領主の朝 (下)
『それではお食事にご案内いたします』いつのまにか脱衣所の扉の陰に立っていたバランが、いつもの優しい笑みをたたえながら言う。
もう少しメルとの会話を楽しみたかった。
後ろ髪をひかれる思いで案内されるがままに朝食に向かう。
あとをついてしばらく歩くと大きな食堂のような部屋についた。
部屋の中央に長いテーブルがあり、左右に十脚ずつの椅子が置かれている。
オレは中央にあるひときわ豪華なひじかけ付きの席に案内された。
この部屋は昨日も来た。
ワインの飲みすぎで食事の内容までは覚えていないが。
目の前には既にパンケーキが何重にも積まれた皿と、色とりどりのフルーツが盛られた大皿が。その横にはたっぷりの蜂蜜とミルクの入ったポットがそれぞれ用意されている。
一番手前には何も置かれていない皿と空のティーカップが。
その横にはスプーンとフォークとナイフが置かれている。
「おはようございます。ダン様」
席につくといつのまにかメイドがすぐ横に立っていた。
長身で褐色の肌のショートヘアーの美人系の方だ。
「卵の調理方法にご希望はございますでしょうか?」
「と、とくにないです」
「かしこまりました」
何と答えるべきなのか選択肢が浮かばなかったのは、不意に卵の調理方法を聞かれたからではない。吸い込まれそうな彼女の深緑色の瞳を間近で見てしまったせいだ。
目の前にいるのにCGかと思った。
いくらも待たずに大きめの橙色に近い黄色のオムレツが運ばれて来た。
湯気が上がりひと目でふんわりとしているのがわかる。
早速、ひとくち口に運ぶとその濃厚な味わいに衝撃を覚える。
中に具は何も入っていない。
ただの卵の塊がこんなに美味いとは。
「美味しい!」
思わず口をついて出た言葉に、隣に控えるメイドが少し驚いたように深緑色の瞳を大きくした。そのあとに見せた笑顔が意外なほどに可愛らしく、オレの胸に天使の矢が突き刺さったのが見えた気がした。
モデルのように整った端正な顔立ちとのギャップに釘付けになる。
まさにギャップ萌え。
「お飲み物は何をご用意いたしましょう?」
「えーと、温かいコーヒーかお茶のようなものはありますか?」
「はい。あいにくコーヒーはございませんが、ロックランド・カスミール茶ならすぐにご用意できますが」
ロックランド・カスミール茶?
どんなお茶なのかまったく想像がつかない。
「ダン様、ロックランド・カスミールはこの辺りに自生するハーブの一種でございます。花の部分を摘み取って風通しのよい場所で数日陰干ししたものを沸かしたのがロックランド・カスミール茶でございます」
部屋の隅に控えていたはずのバランがいつのまにがすぐ後ろに来て囁く。
執事というより忍者だな。
「なるほどハーブ茶か」
「はい。食欲不振や内臓の機能回復への効果がございます」
「じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」
長身の肌の美人系メイドに向き直って注文をすると、深々と頭を下げて奥の部屋へと姿を消した。
しばらくして運ばれてきたロックランド・カスミール茶は、ほんのりと色付いた少し甘味のある独特の香りを漂わせていた。
口に含んでみると甘い香りとは裏腹に微かな苦みが広がり、じんわりと体に染みわたるような優しさを感じる。
これならオレの二日酔いにも効果がありそうだ。
「よろしければパンケーキをお取り分けいたしましょうか?」
「あ、お願いします」
長身の美人系メイドのきめの細かい褐色の肌が、こんがりと焼き上がったパンケーキへと伸びる。皿に取り分けてそのうえにたっぷりの琥珀色の蜂蜜をかけて、最後に若草色のビー玉ほどの大きさのフルーツを絞る。
何だろうこの美しさは。ただパンケーキを取り分けてくれただけなのに。
一切れ口に運ぶと爽やかな柑橘系の香りが鼻に抜け、あとからバターのようなコクと同時に蜂蜜の深い甘味が姿をあらわす。しかも、少しカリカリした表面とモチモチとした内側の触感の違いが絶品だ。
日本は不思議な国だ。ある時、大ブームになった食べ物が数年後には探すことすら困難なほどに姿を潜める。少し前にパンケーキがブームになったときも、冷ややかな目で店の前に列を作る人たちを眺めて通り過ぎた。
パンケーキとはこんなに美味かったんだ。それともこのパンケーキが特別なのか。
いずれにしろ彼女が取り分けてくれたからなのは間違いない。
続いて大皿に盛られたフルーツに手を伸ばす。厚めにスライスされたやや黄色味がかった乳白色のフルーツで、皮はくすんだ橙色をしている。
口元まで運ぶと何とも言えない果実特有の甘い香りが鼻先をくすぐる。
南国のフルーツを連想させる強い芳香。これは間違く美味そうだ。
そのままひと思いに口に放り込む。食感は滑らかでバナナに似ている。味は完熟したパイナップルと桃を足して二で割ったような感じだ。
もしオレが異国の地に住むのに必要な条件を上げるとすれば、まずは『食事』『言語』『治安』の三つだ。そういう意味ではここロックランドは悪くない。食事は美味いし、なぜか言葉も通じている。既に三つのうちの二つが該当する。
お屋敷暮らしで自然がいっぱい。しかも、素敵なメイドさんが二人も。案外オレの第二の人生はバラ色かもしれない。
「あの、名前を聞いていいですか?」
「今お召し上がりになった果物の名前でしょうか?」
長身で褐色の肌の美人系メイドが不思議そうにオレの顔を覗き込む。
まあ、たしかにそれも知りたいけど、今はそれ以上に知りたいことがある。
「いえ。あなたの名前を」
「あ、失礼いたしました。リリイと申します!」
リリイ。素敵な名前だ。容姿も仕事も完璧な美人メイドが、一瞬だけ頬を赤らめて恥ずかしそうに慌てる姿にはかなりの破壊力がある。
「ダン様、お食事が終わりましたら少しお話ししたいことがございます。お時間をちょうだいしたいのですが」
いつのまにかオレの背後に迫ったバランが、静かな声で改まった口調で話す。
いったい何の話だろう。
満腹だ。しっかりと朝食を堪能したオレはその後に二階の別の部屋に案内された。
落ち着いた雰囲気の素敵な書斎だ。部屋の左手に木目の美しい重厚な作りの机と椅子が置かれ、後ろの壁際には大量の書籍の並んだ本棚と、美しい置物と一緒にグラスと酒の入った瓶が並んだ棚が置いてある。
壁には二枚の全身画が机と同じ黒木で額装され飾られていた。
一枚は細部に銀糸で刺繍が施された漆黒のローブ姿で、自分の身の丈ほどの年代を感じさせる杖を手にした青白い肌で長い髭を生やした見知らぬ老人。もう一枚は黒いタキシード姿に衣装と同色のステッキを手にしてヴェネチアのカーニバルを思わせる装飾の施された白い仮面をつけた男性だ。
「ダン様のお父上と祖父君です」
オレの目線に気付いたバランが言う。
「父と祖父……」
ローブ姿の方は素顔をさらしているが見覚えがない。と言うことはそちらが祖父でタキシードに仮面姿の方が父だ。それにしても、なぜ仮面を。
「ダン様は祖父君をご覧になるのは初めてでらっしゃいますか?」
「はい。初めてです。何か魔法使いみたいな服装ですね」
「ご冗談を」
優しい笑みを浮かべるバランにオレも微笑み返す。
祖父の服装はこの辺ではさほど珍しいものでもないのかも知れない。
「ダン様の祖父君は魔法使いとは格が違います。祖父君は魔界史に名を残すほどの絶大な魔法の知識を有する大魔導師でらっしゃいます」
「は?」
何それ。また出たよバランジョーク。
このタイミングで? しかも、二人っきりの状態で?
正直ちょっとめんどくさい。
「えーと、ところで、何で父は仮面をつけてるんですか?」
「これは魔素の影響を緩和するための仮面でございます」
「魔素?」
「はい。魔界では目には見えませんがいたるところに魔素が漂っております。もともと魔界の産まれの魔族にとってそれは人間界の空気のような存在でございます。しかし、それ以外の者にとって大量の魔素を浴びることは時として命にかかわります。お父上は魔素への耐性があまり高くございませんでしたので、魔素の吸収を抑制する効果のある仮面をつけてらっしゃいました。肖像画のお父上が仮面をつけてらっしゃいますのはそのためです」
うわ。設定、盛りすぎでしょ。
中二病もここまでくると、ちょっと怖い。
「あの、バランさん。オレもそういうのは嫌いじゃないんですけど……」
「?」
「ゲームとかもけっこう好きだし、ファンタジー系の映画もよく観ますよ」
「ゲーム? ファンタジー?」
「えっと。その、ファンタジーにもいろいろなジャンルがあるわけで、あまり魔界押しされるとちょっとなぁ…って」
『魔界押しとは?』バランが怪訝そうな表情を浮かべる。
ヤバイ。やんわりと中二病を指摘したつもりだったが気にさわったか。
しばらくするとバランは何かを納得したように何度か小さく頷いた。
そして、オレを窓辺へと案内した。
「ダン様どうぞご覧ください」
バランはそう言って優しい笑みを浮かべながら窓の外に手を向ける。
この書斎は寝室とは屋敷のちょうど反対側に位置する。
中央に巨大な岩山が半分は白い岩肌を露わにしながら残りの半分を背丈の低い緑が覆い尽くす。その周囲には奇岩石群が立ち並び、所々に人間の背丈ほどの大きな多肉植物が所々に見える。
この屋敷から奇岩石群まで三キロ程度といったところか。
周りに建物がないため距離感がつかみ辛い。
実際にはもう少しあるのかもしれない。
「右奥に見えるアーチ状の奇岩石の辺りに、兵士たちがいるのがご覧になれますでしょうか?」
「あ、本当だ!」
バランが指すあたりに鎧姿の者たちが八名ほど見える。
何をしているのだろう。
「この位置からでは確認できませんが五年程前に奇岩石の合間に巨大な穴が出現いたしました。魔宮でございます」
「……」
魔宮ってオイ。更にエスカレートしてるじゃねえか。
「あの兵士たちは魔宮の見張りをしております」
「見張り? 何かから魔宮を守っているのですか?」
「その逆でございます。魔宮から現れる魔物からロックランドを守っているのでございます」
バランの中二病、ここに極まる。
魔宮どころか魔物まで飛び出す始末。もはや末期症状だな。
「おや、ご覧くださいダン様。ちょうど現れたようでございます」
その声に釣られて兵士たちに目をやると、慌ただしい動きで四人一組が二手に分かれ奇岩石のほうを向いて身構えている。兵士たちの動きに緊張感がみなぎる。
やがて地を這う巨大な蛇の胴体部分だけを切りとったような不気味な生物が、奇岩石の陰から姿を現した。兵士たちの大きさから推測すると体長は一メートル程度だろうか。それが二匹。
「グランドワームの幼体のようでございます」
「グランドワーム?」
「はい。無脊椎種の魔物でございます」
そう言うとバランは本棚から黒色の表紙で装訂された古めかしい本を出した。
目の前でペラペラとめくるとあるページで手を止めてオレに手渡した。
『名称:グランドワーム(魔物)無脊椎種』
『特徴:手足のない巨大な芋虫のような魔物。先端から粘液を飛ばす。体長は幼体では一メートル程度で、成体となると三メートルに達するものもある。生育環境により成体になると粘液に混じり毒液を飛ばすものもいる。』
説明書きの下にはグランドワームの絵が描かれている。
芋虫というよりは蛭にちかい。滑りのある赤黒い肌がリアルに描写されており、思わず体長一メートルの蛭を想像すると背筋に悪寒が走る。
「お父上の書かれた本でございます」
「父が?」
「はい。お父上は素晴らしい領主であると同時に優秀な研究者でらっしゃいました。生前は魔素と魔物の研究にかなりのお時間を割かれておりました」
研究者だった父が書いた本。
そこには地球上では見ることのない生物がたくさん書かれていた。
この時オレはようやく気付いた。
自分がいるこの場所がヨーロッパどではないことに。
「本当に魔界なのか……」
読んでいただきありがとうございます。