ハッキング
一辺が十メートルほどの室内に、余裕を持って五つの机が配置されている。入り口のすぐ前には二つの机が並んでおり、それぞれ三枚のモニターの背面ロゴをこちらに向けている。
二つの机の奥には一つの机があり、それより更に右奥に、三つの机を監視するように一つの机がある。この位置からでは全員モニターに隠れていて誰の姿も見えない。
手前の三面モニターの向こうから顔を出したのは入社四年目の後輩、二十五歳の伊藤だった。
「あっ、神崎先輩!」と、表情明るく神崎の名を呼ぶ伊藤。
「オッス」
右手を軽く上げて神崎もそれにこたえた。
その声に反応するように、後ろの机から一人が飛び上がった。
「あっ、テメー! 神崎! 何しに来やがった!」
システム管理課主任、千葉である。神崎より一年先輩であり、年も二十八歳でひとつ上だが、去年、神崎と同時に主任に抜擢された優秀な男だ。
神崎は千葉を無視して後輩の伊藤の背後にまわり、モニターを見つめた。
「ハッキングだったのか?」
神崎が伊藤に静かに問いかけた。
「はい。もう、まいっちゃいますよ」
会社のシステムがハッキングされたというのに、深刻さなど微塵も感じていない。その隣の席には、伊藤の一年後輩で二十四歳、小柄で顔が少し女っぽい白石が無言で作業をしていた。
ふたたび後ろから甲高い声が割り込む。
「おい! 神崎! テメー、何で知ってんだよ! つか、何で簡単に入ってきてんだよ。網膜どうした! オイ! 網膜どうしたんだよ」
銀縁メガネをずらしながら、わめき散らす千葉に向き直った神崎は、一礼して言った。
「すいません先輩。ちょっとだけ、見せてもらってもいいっすか?」
「なんだと、テメー! テメーなんかに見せるもんなんか何もねーよ!」
「そう言わずに、お願いします。千葉先輩」
神崎は再び頭を下げた。
「うっせーよ、テメー! さっさと出てけよ。ここはテメーの権限で入れるエリアじゃ――」
「落ち着きたまえ、千葉君」
一番奥の机から声が飛んできた。
わめく千葉の声が一瞬で途絶え、奥の声の主が立ち上がって近づいてきた。
ここの責任者、システム管理課課長の小室。今年で四十歳の温和な性格の男だ。それゆえ、ミスも無いのだが、逆に主だった功績もなく、いつも手柄に飢えているような男だった。
「あ、小室課長。すいません」
神崎が一礼する。
小室は白石の背後に立ち、白石のモニターを見つめながら言った。
「いま、立て込んでるんだよ。わかるだろ?」
「はい。すみません。ちょっとだけでいいんで、見せてもらってもいいすか?」
「うむ……」
唸りながらモニターを見つめる小室。
小室の様子に少し違和感を感じた神崎は白石のモニターを見た。白石は必死にキーを叩き、マウス操作をしている。
はっとした神崎は小室に聞いた。
「もしかして、現在も敵さん、アタック中なんですか?」
握り拳で口元を隠す小室が、観念したように白状した。
「……ああ」
驚いた神崎はあわてて白石のモニターと伊藤のモニターを凝視した。二人分で六面モニターである。そこには大量の窓が開かれ、あらゆるデータが表示されていた。伊藤と白石がパニくったのか、不要な窓まで開き、膨大なデータを表示させたのだろう。
普通ならデータの多さに混乱するだろうが、神崎はめぼしい窓をすでに見つけていた。
白石のモニターの一部に映る自社のWeb画面が、微妙に書き換えられている。伊藤のモニターの端には侵入を示す窓が開き、英数字の羅列が下から上へと順次流れている。
それを見た神崎の目が輝きを放った。
それはまさしくハッカーの目。獲物を見つけたときの怪しい歓喜の目だった。
神崎は小室に正対し、頼み込んだ。
「俺に少しだけ時間をもらえませんか。お願いします」
先程から姿勢を変えず、握り拳で唇を叩くようにして考え込む小室。
「ほんの少しだけで構いません。必ずやっつけますんで」
「しかしなあ……」
神崎の申し出を受けるべきか判断に窮する小室。
「じゃあ、相手が誰だか突き止めますよ」
神崎は奥の手を出した。ハッキングは相手を特定するのが一番の問題であり、それを突き止めたとなると、小室の株が上がるのは確実だ。温和な性格だが、人一倍手柄を欲しがっている小室にしてみれば魅力的な提案なのは間違いないと踏んだのだ。神崎の考えは見事にはまった。
「本当か?」
それでも小室は懐疑的な表情を神崎に向ける。
「はい」即答する神崎。
「無理無理!」後ろから主任の千葉が、声だけで割って入ってきた。「特定するのにどれぐらいかかると思ってんだよ。俺たち管理課四人でやっても一週間はかかりそうな相手だぞ。今はトレースするので精一杯。それでも追いつかねーんだよ。それを少しの時間でとか。はああ、話になんねーよ」
「本当に少しでいいんで、時間もらえませんか? 時間内に特定までやりますから」
千葉の言葉を受けて、神崎は重ねて小室に頼んだ。
「どのぐらいでいけそうなんだ」
小室がようやく乗り気になったようだ。
「三十分で」と、神崎。
「はあああっ! ふざけてんのお前」後ろから千葉の呆れた声が轟く。
「うぅん……」
それは長いな、という表情で考え込む小室。
その表情を読んだ神崎が、「じゃあ、十分で」と、進言する。
「本当に、それで特定までできるのか?」
今度は時間が短すぎて本気なのか、という表情で小室が懐疑的に問うてくる。
「はい。大丈夫です」
自信ありげにこたえる神崎の目は怪しく輝いていた。その輝きにほだされたのか、ついに小室は決断した。「いいだろう。ただし、十分だけだぞ」
「わかりました」
軽く礼をした神崎がすぐに動き出した。
「おい、白石。敵はどこまで入ってんだ?」
「はい。Webサーバーだけです」
「社内LANやファイルサーバーには、まだ入られてないんだな」
「はい。現在はルーター直下のWebサーバーだけです。それ以降には、まだ入られていません」と、緊張した声で白石はこたえた。
「わかった。ルーターのログを別のLAN経由で他のファイルサーバーに流しておけ。そいつのバックアップはリアルタイムで取るんだぞ。RAID構成のディスクは絶対使うな。シングルのヤツをちゃんと選んで使え。出来れば未使用のディスクにOSすっ飛ばしてゼロ番地から直書きの方がいい。俺の仕込みのスペシャルプログラムを使ってもいいぞ。パスワードと使い方は知ってるな。あーそれと、対策班のディスクを使ってもいいぞ。最近、大量に買っておいたから、探せば未使用があるはずだ。念のためにプリントサーバーにもデーターを流しておけ。紙が満タンのプリンターに割り込みをかけて、優先使用コードを入れるのを忘れるな。同時平行でお前は、Webデータの随時コピーの嫌がらせでなんとかそこで食い止めておけ。絶対にその先に行かすな」
「了解です」
神崎は伊藤のモニターに視線を移す。
「伊藤。そこの窓広げろ」
神崎は数字の羅列が流れる窓を指さした。
「はい」
伊藤が指定された窓をマウスで拡大する。
背景が黒いDOSのような窓には、一見無意味に見える十六桁の英数字の羅列が下から上に順次更新されている。
それをじっと凝視する神崎。
あたりは静まり返り、白石が操作するキーボードとマウスの音だけが室内に聞えていた。
伊藤と小室は神崎の姿を不安げに見つめている。
屈んで凝視していた神崎が姿勢を正し、「わかったかも」と、静かに言った。
伊藤と小室の表情が同時に明るくなった。
「マジっすか」と、伊藤が嬉しそうに言った。
神崎は室内の左奥の隅、部屋の最深部に置かれている、一見業務には不釣合いなPCの前に歩み寄る。
PCの前に立った神崎が小室に向かって聞いた。
「これ。使っていいっすよね」
そのPCの筐体は床に置かれ、側面が透明で、中が丸見えになっている。どう見ても業務用とは思えないマザーボードには高速大容量メモリーが八枚挿し、超高速グラフィックカードが四枚SLIシンクロ接続。そして、CPU、メモリー、グラフィックカード全てが水冷だった。
キーボードのキートップはLEDで光り、マウスのDPI感度も調節可能の一級品だ。
PCでゲームをする人であれば、よだれが出そうなPCなのだ。一から組んだら百万ぐらいかかるだろうが、それを会社の経費でやるのだから大したもんだ。こんなことができるのはこの部屋でも一人しかいない。
「はあああっ! おい! テメーにそれは使わせねーよ」
「構わんよ」
千葉の叫びをかき消して小室がこたえた。
それを聞いた神崎は椅子を引いて、「よっこらしょ」と、腰掛けた。
目の前のモニターは三面。全て反応速度一ミリ秒以内の百四十四ヘルツモニター。
神崎は、この水冷ハイグレードモンスターゲームPCの電源を入れた。
瞬時にBIOSが終了し、マルチブート画面が表示された。
神崎は迷わずUnixを選択した。
コマンドプロンプトが表示され、入力待ちのカーソルがブリンクを開始した。
「さてと。じゃあ、いきますか」
指を鳴らした神崎が、キーボードを尋常ならざる速度で叩き始めた。
[用語説明]
サーバー(サービスを実行しているコンピュータのこと。サービスには様々な種類がある。Web、ファイル、プロキシなど)
RAID【レイド】(ディスクを複数台使って運用すること)
※DOS【ディスク・オー・エスの略】(Windowsの前身に当たるオペレーティング・システム。初期のWindowsはDOSの上で動作していた)
CPU【セントラル・プロセッシング・ユニットの略】(中央処理装置。コンピュータの頭脳)
DPI感度(マウスの感度のこと)
※BIOS【ベーシック・インプット・アウトプット・システムの略】(PCのハードウェアをOSが動かすための最低限の入出力プログラム。ファームウェア)
※マルチブート(複数のOSが一台のPCにインストールされている状態で、その中の一つを選んで立ち上げること)
※Unix(MacやWindowsと同じOS。スマホのAndroidはUnix系のOS)
※コマンドプロンプト(画面上に表示されるコマンド入力待ち状態であることを表す記号 ”>”や”$”など)