藤沢美由紀
前回、チンピラと会ってから十日経ってしまい、また会わなければならない。
とりあえずカードは用意してきたが、非常に面倒だ。
出社した神崎は、気落ちした表情で席に着いた。
午前中、自分の好きな情報を読みあさっていると、システム部のフロアが僅かにどよめくのを感じた。
顔を上げて周りを見渡すと、机の島の間を黒の上品なスーツを着た藤沢が歩いている。
顎を僅かに上げてモデル歩きのようだ。しかし、表情は厳しい。
フロアの一番奥に到達した藤沢は、なぜか立ちすくみあたりを見渡している。そこは三月まで対策班があった場所なのだが、それを探しているのか――。
藤沢が話しかけた社員が、神崎の方角を指さしている。藤沢は何度も礼をして、改めて神崎の方向に歩き出した。
神崎の机の前に来た藤沢は、顔を背けて一枚の紙を机に置いた。神崎はその紙を手に取って見た。
あの中国女の職歴情報だった。
顔を上げ、礼を言おうとすると、背を向けて歩き去る藤沢の姿が視界に入った。
ため息をついた神崎は、再び女の職歴情報に視線を落とした――。
二ヶ月前に月産に入り、一ヶ月で辞めている。その一週間後に四菱自動車で面接。次の日からコールセンターで働きだし、同じく一ヶ月で辞めている。次の日、うちで面接。翌日から勤務。
女が四菱自動車を辞めた日に、うちがハッキングされた。その翌日にうちに面接に来ている。午前中にうちの人事担当者に電話をして、午後には面接。随分と手際がいい感じだ。いまはバイトの人手不足なので、そんなものかもしれないが。
紙には四菱自動車のハッキング日時は載っていなかった。やはり簡単には教えてくれなかったようだ。
神崎は四菱自動車へのハッキングの手口が気になっていた。CBから大学生ハッカーの話しを聞くと、なおさら知りたくなるのだった。どんなハッキング手法を使ったのか。うちと同じだったのか、違うのか。神崎の興味はそこにあった。
やはり四菱自動車のシステム管理者に会わなければ。
そう思い立った神崎は部長秘書室に向かった。
扉を開けて秘書室に入ると、藤沢がタブレットを操作していた。
「よっ」
ガラにもなく、神崎は爽やかさを醸し出して、藤沢のご機嫌を取ろうとする。
「ああ……。神崎さん」
だが、無情にも素っ気無い藤沢。
机の前まで来た神崎は、藤沢のタブレットを覗き込んだ。
「何やってるんだ?」
明るい声で語りかける神崎。
「書類を書いてるのっ。……あっ、もう。またパスワード聞いてくるっ。もう、面倒くさい」
相当キレてる様子だ。
「パスワード? なんでだ?」
「これ、部長がやるときはパスワードいらないのよ。私がやるとパスワードを聞いてくるの」
「面倒だな。部長から頼まれてるんだろ?」
「そうよ。前にも部長に面倒だから何とかしてくださいって言ったのよ」
「で?」
「そうしたら部長、システム管理課に言って、権限を上げてもらえって」
「言えばいいだろう」
「言ったわよ。千葉さんに。でも、権限はそう簡単に上げれないってつっぱねられたの。部長から言われたっていっても、全然聞く耳持たないのよ、あの人」
「ちょっと、PC貸してくれ」
藤沢が差し出したマウスを使い、藤沢のPCを操作して彼女のエイリアス情報を確認する神崎。エイリアスとはファイルを参照するときの別名のことである。
「特に権限を上げても問題ないように見えるな……」と、神崎は呟いた。
「よくわからないけど、そうでしょ? 部長も大丈夫なはずだって言ってたんだもん」
「そうだな。でも、このPCでは上げれない。ちょっと待ってろ」
神崎は自分のスマホを取り出し、ツールを呼び出した。立ち上がったツールを操作する。ソフトフルキーボードを両方の親指で打ち込んでいく神崎。そして、顔を上げた神崎は藤沢を見た。
「もう一回やってみろ」
「へ? うん……」
藤沢は再びタブレットを操作した。
「ああっ! パスワード聞かれなくなったわ」
顔を上げた藤沢には喜びの表情が溢れていた。
「よかったな」
神崎の笑顔は引きつっていた。
「さすがね。どうやったの? って聞いてもわかんないか。でも、ありがとう」
「やっと機嫌が直ったか?」
「えっ。き、機嫌って、別に悪くないわよ」
「それはよかった。ところで、頼みたいことがあるんだが、いいか?」
「い、イヤよ」
やはり相当ご機嫌斜めらしい。この程度の手助けでは駄目なようだ。神崎は考えた。
「あのさあ。今日、伊藤とバーに行こうと思ってたんだけど、あいつ残業で行けないってメッセージきたんだよ。誰か今日行ける相手しらないか? 藤沢」
「え、うぅ、えー、し、知らないわ」
「そうか。じゃ」
手を上げて立ち去る素振りを見せる神崎。
「あ……」
「ん? なんだ?」
「あ……、えとー、わ、私は今日って、残業……ない……かも……」
藤沢はうつむいて小声で呟いたあと、上目使いで神崎を見た。
「そうか。じゃあ一緒に行ってくれるか?」
神崎は似合わない爽やかイメージで確認した。
「えっ。そ、そうね。面倒だけど、い、いいわよ?」
タブレットを忙しそうに操作しながらこたえる藤沢。
「面倒ならいいよ。他当たるから」そう言って、振り返った神崎。
「い、行きます!」
突然、大きな声で宣言する藤沢。大マジの顔だった。
「そうか。じゃあ五時半正面玄関で待ち合わせしよう」断れないように強引に誘う神崎。
「ま、待ち合わせ……へぇ」と、頬を染め蕩けるような表情の藤沢。神崎に聞えないような小さな声で、「……なんて……はじめて……」と、呟いた。
そしてすぐに、はっとして姿勢を正し神崎に正対した藤沢は、
「はい。必ず行きます」
と、子供のような素直な顔で言った。
神崎自身も女と待ち合わせをしたことがなかったが、背に腹は代えられないと腹を括った。
「ところで、頼まれてくれないか?」と、神崎が本題を切り出した。
「うん。なーに?」
先ほどとは打って変わって満面の笑みの藤沢。
「四菱自動車のシステム管理者と話がしたいんだ。確か主任が居ただろう。彼と会いたい。なんとかアポ取ってくれないか?」
「ああ、確か篠原さんよね。あの人、気難しいのよね」
「そうなのか。なんとか頼むよ。部長に相談できないから、お前しか頼れないんだ」
「いいわ。美恵子に頼んでみる」
美恵子は藤沢の大学時代の友達で、四菱自動車のシステム部長秘書だ。
「よろしく頼む。じゃあな、おつかれ」神崎は手を上げて扉に向かった。
「おつかれさまです」
藤沢には再び美しい微笑みが戻っていた。
昔から女を苦手としていた神崎だったが、ここへ来て、なんとなくだが、女の扱いがわかった感じがするのだった。
神崎が正面玄関でたたずんでいると、次々に退社する女子社員から笑顔で挨拶されるのだった。
「おつかれさまです、神崎主任」「神崎くーん、お先にー」「神崎主任、お先に失礼しまーす」
「おお、お疲れ……あ、おつかれさまです……おつかれ……」
その全てに引きつった笑顔で返す神崎。
そこに十五分遅れで登場した藤沢。遅れているにも関わらず、急がず堂々と近づいてくる。
さっきまではシックな黒のスーツだったはずだが、いまは真っ赤なタイトミニのスーツを着ている。ヒールも同色で真っ赤だ。秘書室のクローゼットの中にある接待用の服の中に、こんなこともあろうかと藤沢が密かに入れていた自分専用の服だった。普通の男なら誰でもわかる藤沢の勝負服なのだが、神崎にはそれがわからない。
男性社員の視線を釘付けにしながら歩く藤沢が、神崎の正面で立ち止まった。
退社する社員でごった返す玄関ロビーで、大勢が二人に注目した。
「か、神崎さん。で、では、まま、参りましょうか」
頬を染めながらうながす藤沢。
「遅いぞ。なんで赤いの着てるんだ?」
挨拶のしすぎで精神的ダメージ大の神崎が尋ねた。
「えっ。そ、そんなことはいいでしょ。ささっ。参りましょう」
自分の手を神崎の腕に挿し入れようとした藤沢だったが、一瞬早く振り返った神崎は一人で歩き出してしまった。藤沢は気を取り直して神崎の後ろを追いかける。
そして、二人で正面玄関を出るのだった。
「あれ? ここって前に来た居酒屋?」
「ああ、少しだけ我慢してくれ」
カウンター席に並んで座り、不安がる藤沢を無視していると、チンピラが入ってきた。
それを見た藤沢は怪訝そうな顔になるが、反対側を向き無視を決め込んだ。
派手な真っ赤なスーツを着た藤沢を見たチンピラは目を見開いた後、相変わらず下衆な笑いを浮かべた。
「ひょー。兄さん。この方モデルか何かかい?」
「まあ、そんなとこだ。持ってきたか?」
神崎は質問をあしらい、チンピラの方に手を差し出した。
「お、何かやる気になってるね、兄さん。ひっひっひ」
カードの束を神崎の手のひらに叩きつけるチンピラ。
それを見た神崎が驚いた。
「おい。なんだこれ? 何枚あるんだ」
「四十枚」
神崎の目を睨みつけるチンピラ。
「四十だと?」驚く神崎。
「まあまあ、兄さん。はい、これ」
チンピラは茶封筒をカードの上に載せた。
「十万入ってる。これで文句はないだろ?」
呆れて黙り込む神崎だったが、やがて諭すようにチンピラに告げた。
「わかった。それなら次回は一ヵ月後だ。いいな」
「ひっひっひ。いいぜ。でも、そいつは十日後に持って来てくれよな」
チンピラはそう言い残し、店を出て行った。
クソ。あのチンピラ。次回は更に二倍にしてやる。一枚四千円だ。
神崎たちも時間を置いて居酒屋を出た。
「神崎さん。さっきの誰なの?」
「お前は何も知らない。いいな」
「ふーん」と、口をとがらす藤沢。赤い口紅を塗った小さな口が更に小さくなった。
バーに入り、この間と同じ席に着いた。今日の客は神崎たちだけだった。
神崎はウィスキーシングル。藤沢はコニャックをダブルで注文。
即効で神崎の心臓が反応した。
さっきの十万……、受け取ってて助かったかもな……。
早速一杯目を煽った藤沢が話し始めた。
「神崎さん。私、本当は怒ってたのよお」
「そうだったのか……」
「でも、いまは怒ってないわ」
微笑んでコニャックを飲み干した。グラスを置き――お代わり。マスターも笑顔で注ぐ。
神崎はウィスキーを舐めて、グラスを置いた。氷の音が少し寂しい。
「お前って、誰も居なくなるとサバサバした感じになるけど、なんでだ?」
「そうお?」
藤沢はお代わりしたコニャックを小さな口で大きく一口飲み、グラスを置いた。
「じゃあ、もっと後輩らしくしたほうがいいですかあ? 神崎主任」
藤沢は神崎を覗き込み、子供のように笑っている。
「もう、酔ってんのか……」
「酔ってません!」
そう宣言した藤沢は、また大きく一口を飲む。
「今日はあんまり酔うな。大事な話をしたいんだよ」
「へえ――。大事な話って?」コニャックを飲み干す藤沢。
「もちろん、ハッキング事件のことだよ」
藤沢はグラスを置くと、氷が鳴った。
「なーんだ。それかー。あ、お代わりください」
「なんだとはなんだよ」
「別にいいですけどー」
マスターがコニャックを注ぐ。ブランデーをこのペースで飲んで大丈夫なのかと、神崎は藤沢の体の方が心配になってきた。
神崎も一口飲んでグラスを置いた。
「なんかお前、敬語になったのに、ぶっきらぼうじゃねーかよ」
「べーつにー。ぶっきらぼーじゃないですーだ」
「わかったわかった。すまない。それにお前は同期だ。お前は留学で半年遅れただけだ。そうむくれるな」
「むくれてません!」
一口飲む藤沢。今度は普通の一口だった。
「あーごめん。いつも通りにしてくれよ」
「でしょー? 私とこんな風に話せるのって、神崎さんだけなんだからね」
「こんな風って?」
「こう、友達っていうかあー、仲がいいっていうかあー、えとー、こ、こ、恋人同士みたいっていうか?」
「恋人じゃないだろう」
「た、たとえよ、たとえ」
そう言った藤沢は、大きく一口飲んでから喉を鳴らしてもう一口飲んだ。
「まあ、仲はいい方だよな」
「そ、そうよ。仲がいいのよ」
藤沢は次の一口でコニャックを飲み干した。今度はバーボンを頼んだ。
神崎もウィスキーがなくなってしまい、スコッチを頼んだ。もちろんシングルでだ。
何やら反対側を向いて胸元をいじっていた藤沢が、カウンターに正対し、顔だけを神崎の方に向けた。
「ねえ、神崎さん。私の自慢知ってる?」
「おっぱいだろ?」
「え? 知ってたの?」
目を開く藤沢。
「だって何度も言ってるじゃねえか」
神崎も少し酔いが回ってきていた。
「そうよ。八十七センチもあるんだから。カップなんてFなんだからね。凄いでしょう」
そう言って、カウンターに載せている胸を更に押し出した。中に着ていたブラウスのボタンが三つ外されていて、生肌の谷間が露出していた。
「ああ、凄いな」
神崎はグラスを持つ自分の手を見ながらこたえた。
「巨乳の子は好きでしょ?」
藤沢はその張り出した胸を神崎に向けた。
「きょ……。まあ……な」
あえて話題のものを見ないようにこたえる神崎。
藤沢は素早くカウンターに向き直って、
「でも、揉ませないからね」と、言って、顎を上げた。
「お、おい」
「私のおっぱいを揉めるのは、彼氏になった人だけよ」と、上を向いて話す藤沢。「か、か、神崎さんが、わ、私の彼氏になったら……、揉ませてあげるわ」
「おいおい、大丈夫か? お前相当酔ってると思うぞ」
「酔ってなーい!」
藤沢はバーボンを飲み干した。氷が激しく鳴った。




