秋・椿 2-1
秋国王宮白焼宮の一室で、夏国使者暁亮と、秋国水軍将軍周藍は差し向かいで黒漆の卓につき、互いをじっと見つめていた。
深夜のことである。清らかな聖銀の月の光が窓辺から差し込み、青白い視界の中で、暁亮は端座し、天人の如く麗らかな微笑を湛えている。一部の狂いもなく描かれた完璧な輪郭に、月神の如き人智を超越した清廉な美しさは、本当にその場に実在しているのかと疑いたくなる程だ。
が、その類まれな美しさに忘我の誘惑を感じつつも、周藍は苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、露わになった左眼は世をすねたように呆れかえっていた。
「--で?」
胡乱な周藍の声に何ら怯むことなく、暁亮はすました顔でわずかに視線を俯ける。
悪びれもせず、ふと足元の草花に目を留めるかのようなごく自然な仕種に、周藍の眉間の皺はますます深くなる。
「何と説明するつもりだ。夏国使者が、深夜に秋国王宮の侍女服を身に着けてうろついているなどと」
「何も」
強張った声で苛立たし気に周藍は問うが、暁亮はにこやかに微笑むばかりで全く動じない。
「申し上げました。女装するのが趣味だと」
(この台詞はなかなか面白いと思うけれど)
だがしかし、周藍は暁亮とは違い全く面白く思わなかったようだ。
「醜聞だ! 桂淋殿は、仮にも夏国王明理どのの名代としてここにいるのだぞ。わかっているのか?」
見られた暁亮よりも熱く事態を憂慮する周藍に、暁亮はついつい笑みを浮かべてしまう。
(人が良い。私が何をやらかそうと子規将軍には何の関係もないのに。育ちが良いからかな)
(こんな調子で知り合った相手を次から次へと気にかけていたら、身がもたないだろうに。不要な苦労を引き受けそうだけれど‥。だから慕う者も多いという訳か)
(私なら、何と取り引きできるか考えるところだけれど)
嬉しいような悔しいような微妙な気持ちを抱きつつも、暁亮は目の前の青年周藍を興味深く観察する。
「‥こんなことを、夏国でもやっていたのか? 夏国では誰も気にしないのか? ‥いや、そんな訳はあるまい」
一方で、周藍はだんだん言い募る自分が馬鹿に思え、空しくなってきた。
(一体、私は何が言いたいんだ)
(はじめは、この非常識さを叱らなければと、‥)
(なぜ、私が!? 桂淋殿は秋国の人間でもないのに!?)
(しかも、こいつは何も答えようとはしないし。ただ微笑んでいるだけだ)
(あんなふざけた格好をして、それを他国の人間に見つかって、何とも思っていないのか!? 本当に!?)
(あんな、あんな美しい女の格好で!!)
けむるように物憂げな眼差しに、薄く開かれた桜の花びらのような唇。
侍女服とは言え、仕立ての良い上品な上衣と下衣を身にまとい、しずしずと歩く華奢で儚げな姿は、飾り気のない装いがいっそ巫女のようで、燐光を振りまくように神々しく、その指先一つ、足先一つ、優美に動くさまを見逃すまいと魅了されてしまう。
暁亮の侍女姿が周藍の頭中を占拠するのを振り払うように、だん、と彼は拳を卓に打ち付けた。
「女装して何をやっていた。どこへ潜り込んでいたんだ。何か、あるのだろう」
「何もありません」
「‥いくら何でも、趣味というのは嘘だろう?」
滑らかで澄んだ声で答える暁亮に、周藍はとりつく島もなく、なだめるように言う。
と、暁亮はその周藍の表情を窺い、わずかに首を傾げて微笑んだ。
「では、違うことにしましょう。実は私は女性なんです」
「‥‥!」
暁亮の瞳が楽し気に輝いている。周藍の頭にかあっと血が上る。
(人で遊んでいる! こっちは真剣に心配しているのに!)
「‥もういい! 女装が趣味、それで十分だ。つまらないものを見て時間を潰してしまった。戻る。桂淋殿もさっさと寝ろ!」
「つまらないものでしたか?」
(‥っ!)
投げかけられた問いと悪戯気に向けられた眼差しに、周藍はがたんと音を鳴らして勢いよく椅子から立ち上がった。暁亮はたまらないといった様子でくすくすと小さく笑い声を立てる。
(こ、こいつは‥っ!!)
月光の中に浮かび上がる、美しすぎる少女の姿が周藍の脳裏によみがえる。
その姿が重なる眼前の佳人に、周藍は絶句してそのすました顔を凝視した。
「あの姿を気に入って下さる方もいらっしゃるのですけれど」
「何を考えている、桂淋殿!」
夜中にも関わらず思わず声を張り上げてしまい、気まずく思いはしたが、けれど周藍は止められなかった。
「男が、女の格好をして、何をどうするというんだ!? 不毛な! 頭が痛い!
‥もうごめんだ。こんなことは二度とするんじゃないぞ。見逃すのは今回限りだ。自分の立場を考え身を慎むように。いいな、桂淋殿」
「--おやすみなさい。子規将軍」
周藍の念押しに頷きもせず、暁亮はくすくすと笑い続けている。すぐにでも去ろうとする周藍を意味ありげに呼び止め、じっと見つめた。
「どうぞ良い夢を」
ばたん!と派手に扉が閉まる。
(何が『良い夢を』だ! 良い夢など見られる訳がないだろう!? あんなものを見た後で!)
(あいつは男なんだ。男なんだぞ!?)
暁亮の部屋を出、すたすたと速足で廊下を歩く内に、熱が次第に上がって来た。
顔が熱くなっているのは、速足だからか、そうではないのか。
(あれは男だ。どんなに美しくても、どこから見ても女にしか見えなくても、まやかしだ、偽物だ、夏国使者暁亮は、男の筈なんだ!)
その夜、周藍の安眠はどこかへ消え去ってしまった。