秋・椿 1-5
夏国使者暁亮が秋国王都椿の白焼宮へと戻って来たのは、丁度夕暮れ時だった。
昨日と同じく、あるいはそれ以上に美しい光景が眼前に広がっている。
澄んだ冬の空気を渡る日没の黄金色の陽光と、それに照らし出される白亜の建造物群。とりわけ輝かしいのは燃えるようにきらめく王宮白焼宮。
誇らしくもあり、郷愁を誘う、あたたかく、黄金に輝く光景。
「黄昏の光は暁の光に似ている。‥桂淋殿、秋国の人々が貴方を、名の如く暁の光のようだと騒いでいるのをご存知か」
「光栄ですね。‥夏国でも、同じようなことを言われたことがあります」
白焼宮の門をくぐり、厩へと騎乗した馬を返し、付き添いの兵士たちとは別れて、暁亮は秋国水軍将軍周藍と白焼宮の廊下を歩く。
「発するところは小さいのに、と注釈をつけられて。男にしては背が低いのは否めませんが」
苦笑しつつ暁亮が答えた。
(夏国のひとびとが言いたいのは、それだけではなかっただろうけれど)
むしろ、背も低い若輩者が大きな顔をするな、と揶揄していたのだろう。
「確かに‥だが、十八歳ならばまだ成長期とも言える。他の者より遅いだけではないか」
(‥本当はそうではないのだけれど)
曖昧に頷き、抱いた言葉は口にせず暁亮が黙っていると、どう解釈したのか、周藍はやや慌てて取り繕うように続けた。
「だ、だが、桂淋殿は既に外面の成長よりも素晴らしい内面の才があるのではないか。それに、美貌という点ではまごうことなく優れている。その美しさを持ちながら、男としての身体の強さまで手に入れたら、世の男は立場がないと思う」
「過大な評価です」
くすり、と光を振りまくように暁亮は笑いを立てる。
(過大な評価? とんでもない)
周藍は思った。
(このような極上の微笑みを向けられたら、女も男もなくどうしようもないだろう‥)
「‥桂淋殿は妻子はいないのか」
眩しそうに目を細めつつ、そんな己を隠すように話題を探し、周藍は問う。
「まさか。いる訳ないでしょう、この年で。‥もしや、子規殿はお持ちですか?」
「いや、私もいない。しかし、一般的にはいてもおかしくない年頃だぞ、私たちは。では恋人は?」
「それ程暇でもありませんよ」
(なんだかよく笑うな)
(夏国清水宮ではこんなことはなかったのに)
隣を歩く周藍の人柄のせいだろうな、と暁亮はしみじみと青年を見つめた。
(実直というか、素直というか‥。自然に距離がつまり、親しみを覚える。人望があるのも頷ける)
(しかし、この一連の質問は何を意図している?)
「私の恋愛事情など訊いて、どういうつもりなのです」
周藍の性格を鑑みるに言い回しは無用、と暁亮は真向から尋ねる。えっ、と周藍は一瞬ひるんだが、やはり見込んだ性格の通りに彼は誤魔化しをせず答えた。
「‥夏国の女の目は節穴か? こんな魅力ある人物を放っておくなんて‥。白焼宮では、既に桂淋殿を目にした女官、侍女、貴人たちが目の色を変えているぞ。それとも、桂淋殿が片っ端から袖にしてきたのだろうか?
私は、ただ、この美しさとそれに合う女性が並ぶところを、一対で拝んでみたかったのだが‥」
にこ、と暁亮はただ微笑するだけにとどめた。
(こいつは本当に自分の美貌を自覚しているのか? いないのか?)
(男の自分さえ様々な感慨を抱くというのに‥。女など簡単に手玉に取れるに違いない)
「明日も、また秋国のどこかを案内していただけるのでしょうか?」
周藍の複雑な心境など知らず、暁亮が問う。心地よく響く鈴の音のような声に、周藍は心中でこっそりとため息をつく。
「明日は、陽王と宰相殿が面会の時間を設けている。昼過ぎに侍女から声がかかる筈だ」
「朝食を運ぶのも、侍女にしてくださいね」
「‥迷惑だっただろうか?」
すかさず付け加えた暁亮に、周藍は今朝、暁亮の元に運ばれる筈の食事を侍女から強引に奪い、居室に押し掛けたことを思い出して、伺うように視線を這わせた。
「突然というのは。そうでなければ、また、違います」
それではまた。やわらかな微笑を残し、暁亮は与えられた自室に入っていった。
(もう日付は変わってしまっただろうか)
なかなか寝付けないうちに、だらだらと時間は過ぎていた。秋国王宮白焼宮の一室、王宮に勤める仕官達のための一角、滞在用に賜った自室で、周藍は寝台から起き上がった。
(少し外の空気に当たるか‥)
冬の冷気で気分を変えれば、かえって寝やすくなるかもしれない。そう思い、王宮内をうろつくのにみっともなくない程度に身なりを整え、上着を羽織って、周藍は自室から外に出る。
回廊は、ところどころに明かりが灯されてはいるが、その明るさはいささか慎ましい。その回廊から中庭に降りると、静まり返った夜闇を清らかな月光が冴え冴えと満たしている。
しばらく佇む。風はなく、しんと冷えた空気は、寒さに震えるというよりもむしろ心地よかった。
「秋国で育ったのだからな‥」
この冷たさも身に慣れている。冬というものはこういうものだ。
(夏国からの客人にとっては、そうでないかもしれないが)
知らず、周藍は夏国使者暁亮のことを思い浮かべていた。
秋国王陽斎から接待役を任じられたとはいえ、和平を結ぶため、友好の証を立てるための使者であるとは言え、暁亮は油断のならない元敵国、夏国の人間だ。しかも魂が吸い取られそうになる程に美しい顔をして、天上の楽のように麗しい声で囁く佳人である。
(警戒してしかるべきなのに‥、事実、最初はそうだったのに‥)
不思議なほど自然に、暁亮に好感を抱いている自分に、周藍はいささか驚いていた。
(美しいからだろうか? それとも、あのやわらかい物腰にほだされているのだろうか?)
(いや、違うな‥)
暁亮が時折見せる淋しそうな微笑。向けられた好意に戸惑う一瞬の眼差し。そういったものが、多分、周藍には気にかかって仕方がないのだ。
と、どこからか甘く気だるい香が薫った。
(女の使う香‥あの侍女か?)
中庭に向けていた視線を回廊へ戻すと、うつむきがちにひたひたと歩き、近づいてくる侍女の姿が見える。
(誰かとの逢瀬の帰りか‥?)
周藍は反射的に顔を確かめようとしたが、丁度雲が月にかかり、周囲は暗く沈んでしまった。
足元を照らす回廊の灯りがあるとは言え、距離があり、侍女の顔まではよくわからない。
(逢瀬の帰りなら、顔を見られるのはばつが悪いかもしれないな。確かめるのも無粋か)
思いなおし、周藍は中庭へ引っ込んで身を隠そうとしたその時。
かかった雲が通り過ぎ、月は再び周囲を照らし出した。
まるで舞台上の役者を照らし出すように、月は侍女と周藍を一つの白い光の中に迎え入れる。
いや、それは侍女などではなかった。
「桂淋殿‥!?」
周藍の声が驚愕に掠れる。そのせいで声は大きく響かなかったが、当の本人には明遼に届き、暁亮の顔は一気に青褪めた。そのさまは暁亮にも周藍にもわかった。
「貴方は、何を‥」
呆然として周藍は二の句が告げられない。しかし、それにしても何という美しさだろう! 月光をまとい、月光の中から誕生した神仙のような幽玄の姿。濃藍の夜空を思わせる瞳に、漆黒の闇を束ねた艶やかな髪。すらりと佇む華奢な体躯は、輪郭から白い燐光がこぼれるように儚く神々しい。
この世にこれ程までに美しい佳人がいるだろうか。
「困りましたね。情けないところを見られてしまいました」
しばしの時を置いて、やがてすらすらと語り出したのは暁亮だった。
表情は依然として青褪めてはいるものの、口調は動揺など微塵も感じさせないごく自然なものである。寧ろ、困っていると言いながら、微笑しているかのように余裕がある声だ。
「‥女装が趣味なんです。私は」
「女装!? しかし、どこから見ても-」
「女にしか見えないでしょう?」
暁亮の声に触発され、関を切ったように言葉の流れ出る周藍にうまく調子を合わせ、暁亮は実際に微笑した。そのあまりの偽りのなさに、これが平時なら、大した演技力だと周藍も感じたかもしれない。が、なにせ彼は今それどころではなかった。
「違和感などないでしょう? だからつい、楽しくて。もう戻ろうかと思っていたのですが、見つかってしまいましたね」
「見つかった、ではない! どうするんだ。他の者がもしこれを見たら―」
「貴方は、違うでしょう?」
たっぷりとつやを含んだ、ねだるような甘い声に、周藍は絶句した。
(‥頭がどうにかなりそうだ!)
「来い!」
暁亮のその華奢な細い手を周藍は強引につかみ、引き、回廊を歩き出す。
(女のものとしか思えない)
(華奢な手。細い指。やわらかくて、頼りなくて、まるで本当に、)
(‥ああ!!)
眠るどころではない。ばっちりと頭が冴えてしまった。周藍は暁亮を振り回すように引き連れて速足で回廊をたどり、暁亮の自室まで来ると、鍵を外して扉を開けさせた。放り込むように暁亮を押し込んで自分も中に入り、すぐにその扉を閉め、勿論内鍵も掛ける。
荒れる気分のままにがたりと椅子をひき、暁亮に背を向けて腰掛け、周藍は足を組み、手を組んだ。
「さっさと着替えてしまえ。その後でゆっくりと弁解を聞いてやる」
そう宣言した後は、むっつりと黙り込む。
暁亮は周藍の様子に瞳をぱちくりと瞬かせ、だがやがて、くすりと笑みを漏らした。
不意の接触に、暁亮とて心中では動揺していた。侍女姿を目撃され、自分の処遇がどうなるのか心配だったが、どうやら周藍は事の次第を吹聴する訳ではないらしい。その安堵の笑み。
だがしかし、その笑みすら、周藍にはひたすら、からかいめいた呪わしいものに感じる。
(ああもう!!)
冬の夜は長いようで短い。遠く背後から聞こえる暁亮の着替えの衣擦れの音に、周藍は更に不機嫌に眉間に皺を刻んだ。
お正月企画で始めた、「暁光」でした!
連続で投稿するのは、思ったよりも大変でした。
勿論、ペースは落ちるかもしれませんが、今後も頑張りますー。
長くお付き合いいただけると、ありがたいです。