秋・椿 1-4
箱膳に詰められた秋国王宮白焼宮で供される朝食は、和やかな歓談の中でなくなった。夏国王使者暁亮と秋国水軍将軍周藍は、それぞれ十八歳と十九歳、年の頃は同じだが、旅路を行く老爺に赤子の時に拾われ、最終的に夏国に仕えることになった暁亮と、秋国水軍を束ねる名門周家に生まれ、一家の跡取として育てられてきた周藍とでは、歩んできた人生は全く異なっており、また育った国の違いはちょっとした習慣の違いにもつながって、食事をしながらの他愛のない雑談は、互いになかなかに興味深かった。
(もっとも、お互いに生活上のちょっとしたこと、小さな趣味しか話題にしないのは、そこから国情が知られては困るという警戒の上だな)
最近感銘を受けた古代詩を解説しつつ、暁亮は眼前の青年周藍を見遣り心中で思う。
(周囲で自分にかかわる人の名前が出ず、地名や産物、店に並ぶ商品も話には上らない)
表面上はにこやかであっても、警戒の線は確固として引かれており、それを崩さない。
(子規殿が人好きがする性格なのは、もともとのものなのだろうが‥。その平衡感覚があるから、陽王も子規殿を私の接待役に据えた訳か)
右側だけ前髪が長く、灰色の左眼しか見えない周藍は、意外にも鉱物が好きなのだと言った。
「紅玉や青玉、金剛石なんかの透き通った宝玉の類よりも寧ろ、翡翠とか、蛍石とかな‥」
「どちらもきれいな緑色ですね。山麓や森林の力を感じるというか‥ありきたりな感想ですが。持っていると落ち着く心もちがしますね」
ふふ、と暁亮は微笑む。
(身を飾り立てるためとか、高価で希少だからとかではなく)
(川原できれいな石を見つけて、持って帰ってずっと眺めている、そんな純真な子供の、ささやかな宝物みたいな)
素敵ですね、と頷くと、周藍は目を細めて照れながらも嬉しそうに頷いた。
食事が済むと、周藍は暁亮を伴って厩へと案内する。秋国内を案内してくれるというのである。
「陽王から直々に言われている。客人に秋国の風景を見せてやれと。まず紀の河沿岸の都市へ行こうと思う。この王都椿からも近いし」
「お気遣いありがとうございます」
(体のいい見張りだな。秋国内を下手にうろつかれては困ると言ったところか)
(紀の河は秋国と冬国の境。我が国夏国からは戦略上の価値は低い)
(まあいい。だから私は、夜に動くのだから)
周藍が手配した馬に騎乗し、護衛と従者を含めた一行は白焼宮を出、王都椿を出て道を駆けた。椿から近いとは言っても、国境近くの街までそれなりに距離はある。街道を進むとやがて視界には田園地帯が広がった。
異常な日照りが続き、秋の収穫を前にした小麦や米が軒並み不作となってからまだ数ヶ月しか経っていない。たった一度の不作くらいで普通は国が窮地に陥ることなどないものだが、時期と場所が悪すぎた。
被害にあったのは、椿から紀の河にかけての西部であり、秋国の最大穀倉地帯。多様な農作物を栽培している秋国の、主食の生産地帯が大きく被害を受けた。
また、紀の河の水位が半分以下に下がったため、最強を誇る秋国水軍を動かせなくなった。秋国は船に強く兵に弱い。王都椿も内陸奥深くではなく紀の河寄りにあり、冬国からの距離も近い。
もし冬国軍が紀の河を超えて王都椿、ひいては陽王の座す白焼宮を目指そうとすれば、大規模な戦闘が発生し、秋国は国の存亡を賭けて戦う羽目になっただろう。
『和平を申し出ましょう』
暁亮は、かつての夏国王宮清水宮での一幕を思い出した。
猛き諸将の並ぶ朝議で、武骨な場に不似合いな、琴をつま弾くような美しい声で夏国王明理に進言したのは、他でもない暁亮だった。
『和平だと?』
ほう、と不敵な獅子の笑みで聞き返す主君、明王。その双眸は貪欲に輝いていた。
獅子が無力な鹿を見つけた時の瞳。今から思うと、あれは全く待ち望んでいた顔だった。
(私は試されていたのだ)
(明王に。華鳴先生の後を継いで軍師足り得るかどうか)
(その才を、他者に認めさせられるかどうか)
暁亮が言い出さなければ、どこかから別の形でその結論が導き出されたのだろう。明王の中に既に秋国との和平は描かれていた。暁亮が明王の期待に背けば、きっと容赦なく刈り取られていた。
夏国王明理とは、まさしく異国の獅子の如く、明敏、果断な君主だ。
『大陸北西部、秋国と冬国で起こった不作に痛手を感じているのは、農産物の生産が主体の秋国だけ。冬国は自前の宝玉で自治都市星を介して、あるいは三国外から食料を買うことができる。
不作はそう何度も続かないでしょう。今冬国が秋国を落とせば、この一年、あるいは長くても何年か後に次の収穫期が来たとき、冬国は秋国の豊穣な食糧を得ることができる。そしてそれを資源にして、次は我が夏国の攻略を考えるでしょう。
そうなっては遅い。今、手を打つべきなのです』
『それで和平か』
『‥しかし、どこと和平を結ぶ。冬国か?』
『いいえ。秋国です』
からかうような口調で明王が問う。それに真向から応じ、暁亮はきっぱりと言い放った。
『はじめは渋るかもしれませんが、いずれ必ず、秋国は和平に応じる。自慢の秋水軍が使えない今の河の状況では、秋国は冬国の前にひとたまりもない。弱みにつけこむのではなく、恩を売るのです』
暁亮は、その名の如く視線に苛烈な暁の光を宿して周囲を見渡した。
『秋国と和を結んだとしてどうなるか。秋国は冬国の脅威に脅えることなく、自国の復興に努められます。夏国と和を結んだからといって秋国から冬国へ打って出る程ではない。ですがもし、冬国に和平を申しでたらどうなるか。冬国は秋国を平らげた後、夏国に牙を向く。冬国の国力ではそれができる。夏国との和平に応じる理由がないのです。今現にかの国は困っていないのですから。
秋国は違う。秋国は冬国におびえている。夏国との和平があれば、秋国が冬国に対抗できる力となる。夏国との停戦協定に価値を見出すのは、秋国が相手であるときだけ』
心配そうに義父であり師である華鳴が明王の横から見守っている。諸将は、若輩者の暁亮の意見に首を振り、沈黙し、反抗的に見返している。
だがやがてその中から、一人の男が口を開いた。
『‥桂淋殿の意見は、成程、頷けます』
『秋国と手を結ぶとは‥腹立たしい。だが冬国に頭を下げるよりはましか』
『仕方ない。‥賛成する』
はじめ不承不承といった態度で、だがそれもすぐに勢いづき、諸将は我先にと暁亮の案に賛成の意を示す。
一通り彼らの声を聞いた後で夏国王明理は玉座から一同に言い渡した。
『成程、暁亮の提案、皆の意見はわかった。
和平を秋国に申し出る。
無論、その段取りは暁亮、おまえが組め。私が出向くのはすべてが整ってからだ』
夏国王明理は、不承不承といった体で宣言する。
『どれ、久しぶりにあの狸の面を拝むことになるか。さて、秋国王陽斎の姿はどうなっているかな。あの腹が相変わらず贅沢な脂肪に膨れているなら、一度かっさばいて中を見て見たいものだが』
明理の過激な冗談に諸将は肩を揺るがせ大きく笑う。その中心で、夏国王明理は一瞬満足そうな視線を暁亮に向けた。その瞳は確かに暁亮の存在を認めていた。
流れる景色に回想は終わり、暁亮、周藍を含めた一行が足を止めたのは、秋国と冬国の境たる幅広き紀の河の川べりだった。
2月、野に彩りを加えるものはなく、収穫も満足に果たせなかった田畑は育つ緑もなく、見た目にも寒々しく、荒涼としている。
(こんな状態で、人々はどうやって暮らしているのか)
(何を食べて。何を思って)
今は水位が下がった河は、冬空を映して緑灰色がかった水面に小さくさざなみを立てて横たわっている。かつての水のありかを思わせるように、川べりはふちの色が途中から変わり、植生が異なる断面を露わにしていた。
この大河を挟んで向こう岸に冬国がある。天候のためか、街並みは今は霞んでいて細部までは見えない。
(あそこにもいるのだ。私たちと同じ人々が)
親のない赤子であった暁亮を拾ってくれた老爺に連れられるまま、暁亮は諸国を旅した経験がある。
(どこへ行っても、人は同じ、食べて、寝て、ものを思い、人を愛し)
(なぜ三国に争いが絶えないのか。なぜ同じ人なのに、争わなくてはならないのか)
この世から争いがすべて消え去ったら。
誰しもが豊かになり、生活に困らず、笑い合って生きていける、そんな余裕を手にすることができたら。
(そうしたら、少しは、)
(私も、誰かに必要としてもらって、どこか片隅ででも、生きていくことができる?)
「もう少しはっきり見える筈なのだが」
先頭を行く周藍が、客人に思った光景を見せられないと残念そうにこぼす。
その時、河から丁度冷たい冬風が吹き、暁亮はぶるっと身を震わせた。
「申し訳ない、気づかなかった。桂淋殿が着ているのは夏国の服ではないか。そんな薄手の生地では寒い筈だ」
さっと周藍が外套を脱ぎ、馬を寄せ、暁亮の肩に脱いだ外套を着せかける。
「これでいいだろう」
「いえ、でもこれでは子規殿がお寒いのでは」
「いや、まあこれくらい。慣れているし。しかし桂淋殿はもしかして夏国の服しか持ってきていないのか?夏国よりこちらは気温も低い。白焼宮へ戻る前に、いくらか椿で見繕った方が良いのではないか。客人に風邪でも引かれては敵わない。
それとも、夏国使者の手前、秋国のものを身に着けるのは触るだろうか」
「少しは手持ちがあります。今日は油断しておりました。あの、子規殿、‥」
纏った外套は厚地の織物で、少し重みはあるが、何よりも暖かい。
「‥ありがとうございます」
暁亮は素直に礼を言い、そっとその外套の端を押さえる。きちんと着なおすと、背の高い周藍にあつらえられた紺色の外套は、小柄で華奢な暁亮には一回り大きかった。秋国風に左の前身が開いている様式で、そこからだけ覗き見える暁亮の線の細さと、外套のしっかりとした作りが対照的になり、暁亮は随分と壊れやすそうに見えた。
「‥何を笑っている」
「いえ、何だか奇妙な具合だと。子規様は、桂淋様が接する様子は、まるで‥」
「おい、失礼だろう」
くすくす笑う従者の一人に、横からもう一人が肘鉄を喰らわせる。彼らが省略した言葉の先を、さらりと暁亮が続ける。
「まるで、女性を扱うようですよね。この方、子規殿は普段から余程女あしらいがお上手なのでしょうか?」
「いえ、あの‥」
客人である暁亮から指摘され、秋国人の面々が焦り戸惑う顔をするのを面白く見つめた後で、暁亮はふふっと笑いをこぼした。
冬の寒空の下、河からの冷たい風に吹かれているというのに、そんな状況は消し飛ぶような、春の陽だまりがとろけるようなやわらかい微笑。
気づかず皆が言葉を失くし、花開く桜の樹の下にいるような錯覚を覚え、暁亮の美しさに見入ってしまう。
「‥そんなつもりはなかったが。失礼は許してほしい。他意はないのだ」
一番最初に立ち直った周藍が、ぼそぼそと弁解した。
「仕方ないのかもしれない。私が桂淋殿にそんな風に接してしまうのも‥。なにせ、桂淋殿は美しすぎるのだ」
「今のところ、不快には感じていませんので。大丈夫ですよ」
「それは良かった。あと‥」
きっ、と周藍は他の従者たちに鋭く視線を走らせる。
「普段から女あしらいがうまいとか、冗談ではないからな? そのような覚えは全くない。そうだろう、お前たち?」
「は、はいっ! 勿論です! 」
「全く浮いた噂の一つもありません! これっぽっちも! 不思議なくらい!!」
「せいぜいが緑都様くらいで! いやあのっ‥! 今のは何でもありませんっ!!」
「緑都!? おまえたちの目は節穴か! 緑都などこっちから願い下げだ!!」
突如始まった口喧嘩に、あらまあ、と暁亮は目を丸くする。
(子規殿麾下の水軍副将軍‥だったかな。女性で体術の達人とか)
周藍はじめぎゃあぎゃあ喚く人々に、しかし、仲が良くて結構なことだな、と暁亮は心中で呟いたのだった。