もう二度と
荒れた空模様で、波も高い。今日は漁船は出ないだろう。
火天フェオドールの率いるフェオドール商会の館が焼け落ちてから、10日が経った。奴隷として捕えられていた老若男女の行方は、俺は知らない。
はめられている重い首輪はまだ取れる気配がない。
カギがないと外せないだろう。
あの後、カハール・ポートの舟楽亭へ戻るのに丸一日を歩き通した。
俺の格好を見た女将は目を剥いていたが、他の客に見られないようにさっと部屋へ通してくれた。
幸いにも荷物までは取られていなかった。なくなったのは寝間着が一着程度と、ハンネの命だけだった。
ただ呆然としながら、過ごした。
鬱陶しい首輪を力ずくで外してやろうかと何度も思ったが、爆発した拍子に宿が燃えることを憂慮してやらなかった。外へ出るのは、億劫だった。
ぽつぽつと雨が降り出して窓を叩き始める。
フェオドールは現れない。バリオス卿が戻ったという報せもこない。
ただ待って過ごした。
「お客さん、ご飯……持ってきたよ」
ドアを開けてから、そのドアを女将はノックした。それで気づく。
テーブルに食事を置いてくれる。片手だけあげて、簡単に謝意を伝えておくが女将は立ち去らない。
「大丈夫かい? ご飯も、あんまり食べてないし、外にも出ないで……」
「大丈夫だって」
「……その、首のだって……」
「大丈夫、大丈夫、外せるから」
しぶしぶ、女将は出て行った。
しばらく雨に包まれる町の様子を眺めてから、食事へ手を伸ばす。
体を動かしていないせいか、腹が減らない。
パンは半分、スープもパンに浸した分だけで充分だ。それでもうお腹いっぱいのご馳走さま。
正直、参ってる。
つくづく、この世界にはついて行きづらい。
多少の自信はある。戦うことにおいては、弱い方でない自信がある。
それでも勝てない強い存在がいる。まだ顔を合わせていないやつも山ほどいて、俺が知ってるのはその氷山の一角でしかないだろう。それだけならまだ分かる。
だが、心底うんざりしたのはフェオドールのような悪党どもだ。
本当に際限なくああいう輩は目につく。今まではどうにかできていたが――甘かった。
モラルの欠如も甚だしい。そんな言葉じゃ収まらないほどに残酷で、凶暴で、邪悪だ。
あまりにもムゴいことをしては愉快に嗤うのだ。
心底理解ができない。
正義感なんて人並みのつもりな俺でも、吐き気がしてくる。
どうしてああいうやつらは幅を利かせて生きていられるんだ。
どうしてあんなバカどもは野放しになってのうのうと生きていられるんだ。
どうして、いつも割を食うのはいつも善良なやつばかりなんだ。
オルトは人を愚かと言い切った。
だから賢明に生きようとするのだと。
嘘だ。
詭弁だ。
共感できるのは、人が業深で、欲深いという点のみだ。
人は愚かで、救いようがないだろう。
どれだけ誰かが必死に、清く生きようとてどこかで誰かがそれを邪魔する。
人の数だけ欲望があって、その中には相容れぬ――あるいは衝突せざるをえないものがあるから。
何度目とも分からぬため息を漏らして、ベッドへ転がった。
息苦しい首輪が、苛立ちを募らせる。
俺は一体、何を待っているんだろう。
フェオドールへの復讐か。
この嫌な町を離れられる瞬間か。
レオンハルトに生まれてから、俺は夢を持てていない。
夢を見た。
珍しくレオンハルトの記憶から垣間見たものだった。
ベビーベッドに寝かせられて、動けない俺。
小さなミシェーラ姉ちゃんが俺を覗き込んで、頬をつんつんと突ついてくる。
さっぱりリズムが取れないくせに連続で突ついてくるから、不愉快で泣きわめくと今度はマノンがやって来て高い高いをするのだが、本当に上へ放り投げてくるからビビってぎゃん泣きしてやる。
ブリジットが交替する。
何でかイザークまでやって来て、俺をつまみ上げてベビーベッドへ戻す。
最後にママンが来ると、俺を抱いて泣く。
そしてパパンが俺を捌いた鶏肉のように逆さまになるように足を持ち上げる。
『レオンハルト、恨むのなら強くなれ。でなければお前に価値はない』
なあ、パパンよ。
偉い騎士様だってミシェーラ姉ちゃんが自慢してたパパン様よ。
人の価値を決められるお前は、一体何様なんだよ。
「――お客さん、お客さんっ」
揺すられて目を覚ますと女将がいた。
「何、どったの……?」
「バリオス卿のとこの人が、お客さんに用があるって」
「ばりおす……ああ、バリオス卿」
「下で待ってるよ」
「あいよ、ありがとさん」
女将を出て行かせてから、着替えて宿の食堂へ降りていった。
そこにバリオス邸でもお目にかかった老人がいた。
「お待たせしまして」
「いいえ、こちらこそ長らくあなたをお待たせして申し訳ありません。
……その、首はどうなされたので?」
「ファッションです」
「ファッ、ション……?」
「ファッションです」
面倒だから押し通しておくと、老人は顔をしかめていたが気を取り直すように咳払いした。
「主がお戻りになりました。明日のお昼過ぎにお会いになりたいと」
「ランチは出るんですか?」
「いいえ、主は別のお客様と昼食を食べるご用があります」
「じゃあ、昼が終わってしばらくしてから……ってことですね。分かりやした」
「では、ご報告をいたしましたので、これで」
すぐに老人は立ち去った。
また部屋へ戻って、ベッドに転がる。
「首輪……外さねえと」
俺に回復魔法は効かないから、失敗すれば――死ぬだろう。
今度こそ、死ぬんだろう。
失敗すれば。
雨の音を聞きながら、どこで外すかと考えた。
鬱々とした雨音は思考力を奪っていると思う。こういう時は――どんな歌が良かったんだっけか。
ギターを鳴らしたい。
なかなかお目にかかれないだろうから、ファビオにもらったリュートでもいい。
今なら、何かいいメロディーが浮かびそうだ。
でもきっと、寂しい歌になるだろうから、手元になくて良かった。
首輪を隠すようにマントで顔のすぐ下まで覆った。
ハンネと一緒に歩いた坂を下り、雨に降られて人のいない漁港に立つ。
魔影を使うと、物陰に人がいたのに気がついた。振り返ると漁師の使っている、ちょっとした物置のようなものがあった。行き場のない人間があそこで雨宿りでもしているんだろう。それくらいなら別にいい。
マントを外して、首輪に触れる。
限界まで魔力を集めてから魔鎧を使い、力ずくで外す。それで首輪は爆発する。
生きるか死ぬかは、分からない。
可能性は未知数だ。
雨に濡れた髪から水滴が落ちる。
魔力を集め、全身に行き渡らせていく。
首輪へ手をかける。
もしも死んだら、それまで。
生きていたら、生きよう。
さんざん、あちこちで言われてきたが、今よりもっと強くなろう。
明日は今日よりも強くなって、明後日は明日よりも強くなって。
もう不覚は取らない。
弱くない、なんて消極的な立ち位置でなく、誰より強いになってやろう。
穴空きだろうが一度だけ魔法を使えた。
それに俺には魔技という俺だけの技がある。
じいさんに相手になってもらった。
ファビオにさんざん、しごかれてきた。
学院にはまだ俺よりも純粋に強い相手がいるだろう。
その全てを倒せるように。
もう二度と、俺の力が及ばなかったせいで人を死なせないように。
「――おいっ、何してんだよ!?」
精神統一をしていたら雨と波の音に紛れてそんな声がした。
どことなく見覚えのある子どもが、ボロ布を被った格好でいた。物置の中にいたのは、この子だったのか。だが、どこで見たんだったか。
「それ外したら、死んじゃうんだぞっ!?」
俺の方へ駆け寄ってきた子は、俺よりも少し背が低い。
首には俺と同じものがついている。――ああ、こいつも俺と同じとこにいたのか。
そうだ、ハンネと食事していた時に食い逃げをしようとして取っ捕まえられていた子だ。あの火事で逃げられたのか。
「死なねーよ」
「死ぬんだよっ!」
「離れてろ、お前が死ぬぞ」
少年を軽く突き飛ばして、一思いに首輪へ指を立てた。
もぐようにして首輪を握り、壊すと頭が吹き飛んだかのような衝撃が起きた。手の中にもぎとった首輪の欠片が残る。目の前が一瞬、炎で真っ赤に染まった。でも――
「……よし、楽勝」
首輪は、外れた。
手の中に残った首輪の破片を海へ投げ捨てる。
「な……なんで……?」
腰を抜かしていた少年が目を剥いている。
魔鎧を解いてから片手を貸して立ち上がらせる。
「魔技って言って、魔法じゃなくて魔力そのものを使った技術だ」
「魔技……」
「お前、行くとこないなら俺んとこ来いよ。教えてやるから、それ外せるようになれ」
誘うと少年はしぱしぱとまばたきを繰り返していた。
「俺はレオンハルト。お前は?」
「リュカ……」
「よし。じゃあリュカ、来い」
負けやしない。
どれだけキツい現実が目の前に現れようが、突き進んでやる。
俺の道には、直進しかない。