初めてのゆーかい
じいさんが、豹変した。
「道を自分で覚えろ」
「……なんできゅうに、おしえてくれるの?」
「…………」
態度はあんまり変わってないが、町に行く頻度が地味に増えた。
でもって、その頻度が増えて3回目。大体1週間ぶりの今日、道を覚えろなんて言ってきた。理由は教えちゃくれないが。
シンリンオオガザミをじいさんが銛で仕留めた。
今日もパワフルで鮮やかだ。ハサミに捕まえられる前に銛で頭をぶち抜いて、そのまま持ち上げて地面だの、木だのに叩きつける。老体なくせに現役バリバリの漁師だけあって力も強い。
「あいつは横移動が遅いから、前か後ろからやった方がいい」
「……ハサミは?」
「うまく避ける」
適当だな、おい。
道を覚えろとは言われても、まっすぐ歩けば出られる。念のため、と目印らしい樹木や岩なんかの位置をじいさんは教えてくれた。もっとも背の小さい俺にはちょっと見つけづらいけど。
それで林を抜ければ、あとは迷うことなんてない。林を出て右手側へひたすらまっすぐ行けばいいだけだ。じいさんだけなら半日未満で行けてしまうが、歩幅が小さければ体力も大したことのない俺が自分で歩いているとそれなりに時間がかかってしまう。
ノーマン・ポートへ到着すると、まずは朝の漁で獲った魚を換金する。
それから、普段ならば日用品の買い出し――となるのだが、元々、大してじいさんは町に用事はなく、俺のワガママで同行をしてくれるだけだ。なので。
「ワシは適当に待っとるから、好きにしていろ」
なんて言いながら、漁港のあんちゃん連中と過ごす。
で、俺は放置プレー。町中なら大して心配をしないらしい。ま、俺も気楽でいい。
町の広場にある噴水に腰掛けて、本を開く。
そうして、読めない本をじいっと眺めては時折、ちらっと顔を上げる。そうしながら読んでくれそうな人を待つ。ただ、あんまり捕まらなかったり、興味を持って声をかけてくる人はいても、字は読めないなんて人もいたりする。
今日はどうだろうか――と待っていたら、やって来た。
「ねえ、キミ……。本読んでるの?」
胸がでけえ。腰に剣――じゃなくて、でかいナイフみたいなのをぶら下げている。
若作りしてる三十路って具合の、女だった。ただ服装がただの町娘って感じじゃない。マントなんてつけちゃっていたりするらへん、旅人みたいなものかも知れない。
「よみたいけどよめない」
「ふうん……。どんな本読んでるの? お姉さんに見せてくれる?」
「よんでよ」
「ここで?」
「ダメ?」
「そうね……いいわよ」
よっしゃ!!
女が俺の横へ座って、本を手にした。
身を屈めて、俺にも本が読めるようにしながら顔を下げている。自然、そうなるとおっぱいの位置も下がり、俺の顔に近づく。……これは、なかなか。
でも悲しいかな、俺は3歳児なのさ。
あと10年もあれば反応するところだったかも知れないけど、体がついていかない。
「…………変な本ね」
「いいからよんでよ。ここのつづきから」
すでに読んでもらった分の先を指定する。怪訝な顔をして女は俺を見てきたが3歳児らしく、そんなの気づきませーん、とばかりに足をぷらぷら振りながら本に顔を向ける。
何か言いたそうにしていたが、女はきっちり読んでくれた。
しかもけっこう、長いこと。せいぜい、10分も読んでつきあってくれれば上等くらいなのに、いくつもの章をまたいで、終わりに近いところまで読んでくれてしまった。お陰様でもう半分夜になりつつある。
「満足した?」
「……ありがと、ねーちゃん」
「どういたしまして。……ちょっと喉が疲れちゃった。ぼくは?」
「じーじがまってるから、もうへいき。さよなら」
「あ、待って待って」
さっさと漁港へ戻ろうと思って子どもらしく颯爽と帰ろうとしたら、肩を押さえて捕まえられた。
「なに?」
「もう暗くて危ないから送ってあげる。あたしと一緒に行きましょう?」
「あー……んー、うん」
まあ、いっか。
こんな平和な町なんだし、人攫いなんてこともないだろう。
それに美人だしな。じいさん、この美女を見たらどうなるんだか。
女に手を繋がれて歩き出すと大欠伸が口から漏れ出た。それをくすくすと笑われ、目をこすりながらついていった。
「……………あれ?」
漁港に向かってた――と思ったけど、意外と入り組んでるから迷ったか?
気がつくと暗い路地に入ってる。こんなところを通った覚えはない――けど暗くなって、見え方が変わってるだけか?
「ねーちゃん、ぎょこうは?」
「それよりもっといいところに連れてってあげる。喉乾いてない? あたしとお茶しましょう?」
あかん、関わっちゃいけないタイプだ。
幼児をさらうとか理解できなくて怖すぎる。
が、お茶しましょう、なんて言い出したらへんで俺の手を取る力が強くなって、痛くなる。しかも、大股になって慌ててついていかないと転びかねない。
「ちょ、いたいっ……いたい、からっ!」
抵抗を試みてもムダだった。引きずられていって、路地に面したドアを蹴り開けるようにして女が入り、引きずり込まれる。
そこは薄暗い部屋だ。いかにも悪巧みをいたしておりますよ、とばかりの。腕を引っ張られて、投げられる。ソファーにぼふんとぶつかる。カビ臭い。埃が舞う。
「一名様ごあんなーい、っと。ねえ、ボリス! ボーリース! まだ寝てんの、起きなさい!」
女が誰かを呼び始め、そーっとソファーを降りようとしたが無造作にナイフが床に叩き落とされて刺さった。俺の行く手を阻むかのように。
「逃げんじゃないわよ、さんざんつきあってやったんだから」
お金を払って相手してくださる女王様でございますか、あんたは。
でも、ちびるくらいの迫力だった。ギラッギラにナイフは光ってるし、重そうだ。
少なくとも今の俺には。女が呼び続けていると、ギシギシと何かが軋む音がした。顔を振れば階段を降りてくる人影――右目に切り傷、の古傷めいたものをつけた獣人だ。黒い髪と、黒い耳。耳がとんがってるのを見るに、犬っぽい。うん、犬だな。犬は好きなんだけど――いかんせん、イカついし、デカい。じいさんや、パパンよりデカく見える。壮年ほどの男だ。
「がなるな、ベニータ。聞こえている……」
「寝てたんでしょ、どうせ。起きてなさいっつったのに」
「んで、どうし――ああ、捕まえてきたのか」
ボリスとか言われた男が俺を見た。ベニータ姉やんがナイフを引き抜いて、腰に提げている鞘へ戻す。スランと金属の擦れる音が、何だか心臓に悪い気がする。
「……ここ、どこ?」
「ここかあ? ここはなあ、お前みたいな奴隷の製造所だ。逆らったら、痛い目に遭うから覚悟しろよ、小僧。泣いたら蹴り3発、泣きやまなきゃ涙枯れるまでぶん殴るからなあ?」
メーデー、メーデー! メーデーですよ!!
治安どうなってんだよ、この世界は!? こんな堂々と頭の足りてないやつを誘拐して奴隷に仕立てあげてんのかよ! 聞いてねえよ!
と、言いたいところではあるが、大人しくしてないと痛いことになりそうだから黙っておく。
「焼けてるガキだな……」
「小難しい本なんか読んでたから、何か仕込まれてるのかと思って。どうかしら、ボリス」
「知るかよ。おい小僧、何ができる?」
何ができるって言われても、何もできやしねえよ。
でも何かできるって言っといた方が良さげか? どうすっかな、できるだけ可もなく不可もなく――
「聞いてんのか、ゴラァッ!!」
テーブルが蹴っ飛ばされて派手な音を立てた。
しかも怒鳴り声がキーンと耳に響いてきてしまう。どんな肺活量してんだ、こいつ。あと、けっこうデカいテーブルなのに無造作な前蹴りでぶっ飛ばしてるぞ、これ。ヤバくねえ? ヤバいよなあ。
「ボリス、こんなガキなんだからそんなのしたって意味ないに決まってんでしょ。小便でも漏らされたらたまったもんじゃないんだから、ほどほどにしなさい」
ベニータは怖がる仕草も見せずにボリスの頭をひっぱたいた。カチンときたらしいボリスが大口を開けてベニータに怒鳴ろうとしたが、その口にはリンゴサイズの果物が放り込まれて粉砕された。果汁と果肉が弾け飛ぶが、もぐもぐとボリスはそのまま食べてしまう。
ぶっ飛んでるな、こいつら。
「そろそろ仕入れは終いにして売りにいくか」
「ええ、そうね。じゃあ今夜は飲みにでも行きましょ」
俺を地下室らしいとこに放り込みながらベニータとボリスはそんなことを言い合った。そして地下室のドアが閉ざされる。
「…………やっべえ」
思わず呟くと、地下室で何か気配がした。
ぽんっ、と音は――しなかったが、部屋に僅かな光源ができた。揺らめく、小さな炎だ。それに照らされる。
怯えている、獣人らしい子どもがいた。