下級奴隷
「なあ、アンタ。オレの大事な衣装にそいつの血しぶきが飛んだぞ」
「何だと!?」
髭面の太った男は目を血走らせてこちらを睨んだ。
人間界なら間違いなく堅気の商売をする者の形相ではない。
普段のオレなら間違いなく逃げ出している。
でも今は強気の姿勢を崩さずに行くべきだ。
足元から頭でオレを値踏みするように見ると、途端に髭面の太った男の威勢の良さがまるで空気の抜けた風船のように一気にしぼんだ。そして、掌を返したように機嫌をうかがうような気色の悪い笑みを浮かべながら近寄ってきた。
「ああ、これは旦那。たいへん失礼をいたしました。いえ、もちろん今のは旦那に言ったんじゃありませんぜ?」
「そ、そうかそれは良かった。ところでそのサイクロプスだが────」
「本当に申し訳ございません!」
髭面の太った男はわざとらしく申し訳なさそうな声を上げると、痩せこけたサイクロプスに向き直り『このウスノロが!』と鞭を振り上げた。
「待て!」
オレの声に驚いて髭面の太った男の鞭が逸れて、痩せこけたサイクロプスの足元の地面を打った。髭面の太った男が不思議そうな顔でオレを見つめる。
「まあ、そう急くな。そんな奴隷をいくら鞭で打ったところでアンタに得はないだろ? それより何ならオレが買い受けてもいいぞ?」
「へ? コイツをですか?」
サイクロプスが驚いたようにオレを見上げる。
髭面の太った男も呆けたような表情を浮かべていたが、すぐにその口元に歪んだうすら笑いを浮かべて、鞭をまとめると腰にぶら下げた。そして、年度もへこへこと頭を下げながら手もみをして近付いてくると、オレの胸元についた血しぶきのようなブラッドボールの汁を自分の灰色のローブの裾で拭き取る。
「旦那はお目が高い! この印をご覧ください。コイツはサイクロプスの本場、バルバロス島産の一級品のサイクロプスでございます」
そう言ってサイクロプスの腕に入る三本線と丸で描かれた刺青を指さした。
先ほどまであれほど『役立たず』やら『不良品』やらと罵倒していたのに関わらず、悪びれることもなく『一級品のサイクロプス』だと言い切るあたりはある意味たいしたものだ。振り返るとバランが小さく頷く。どうやら『一級品』はともかく『バルバロス島』の件は本当らしい。だが、素人目にも決して栄養状態が良さそうには見えない。
「それでどうだ? 売る気はあるのか?」
「ええ。もちろんかまいません」
「いくらだ?」
オレがストレートに金額を聞くと、男はおもむろに髭を撫でつけて考える素振りを見せた。
「本来なら5万ゲルドと言いたいところですが、旦那にはコイツがとても失礼をいたしましたので、特別に1万ゲルドでお譲りいたしましょう」
5万ゲルドが一気に1万ゲルド。
高いのか安いのか、まったくわからん。
しかも、オレが所有する全額が13280ゲルド。
仮に1万ゲルドが破格だとしても、今のオレには決して安い金額ではない。
どうする……。
待てよ。オレ自信が最初に気付いてたはずだ。
このサイクロプスは素人目にも決して栄養状態が良さそうではないと。
『起動』「うっ」
密かに殻魔装を起動する。
息子と肛門を襲う違和感に思わず声が漏れる。
名称:不明
レベル:19
性別:♂
状態:困惑・衰弱・裂傷・打撲・失明
種族:サイクロプス
職業:奴隷
魔法属性:植物
やはり状態は良好にはほど遠い。むしろボロボロと言える状態だ。
そんなことは殻魔装を起動させるまでもなく見た通りなのだが。
『奴隷』の後にある『ジャモン』とは髭面の太った男の名前だろうか。
試しに男の方を見るが名前の表示は『不明』になっている。
衰弱と裂傷と打撲は見た目でも判断できる。
この状況に困惑しているのも明らかだ。
でも、失明とはどういう意味だ。
思わずサイクロプスを見る。額に巻かれた包帯がずり落ち、そこから大きな傷口がのぞく。オレの視線に気付いたかのようにサイクロプスが不安そうにオレを見上げた。やはりそうだ。このサイクロプスは目が見えている。
まさか殻魔装が誤作動したのか。
思わず振り返ってバランを見る。
誤作動ではない。バランの情報はきちんと表示されている。
「どうですか旦那。1万ゲルドはお値打ちですよ? 今なら一緒にこの反物もお付けしましょう」
急かすように迫る男が埃とサイクロプスの血がついた反物を差し出した。
オレは静かにサイクロプスを見つめる。何かある。何かあるはずだ。
その時、サイクロプスの額に巻いた包帯の隙間から見える大きな傷がピクリッと動いた。一瞬、傷口が開いたような。あまりにも不自然な位置だがもしかして。
「なあ、アンタ。まさかオレに不良品を売りつけようとしているわけじゃないだろうな?」
「な、何をおっしゃいますか!」
名称:不明
レベル:38
性別:♂
状態:動揺
種族:魔族
職業:商人
魔法属性:奴属
『状態』が『動揺』になった。
間違いない。やはりコイツは何か隠している。
「だって、そいつ失明してるんだろ?」
「!?」
サイクロプスの顔にわかりやすく驚きの表情が浮んだ。
よし。切り出すなら今だ。
「今なら5千ゲルド出そう。もちろんその血で汚れた反物ももらっておくよ。それじゃあ商品にはならないだろう。ただし、次にオレが口を開けば5百ゲルドずつ値を下げるぞ?」
男の顔が引きつる。
今日のオレは自分でも驚くほどに強気だ。
殻魔装を着ていることで気分的な余裕ができるのかも知れない。
「で、でも旦那、コイツはバルバロス島産ですぜ!?」
「嫌ならやめておこうか? 4500ゲルド」
「な、ちょっと待ってくれ。サイクロプスの奴隷は希少なんですぜ!?」
「そうなのか? だから嫌ならやめていいんだぞ? 4千ゲルド」
男の顔が歪む。状態が『焦燥』に変わった。
「待て、待ってくれ。4000ゲルドだ。4000ゲルドでいい!」
こうしてオレはサイクロプスの奴隷を買い受けることとなった。
結果的に髭面の太った男は、快くサイクロプスにかけられた奴属の魔法を一旦解除し、持ち主がオレになるように再び奴属の魔法を唱えた。
『奴隷』の表示の後が『ジャモン』ではなくオレの名前に変わった。やはりジャモンは髭面の太った男の名前で間違いなさそうだ。さっき男を見た時に『名称』が表示されなかったのはなぜだろう。
不思議なことにサイクロプスは魔法が解除された隙に逃げ出そうともせず、所有者が変更されるまで大人しくその場に跪いたままだった。
髭面の太った男は満面の笑みを浮かべて何度もオレに頭を下げたあげくに、血しぶきで汚れた物とは別の反物を更に五本も置いてその場を去ることになる。
オレが5千ゲルドを支払ってやったからだ。
ゲインロス効果。以前に読んだ雑誌に書かれていた簡単な心理トリックだ。
髭面の太った男はもともと5万ゲルドを1万ゲルドに値下げしてやると言いながら、1万ゲルドを5千ゲルドに値切られて一時は顔を引きつらせて明らかな不快感を見せた。それなのに結果的に更に反物を五本もオマケしたうえに満面の笑みで去って行った。それは、一時的に4千ゲルドまで値下がりしたのを自ら了承したにも関わらず、思いがけずオレが5千ゲルド支払ったことで、途中経過はともかく最終的に自分が期待した以上の満足度を得たからだ。
オレ自身も最初から値切ることが目的はなかった。奴隷の相場などまったくわからないオレに上手い価格交渉など出来るはずがない。何とかこのサイクロプスを助けてやりたいとは思ったが、こちらの手持ちとロストランドの深刻な資金不足を考えれば、ここで言い値の1万ゲルドをそのまま支払うわけにはいかない。
オレが心の中で設定した上限金額は5千ゲルド。それ以上なら諦める。ロストランドの領主としてのけじめだ。オレは上限と定めた5千ゲルドを最大限に生かすための提示をしたにすぎない。今回はそれが偶然うまくいった。
いつか彼女ができたらこの心理効果を利用して、デートの際にで大喜びしてもらおうと企んでいたのだが思わぬ場面で役立った。嬉しいような寂しいような。
「あ、ありがとうごぜえます、新しいご主人様。オデはグロウスと申します。ご迷惑ばかけませんように一生懸命に働ぎます。よろすくおねげえします」
痩せたサイクロプスが深々と頭を下げる。
喋り方に独特な特徴はあるが悪いヤツとは思えない。
「うん。オレはダンだ。よろしくなグロウス」
自己紹介を済ませて恐る恐る横目でバランの様子をうかがう。
いくらロストランドの経済状況を考えて1万ゲルドではなく5千ゲルドで買い受けたとは言え、買い受けたこと自体が領主としてはもはや奇行の類と判断されても仕方がない。非難の眼差しを覚悟しながら思い切って振り返ると、バランはいつもと変わらない穏やかな笑みを湛えていた。
「ダン様、お疲れ様でございました」
「バランさん、申し訳ない。成り行きでこうなりました」
「お謝りになられる必要はございません。私の目には素晴らし決断に映りました。それにダン様がお使いなったのはダン様個人のお金でございます。どうぞご自由にお使いください」
「それはそうなんだろうけど。ロックランドの経済状況からすると……ねっ」
「ダン様のご決断はロックランドの決断でございます。それに対し文句を申す者などございません」
逆に重すぎて非難されるよりキツイかも。でも、それは信頼してくれているという意味であり、主人であるオレにはそれを受け止める責任がある。
「グロウス、紹介するよ。うちの執事兼教育係のバランさんだ」
バランが微笑んだままグロウスに会釈すると、グロウスが『よろすくお願いします、バラン様』と慌てて深々と頭を下げた。
オレを中心に三人が並ぶとまるで不規則な階段のようだ。
バランさんの身長が165センチ前後。
オレの身長が176センチ。
グロウスの身長は2メートル以上。
二段目から三段目への段差が急すぎる。
「とりあえずグロウスの怪我の手当てをしなきゃだな」
「いや、あの、けっこうでございます。オデは下級奴隷ですので」
「いやいや。その傷は大丈夫じゃないだろ」
グロウスが明らかな動揺を見せ何か言い淀む。全身傷だらけにも関わらず気丈にも手当を遠慮している。サイクロプスというのはオレの想像を絶するタフな種族なのか。まさかそういう趣味の持ち主だとか!?
「それなら治療院を訪ねてみてはいかがでしょうか?」
「治療院? 病院みたいなもんですか?」
「そうでございます」
「じゃあ、とりあえずそこへ行きましょう」
オレたちはバランの案内で治療院へと向かった。オレとバランが並んで歩く少し後ろを反物を担いだグロウスがついてくる。オレたちが立ち止っても決してオレたちに並ぼうとはしない。奴隷というのはそういうものなのだろうか。そう思うと金で奴隷を買い取った自分の行為に今更ながら罪悪感を覚えた。
歩きながらバランがしてくれた説明によると、奴隷にも階級が存在するらしい。上級奴隷は一部の希少種族や一般の領民とほぼ同等の権利が与えられた特別な奴隷。中級奴隷はいわゆる普通の奴隷で、自由な婚姻が許されず、その間に産まれた子供は産まれながらに奴隷として所有権は主人に帰属する。
グロウスは最も低い階級に位置する下級奴隷だ。下級奴隷は何らかしらの重大な問題を抱えた奴隷であり、家畜以下の扱いを受けるのが一般的だ。グロウスが言い淀んだのはそのためだ。そんな自分のために治療院を訪ねてまで傷の手当てをしようとしているオレたちの行動が理解できなかったのだろう。
読んでいただきありがとうございます。