた。
「なるほど。実は我々も産業スパイの線は考えたが、何せ、方法や理由がまったくわからなかった。神崎の言うことが本当なら、全て筋は通る。ところで、香港の件はどう説明するんだ」
「はい。いままで四菱へのハッキングは中国本国からでした。彼らからすればわざわざ香港を経由する理由がありません。恐らくいままでなら、四菱自動車も中国本国から仕掛けられていたはずです。今回の件の黒幕はバイヤーなんじゃないでしょうか。産業スパイ崩れのハッカーを雇い、情報を車メーカーに売って生業を立てる輩です。そして、今回の黒幕は、多分アメリカ人です。または、アメリカに住む人間です。これも推測ですが、今回のハッカーが使っていたPCに、アメリカ本土で開発されて中止になったグラフィックカードが使われていました。あれをアメリカ国外で入手するのは不可能です。きっと、アメリカで入手したグラフィックカードを香港まで持ち込んだアメリカ人のバイヤーが、デモンストレーションとして使わせたんだと思います。そして、そのグラフィックカードも売り物だったと思います。客は香港にいてハッキングを見ていたのかもしれません。または、大陸だと黒幕か実行犯が取引先から拘束されることを恐れて、香港にいたのかもしれません。私はこの線が一番妥当な線だと考えます。いずれにせよ今回のことが成功していれば、そのカードだってきっと高値で売れるでしょう。何せちゃんと動作するプロトタイプのカードなのですから。マニアなら数百万でも買うでしょう」
「うううん……。なるほど……」
黒岩は深々と椅子に背を預け、目を閉じて深く唸った。椅子の皮のすれる音が一段と大きく聞えた。
一同、思い思いの姿勢になり考え込んだ。手元の資料をめくって見る者、天井を仰ぐ者、目を瞑り深く考え込む者と様々だった。
目をあけた黒岩が、たたずむ神崎を見て思い出したように言った。
「あ、神崎。座れ」
「失礼します」
そう言って、神崎は座った。
チラっと斜め後ろに立つ藤沢に目をやると、小さく親指を立てて微笑み、ウインクをした。神崎は無表情で正面を向いた。
黒岩はおもむろにタバコを出し、ライターをすって火をつけた。
ここは喫煙可らしい。神崎も吸いたかったが、さすがにこの雰囲気でタバコは出せなかった。
誰もが話せないでいた。
神崎の話を聞き、皆、頭を整理する時間が必要なのだろう。
「専務。いかがですか?」
黒岩がタバコをもみ消して言った。
目を硬く閉じていた専務が、ゆっくりとまぶたを開けてから、ひと呼吸して言った。
「まあ、話しはわかった。しかし、なぜ、一介の主任が知っているんだ」
「専務。お言葉ですが、合併の話は皆知ってますよ。いや、世間だって知っている。ただ、我々がマスコミを黙らせているだけではないですか」
「うぅぅん……」
専務は唸ったまま黙り込んだ。
「わかった。ありがとう神崎。また何か尋ねるかもしれん。その時はまた呼ぶから、いまは下がっていいぞ」
「はい」
神崎は立ち上がりドアの前で一礼した後、大会議室を出た。
自分の席に戻った神崎に部下が話しかけてきた。
「大会議室で何かあったんですか?」
「何って、会議に決まってるだろう」
「そうですけど、どんな会議だったんですか?」
「それは、いくら俺でも言えないよ」
「ははは。そうっすよね。すいません」
そう言って、部下は戻って行った。
神崎は椅子の背もたれに身体を預けて考え込んでいた。
月産のデータは一体どこからなんだ? ここは、やはり月産に行ってみるしかないのか……。
会議では言わなかったが、ハッキングされたすぐ後に、会社の前に車が居た。あれが関係ないとは到底思えなくなってきた。ただのハッカーじゃない。何か大きな力を感じる。
藤沢からの連絡待ちだが、妙な胸騒ぎがする神崎だった。
いつまで経っても課長連中は戻ってこなかった。
午後になってもまだ戻らない。三時休憩の後になってようやく戻った課長達の表情は、疲労困憊の極みの様子で、悲惨そのものだった。隣の五十を過ぎた菊池などは、もう死にそうな表情で、顔中あぶら汗が光っていた。声をかけたが、返事がなくうなずくだけだった。気の毒だが、神崎にはどうすることもできない。ただ、時間が経つのを待つしかなかった。いままで楽しいおしゃべりの時間を過ごしてきた約百名のシステム部の社員達も、皆一様に一旦は神妙な態度になったのだが、時間経過とともに何事かと皆で牽制し合っていた。
重苦しい時間が流れ、終業のベルが鳴った。
今日は待ち合わせがある。あんなチンピラに構ってる場合じゃないが、約束は約束だ。仕方が無い、行くとするか。
神崎は重い空気の職場を残し、一人、社を出るのだった。
[用語説明]
※ファイアウォール(ネットワーク上の防御全体のこと。元の意味は防火壁)