秋・椿 1-3
「いい朝だな。昨日に引き続き今日も晴れている。冬空にしては青い」
秋国王宮白焼宮の一室。夏国王明理の名代として和平調印の使者を務めた暁亮が与えられた自室に、声もかけずに扉を開けて入って来た秋国水軍将軍周藍はそんなことを言った。
洗面用の水で顔を洗っていた暁亮は、驚きつつも辛うじて声を飲み込む。
(何も言わずに勝手に入って来るような人間なのか。この男は)
確かに、朝の支度に侍女が行き来するため、内鍵を開けていたのは暁亮自身だが。
(それにしても普通は一言あってしかるべきだろう)
(着替え中だったりしたらどうするつもりだ)
様々な意味で大変まずいことになる。
丁度背を向ける格好になっているのをいいことに、冷静を装い、ごく自然な動作を心がけて暁亮は洗面を終え、顔を上げた。
「無礼な人ですね。貴方は。一体何の‥」
御用ですかと続けようとして、暁亮はまたしてもその言葉を飲み込んだ。
聞くまでもない。周藍の手は、朝食を入れたであろう箱型の膳を二つ、重ねて持っている。
「‥食事を持ってくるのは、侍女ではなかったのですか」
秀麗に三日月の弧を描く眉を顰め、非難も露わに暁亮が言うと、周藍は努めて明るい声で答えた。
「私の部屋はこの奥でな。二人分の食事を運ばせるのは、侍女殿に気の毒ではないかと思って」
「分捕って来た訳ですか。全く、‥」
言ってから、暁亮は気づく。
(これでは昨日の繰り返しだ)
(何だって私はこの人にこれ程突っかかっているのか)
(相手は秋国重要人物の一人。気にせず受け流していればいいのに)
当の周藍を見ると、やはり気に障ったように強張った顔をしている。
(またー)
(失敗した)
暁亮は、夏国の同僚たちの顔を思い出す。今の周藍と同じ顔。忌避し、非難し、あっという間に離れていく人たちの顔。
だが、周藍の続く言葉は、夏国の彼らとは異なっていた。
「‥まだ疲れが取れていないのだな。そうなのだろう。大役の後なのだから」
謝るべき言葉を探す暁亮よりも先に、周藍は自らに言い聞かせるようにそう言い、朝食の膳を中央の応接用長卓に置いた。
「昨日もすまなかった。夏と秋、いくら隣国とはいっても王都同士の距離は遠い。大切な親書を預かり、明王に先んじて一人馬を馳せて来たのだ。疲れない訳がない。疲れた人間は平静よりも怒りっぽくなって当然だ。すまない。私が悪かった」
俯き加減で朴訥に謝罪する周藍を、暁亮はしばし見つめる。
「同じくらい、いやもしかすると自分よりも年下の人間が、王より大役を任され見事に果たした。興味もあり、嫉妬もあったと思う。そんなつもりはなかったが‥多分そうなのだろう。変につっかかって悪かったと反省している。許してくれるだろうか」
「‥」
暁亮は周藍の側へと歩き、長卓の椅子を引いた。
にこやかに心から微笑する。
「どうぞおかけ下さい。立っていては食事はできません。昨日、私こそ申し訳なかった」
貫くような強い藍色の瞳の輝きがふっと和らぎ、川の水面が弾く春の陽光のように細かく散る。その様に見とれつつ周藍は頷き、引かれた椅子に腰かけた。
「美しいな‥」
「‥どうも、ありがとうございます」
(‥この言葉には、どうしても機械的な反応をする癖がついてしまったようだ)
膳を受け取り並べ、水差しから二人分の水を注いで配りつつ暁亮は自戒する。
これではせっかく謝罪してくれた周藍の気分をまた害してしまうのではないか。
だが周藍は暁亮の返答など大して耳に届いていない様子で、前髪に隠れていない左眼はぼうっとかすむような眼差しをしていた。
「やはり、桂淋殿は美しい。冷たいなどと言ったのは取り消そう。貴方の美しさは実を伴ったもの。命なき人形のような作りものじみたものではないな。-さぞかし夏国では人に好かれていることだろう」
暁亮は目を見張って首を振った。
「とんでもない。少なくとも、貴方には及びませんよ」
(周藍‥子規どのには驚かされてばかりだ。全然予想もつかないことを言う)
そうだろうか、と心底不思議そうに彼は呟く。そうともと暁亮は心中で相槌を打ちつつ、周藍の評判を思い出す。
(第一王子陽梨の腹心、王女陽貴とも幼馴染の付き合い。先代が行軍中の事故で亡くなったため早くに周家を継いだが、若さの割に部下からの不満はない。家柄と人柄の両方で秋国宮中からの信は篤い将来有望な若者)
(やっかみもほとんど話に出なかった。采配する秋水軍も人間関係は良く、うまく回っているらしい)
(全く、及ばないのは私の方だな)
暁亮は自国夏での自分の扱いを思い出し、自嘲する。
自分が好かれているのはごく一部の奇特なひとびとからだけ。夏国王宮の女性陣は暁亮に良くしてくれるが、それは所詮容貌が優れているからに過ぎない。またその女性陣からの厚遇が、同僚である男性仕官たちから嫌悪を向けられる理由の一つともなっている。
「貴方の率直さには驚かされるし、そのせいでしょうか、私も貴方に好感を持っています。良き隣人の一人として、今後も仲良くお付き合いしていただけると嬉しいですね」
感じたままに暁亮が周藍に告げると、周藍は途端に顔を赤く染め、言いにくそうにこぼした。
「その、貴方というのは、やめていただけないだろうか」
「え?」
「その‥その美しい桂淋殿からそんな風に呼びかけられると、なんだか変な気持ちになるのだ。これは、桂淋殿には全く非がなくて、私が勝手に、そうしてもらいたいだけなんだが‥」
「女に囁かれているようですか」
くすりと笑って暁亮が言うと、周藍は慌てて頭を振る。
「違う、桂淋殿を侮辱している訳ではない。が、何せ、桂淋殿の声はあまりに心地よく響いて、いや、その眼差しがあまりに柔らかで、‥その、だから‥」
「生憎ですが、私には同性に愛を囁く趣味はありませんので。‥では、なんとお呼びすれば? 将軍とでも?」
「ああ、字を伝えていなかったか。いや、そもそもきちんと名乗らなかったな」
全く、昨日の自分は申し訳ない、と周藍は再び謝罪する。
(貴方の名も字も、他にも、存じ上げているけれども)
それは口にはせず、ただ暁亮は困ったように首を小さく傾げた。
夏・秋・冬の三国のうち、夏と秋では、親しい間柄か目上の者でなければ、成人男子の名をそのまま呼び名として用いるのは礼を失するとされていた。そのような場合、成人する少し前に両親や尊敬する人等から与えられる「字」と呼ばれる別名を使用する。暁亮のことを周藍が「桂淋殿」と呼び、秋国王陽斎が夏国使者である暁亮や自国将軍の周藍を本名で呼ぶのはそのためだ。
「改めて。秋国水軍将軍の一人、周藍だ。字は子規。今後は字で呼んでいただけると助かる」
「夏国文官暁亮です。使者の任に当たり夏国王名代となりましたが、その任ももう果たし終えたので、今はただの文官です。字は桂淋ですが、もうご存知ですね。今後とも何卒宜しくお願いいたします。貴方のことは、これからは子規殿と」
暁亮は朗らかに微笑する。
「では、食事を頂きましょうか。子規殿にこの部屋まで案内されてから、昨夜はすぐに寝入ってしまって。昨日の朝から何も食べていないことになるんです」
「それはすまなかった。では早速いただくとしよう」
はにかみ、周藍は箱膳の蓋を取る。中には野菜の酢の物と和え物、白身魚の焼き物、果物、小麦の麺麭などが品良く詰められている。
暁亮は顔をほころばせ、その花が咲き乱れるような艶やかなさまに周藍は見入ってしまい、しばらくしてはっと気づいて慌てて視線を外した。
よく考えれば、周藍と暁亮の出会い編でした!