領主の朝 (上)
あぁ。喉が渇いた。
目が覚めるとオレは天蓋つきのベッドに横たわっていた。
上体を起こそうとすると目眩を覚えて大きくバランスを崩す。
体が泥のように重い。
そこは見覚えのない寝室だった。
窓から射し込む光の強さが、既に陽が高いところにあることを知らせる。
一瞬、夢の中にいるような不思議な感覚を覚えたが、頭の奥に響く微かな痛みが目の前の景色が現実のものであることを証明していた。
年代物のパソコンが性能以上の処理動作を行うかのように、オレは昨夜の記憶を必死にたどった。
そうだ。昨夜は何かの祝い事の席で人生初のワインを飲んだ。
栗色の三つ編みを後ろでまとめた何とも清楚で可愛いメイドさんと、長身で黒髪のショートヘアーが印象的な、見ようによっては少女マンガのイケメンのようでもある褐色の肌の美人のメイドさんがダブルでオレのお世話をしてくれた。
まさに人生の頂に到達した気分だった。
おかげでついつい飲みすぎてしまった。
そう言えば名前を聞くのを忘れたな。
女子にもアルコールにも免疫がないのだから仕方ないか。てへへ。
酔っぱらった母に無理やり缶チュウハイを飲まされたのとは満足度が雲泥の差だ。正直、味はよくわからなかったが、美女たちにお酌してもらうお酒は格別だった。
まあ、二十歳になったばかりのオレにお酒の味がわかるはずがない。
あ、そうか。誕生日だ!
オレ、二十歳になったんだ。
でも、それだけではなかったはずだ。
他にも何かもっと重要なことが……。
コン。コン。コン。不意にドアがノックされた。
「はい」
「失礼いたします」
反射的に返事をすると、にこやかな表情の山田が姿を現した。
「おはようございます、ダン様」
いや、この人、山田じゃなかったな。
たしか──── 。
あっ!!
思い出した。全部、思い出した。
バラン。この人たしか山田じゃなくてバランだ。
オレは二十歳の誕生日を迎え父の遺産を相続した。更にこの領地の領主となったことで、自動的にロックランド伯爵を名乗ることになったんだ。
そうだ。昨夜のあれは新たな領主となったオレを迎える祝いの席だ。
それにしてもバランのやつ昨日はとんでもない爆弾ぶっ込んでたな。
いきなり『魔界でございます』とかってドヤ顔されても。老紳士の中二病ってちょっとひくな。周りの皆もドンびきしすぎてスルーしてたしな。あの眼帯も意外とコスプレだったりして。
「朝食の準備ができております。ご案内してよろしかったでしょうか。それともお先に沐浴でもいたしますか?」
バランがそんなオレの考えなどお構いなしに問いかける。
沐浴。風呂のことか。
昨夜はそのまま寝ってしまったようだし、できればシャワーくらい浴びたい。
「あ、沐浴のほうでお願いします」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
バランは優しい表情で答えると、深々と頭を下げて部屋をあとにした。
相変わらず丁寧でそつのない対応だが、何となくあの笑顔が逆に怖い。
ベッドから起き上がり窓から外の景色を眺める。
屋敷は高台に建っており辺りを一望するには最適な場所だ。
ゴツゴツした岩肌の合間から低木と背の低い緑が顔を出す広大な土地が広がる。
まさに岩の大地だ。
遠くの方には背の高い木々が茂る森と湖も見える。
さすがは海外だ。自然がハンパない。
日本では決して目にすることのない景色を眺め、ずいぶんと遠くまで来てしまったことを実感する。
『ロックランド伯爵か……』ひとり呟く。
父が海外で働いていたのは知っていたが、まさか伯爵だったなんて。
あらためて考えると何か大変なことに巻き込まれてしまった気がする。巻き込まれたという言い方は変か。知らなかったとは言え自分で署名したのだし。
父のあとを継ぐと考えれば古い日本の慣習にのっとったことになる。
そう考えると悪い気はしない。受験に失敗して人生を見失い、とりあえず日々を過ごしていたオレにとっては人生の転機かもしれない。
ところで領主って何をするのだろう。
コン。コン。コン。
「はい。どうぞ」
「ダン様、沐浴のご用意が整いました。ご案内いたします」
バランのあとを歩き階段を下り、一階にある浴室に案内された。
八畳ほどのパウダールムのような脱衣所の奥に石造りの浴室が見える。『何かございましたらお声がけください』そう言い残してバランは脱衣所の前から姿を消した。
浴槽はかなり浅く、立った状態では膝の位置よりも低い。普通に入れば肩まで浸かるのは到底無理だ。しかも、なぜか浴槽にお湯が張られていない。
「失礼いたします」
昨日のメイドが現れた。
栗色の三つ編みを後ろでまとめた可愛い系の方だ。
とか言ってる場合じゃなくて、これから風呂に入ろうとしてるのに女子が脱衣所に現れるとかって、何で!?
「な、何ですか!?」
「あ、お背中を拭かせていただきにまいりました」
メイドがほんのり頬を桃色に染めて慌てて頭を下げた。
このふんわりした癒し系の雰囲気がたまらない。
よかった。まだパンツは脱いでなくて。
目が合うと微笑みながら恥ずかしそうに少しうつむいた。
惚れてまうやろー!
「お、お背中は自分で拭けますから大丈夫です」
「で、ですがお邪魔でなければ」
慌てて脱衣所の外に追やろうとするとメイドが少し寂しそうに呟く。
断じてお邪魔ではない。しかし、そこに立たれると風呂に入ることができない。
彼女の大きな栗色の瞳に不安の色が色濃く映る。
「あの、じゃあそこにいてもらって大丈夫なので、少しだけ向こうを見ててもらっていいですか?」
「かしこまりました」
彼女は嬉しそうに答えると深々と頭を下げ、回れ右をした。
オレはビクビクしながらパンツを脱ぐと、手で緊張気味の息子を隠して急いで浴室に入って扉を閉めた。
浴室と脱衣所の境は石材の床以外は、木材と磨りガラスで作られた簡単な間仕切りのようになっており、天井から三十センチくらいは柱だけで仕切りもない同じ空間で続いていた。
女子と同じ空間内で風呂に入る。
彼女いない歴二十年で二十歳のオレには刺激が強すぎる。
それにしても風呂から出たあとならまだしも、入る前から背中を拭くとはいったいどういう意味だったのだろう。まさか『お背中をお流しいたします』的なやつか。
何だかとてももったいないことをした気がしてきた。
ところで沐浴ってのはどうやってするのだろうか。
よく見ると浴室には大きめの琺瑯の桶にお湯が張られ、その横には木製の手桶が置いてある。これを使えという意味だろう。
「浴槽に入ってこの手桶で流せばいいんですかね?」
「はい。そうでございます。お手伝いいたしましょうか?」
「いえ。大丈夫です」
そう言えば沐浴には洗い清める意味もあったはずだ。
彼女が『拭く』と表現したのはそのためか。
このへんの地域では案外こんな感じの入浴方法が常識なのかもしれない。しかし、石鹸もシャンプーも見当たらないのはいったい……。
「あの、石鹸とかありますか?」
言ってから『しまった!』と思った。
『こちらでございます』とか言って入ってきたらどうする。
想像しただけで緊張で息子が更に縮み上がりそうだ。
「浴槽の横の棚にある青色の小瓶でございます。中にシャモワールの樹液が入っておりますので泡立ててお使いください」
シャモワール?
樹液ということは植物か。
それを泡立てるということは天然の液体石鹸のようなものなのだろう。
そういえばシャボン玉の語源になった泡立つ植物があると聞いたことがある。
シャモワールもそれに似たようなものかも知れない。
オレは青色の小瓶の蓋を開けて中の液体を掌にたらした。
十円玉ほどのシャモワールの樹液をこすって泡立てる。
顔に近づけると微かにミントのような清涼感のある香りが漂う。
普段つかっている石鹸やシャンプーに比べると泡立ちは物足りないが、この香りは嫌いではない。
石鹸の代わりにこんなものを使っていることを考えると、父は案外こだわりの強い人物だったのだろうか。正直、父のとこはあまりよく知らない。
父との記憶で覚えていることと言えば、小学校の入学式の帰りに父と母と三人でレストランで食事をしたことだ。不思議とそのとき食べたハンバーグの味は鮮明に記憶に残っている。
オレは掌の上の泡を頭と体につけると、そのままゴシゴシと一気に洗い流した。
さて、浴室を出る前にしなければいけないことがある。
「あの、名前を聞いてもいいですか?」
「はい? 私の名前でしょうか?」
「はい。教えてもらえますか?」
「メルティアともうします。皆にはメルと呼ばれております」
メル、見た目どおり可愛い名前だ。
ヤバイ。完全にタイプだ。
「メルさん、出ますからちょっと向こうむいててください」
「あの、『さん』も敬語も不要でございます。メルとだけお呼びいただければ」
「そうなの? じゃあ、メルちょっと向こうをむいてて」
「はい。かしこまりました」
女子を呼び捨てにするのは思った以上にドキドキする。
浴室から出ると脱衣所の隅にタオルと一緒に下着とガウンが置いてあった。
「ダン様、どうぞそちらの衣装にお着替えください」
「あ、はい」
「お脱ぎになられたものは横の籠に入れておいていただければ、私が後ほど洗濯させていただきます」
「え!? メルが洗うの?」
「はい。ご迷惑だったでしょうか?」
「い、いや、そうじゃなくて」
知らない女子に下着を洗ってもらうのは気が引ける。
それもこんな可愛い女の子に。
こんなことなら勝負下着をはいてくるんだった。
持ってないけど。だって勝負したことないし。
ここは素直にお願いすることにして、とりあえず下着は丸めてジーンズの下に隠して籠に入れておこう。
指示にしたがってシャツとステテコのようなパンツの上から、黒緑色のビロードを思わせる軽くて滑らかな素材のガウンを纏った。
「着替え終わったからこっち向いて大丈夫」
「はい」
少し恥ずかしそうに視線をそらしながらメルが振り返る。
「あの、籠に入れておいたから洗濯お願いね」
「はい。かしこまりました」
メルは耳の先まで桃色に染めながら、とっておきの笑顔で答え深々と頭を下げた。
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