海のじいさん
目が覚めたらパパンはいなかったし、綺麗に掃除の行き届いた生家でもなかった。
カゴのようなものに入れられてて、いまだ馬車の中。かろうじて見えた窓からは濃い緑の葉をたっぷりと広げた木々が見える。
やたら、ガタガタと揺れている。どっかの山の中か?
「あう……あぶ」
誰かいるのかと声を出してみたが、ガタガタゴトゴトと揺れる音以外はしない。
馬車なら、御者くらいはいそうなもんだが、それは外だろうから俺の声も届かないか。赤ん坊をひとりにするとは危険だとか思わねえのかよ。一種の虐待だぞ、これは。
つか、何か尻らへんが気持ち悪い。
臭くね?
俺、漏らしてねえ?
精神年齢はハタチ過ぎなんだけど赤ちゃんなんだから、まあ仕方ない。
括約筋がゆるゆるなんだな、多分。あと腹も減った。いつもならブリジットがさくっとおしめも変えてくれるのに。
でも、泣いてどうなる。
御者は馬を止めて、俺のおしめを変えて、ミルクをくれるってか?
試すだけ、試してみるか。
「おぎゃああああああ――――――――――――っ!」
結果、無意味だった。
ひたすら粘って、30分か、40分か、体感だからどうにも分からないけど泣きわめきまくったけど意味はなかった。等速で馬車は進むばかりで何も起きやしなかった。
クソったれが!!
…………あ、クソを垂れてるのは俺か。
どんだけ経ったのか、また目が覚めたかと思えば尻を拭かれてた。いやん、えっち。
さっと周りを見ると小汚いボロ小屋だ。板を張り合わせた壁の隙間から外が見えている。ガラクタみたいなものもどさどさと壁際へ寄せられてる。
あと、磯臭い。
「おお、目が覚めたかい……?」
白いひげがもじゃもじゃのじいさんが俺の世話をしてた。薄汚い格好だ。目尻のしわが深く長い。ブリジットよか年は確実にいってるが、壮健そうな日焼けしたじいさんだ。黄ばんだシャツみたいのを素肌の上から直接着ているらへん、俺のいた家とはさっぱり違う。
あそこはイザークにいたるまで、身なりは綺麗だった。イザークをディスってるわけじゃなく。
「あば」
「待ってなさい、今、食事を用意する」
じいさんはおしめが外され、尻を拭かれた俺をふるちんのまま放置してどこかへ行ってしまう。
……いや、替えろよ。
新しいの寄越せよ、赤ん坊だから羞恥心がねえってか?
生憎、こちとら恥の文化を後生大事にしちゃう日本人としての価値観を持ってんだよ。
なんて文句を言える口じゃないから待っておいたら、しばらくしてスープらしいものを持ってきた。木の匙も一緒に。でもってじいさんは椅子によっこらせと腰掛け、俺を膝に乗せて一口ずつスープめいたものをくれる。離乳食か。
味は、よく分からん。
が、腹は減ってたし、遠慮なくいただいた。ちゃんとふうふうしてくれるらへん、このじいさんは分かってる。
食事が済むと、ちゃんと背中を叩いてげっぷまで出させてくれる。
そうしてから俺を腕に抱き直すとじいさんは小屋を出た。
感じたのは風。生臭さをはらんだ、潮風だ。磯臭いとは思ってたが、海にほど近い小屋にいた。大海原と砂浜。小舟がすぐそこに引き上げられていて、中に漁具らしいものが乗っている。
「お前さんはどこからきたんだろうなあ……」
「あう?」
海を眺めてたそがれる老人と赤ん坊。そこはかとないロマンを感じる――が、どこからきたって何だ。何だその衝撃発言。パパンの手引きか何かで、俺はどっかへ預けられるとかじゃないのか? そんな流れじゃなかったのか? パパンがあんな意味深発言してたんだぞ。
じいさんは黙して、潮風に髭をなびかせている。
「お前さんは海を見るのは初めてか? どうだ、すごいだろう?」
「あーぶう」
海なんて見飽きてる――ってほどでもないけど、初めてじゃない。
けど、このへんちくりんな世界の海と、俺の知ってる海に大した違いはなさそうだ。寄せては返す波。見つめ合うと素直になれなくなっちゃう、わびしさが……。
「これも何かの縁……。
せめてお前さんが一人前になるまではワシも死ねんなあ……。海の神様がくれた宝物かも知れん……」
状況が分からない――がじいさんはいいやつっぽい。
それに俺にはやれることなんてろくにないから、甘えておくとしよう。その内恩は返すよ、じいさん。よろしくな。
もじゃもじゃの髭へ手を伸ばすとじいさんは楽しそうに目を細めた。
数日、じいさんに世話されて分かったことがある。
じいさんはけっこう長いこと、ひとりで過ごしてきたんだろう。海に面したところへ自分で小屋を建てて、漁に出て食い扶持を確保している。やけに赤ん坊の扱いに手慣れてるから、子どもだとか、孫もいたのかも知れないが誰かが訪ねてくることもないし、同居人も俺の他にはいない。誰かがいたような痕跡もない。ワンルームの掘建て小屋住居だ。
肝心の俺がじいさんと一緒にいる経緯については昨夜、俺を寝かしつけながらちまちま話してきた。
何でも、海から流れてきたらしい。これが川だったら桃太郎だったが、海か。そりゃ、海の神様がくれた云々なんて言い出したくもなるかも知れない。
俺が入れてたカゴも一緒で、ご丁寧にカゴには俺の名前が書かれていたらしいから、前世と、生家に続く3つ目の名前を受け取ることにはならなかった。でも不思議なことにファミリーネームは記されていなかったようだ。
レオンハルト――という名前は庶民っぽくないらしく、貴族なのにファミリーネームまで書かれてないのをじいさんは不思議がっていた。
そこは多分、俺をどっかに移送してたパパンの思惑があったんだろうな。
まあでも運が良かったのだ。生まれて早々に死ぬことがなかったのは暁光だろう。立て続けにそう何度も死んでたまるかっつーの。
さて、そんなじいさん。
このじいさんを呼ぶ相手がいないから、このじいさんの名前も分からないが、まあそれは置いといて。
漁師である。てっきり、網を使ったりして漁をしているかと思えば素潜り漁をしていた。あの小舟は何度か乗せられたが、食い扶持確保の漁とは別の、趣味の魚釣り用っぽい。で、このじいさんの漁はすごい。
俺が起き出すより早くじいさんは小屋を出ていって、俺が起きるころに戻ってくる。
その時に食う分だけの魚を獲ってくるんだが、その中に明らかに魚じゃないのが混じっていた。閲覧注意だなんてネットでつけられるとんでもない魚もいるから、もしかしたら魚の範疇にはおさまるのかも知れないが、魔法、騎士に続いて、見るからに魔物だった。とうとうそんなワードが飛び込んできた
そう。じいさんは、魔物と魚を銛で仕留めて食らう。
俺は当然食えないが、この魔物がまた見るからに食えそうにないのに、じいさんは平気で食らう。
まあ、魚みたいな形だとか、ウツボみたいなヘビめいたもんなら、まあ分かる。食える。
だけど、じいさんが持ってくるのは目玉が6個も7個も、固体によって違うくっついている、いかにも――といった具合のグロテスクなものだった。もちろん、それだけじゃないにしろ、そいつの印象が強過ぎて俺には漁師ってより魔物狩人だ。
ちなみに捌けば、まあ肉と見間違う。だが捌かなきゃもう到底、食い物には見えない。
じいさんはそれを捌く前によく見せようとしてくれたが、あんまりキモいもんで泣いたね。近づけるな、って意味合いで。じいさんは面白そうにして死んでるそれを俺に巻きつけたりするもんだから、余計に泣きまくったけど最後まで快活に笑ってた。
いい性格のじいさんだ。
気が合いそうで何より。
じいさんの1日はのんびりしてるようで、案外そうでもなかった。
朝は漁。俺が起きる前に戻ってきて、自分のメシと俺の離乳食をちゃちゃっと作る。
それが済むと漁具の点検をして、終わるとふらっと出かけていく。帰ってくると小屋の裏手の林で手に入れてきたらしい食材なんかを持っている。もしかしたらどっかに畑みたいのを作ってるのかも知れないが、俺の離乳食は主にここから作られる。たまに魚のすり身なんかも混ぜてくれる。
で、またメシ。朝と一緒だから割愛。
その後は俺を抱き上げて釣りに出たり、砂浜をのんびり散歩したり。
夕方になる前にそれを切り上げて、またメシを食って、それで寝る。
そんな日々だ。じいさんは何もしてない時間を嫌うのか、ちょっとでも時間があれば動き出す。
そのせいで、俺がうんこ漏らそうがすぐに戻ってこなかったりする。
ちなみにファーストコンタクトで俺をふるちんにしてたじいさんだが、おしめ代わりになるものがなかったからの措置らしかった。着古した服みたいのを繕って、おむつを作っていたからようやく分かった。
「そろそろ……何かしらは探すとするか」
そんな、何となくじいさんのことが分かってきたある日。
朝食が済むとじいさんはそんなことを言って、何やら作業を始めた。いつもより多めに獲っていた魚なんかを箱に詰め、ひもでくくりつける。それから着替えて外行き――らしい格好になってから、銛を背負って俺を抱き上げる。
「町へいくぞ、レオン」
「あい?」
町、とな。
てっきり隠居を決め込んだじいさんかと思ったら、人里にも行くらしい。しかし、魚を箱に詰めたって、行くまでに腐ったりしねえのか?
ちょっとした旅だった。初めてじいさんは俺を連れて林の中へ入っていき、慣れたように歩いて抜けるまでに数時間。
林は背の高い植物が多くて蒸し暑かった。たまに魔物らしいのがいたが、ほとんどは近寄ってくるどころか逃げていた。魔物とは言え、動物と大差ない感じだ。ただ、ところどころに物騒なのがある程度の。
で、近寄ってくるどころか、猛然と襲ってくるような魔物もいた。でっかいカニみたいのだ。カニのくせに横歩きじゃなく、まっすぐも歩けてしまって、しかもでかい。大人の腰くらいまでの高さがあるサイズで、衝立が迫ってくるような具合だった。しかもハサミもこれまたデカくて、小型重機くらいはありそうだ。
ぶくぶくと口から泡を出しながら迫ってくるカニ魔物はホラー映画よりも怖かったが、じいさんは片手で銛を抜くと、それを振り回してぶっ飛ばした。
木にぶつかったカニに容赦なく銛を突き刺して仕留めるまで、ムダがない。
このじいさんは、ただものじゃないとハッキリ分かった瞬間だった。
「こいつの身はうまいが、今は邪魔だから放置するほかないか……」
しかも食いたそうにしていた。
軽くあしらうように倒してしまうとじいさんは銛を背に戻し、また歩き出していく。カニの死骸には近寄ってはこない魔物が群がってむしゃむしゃと食べていた。
林を抜けると平野だった。だだっぴろくて、どこまでも牧草地のように緑が広がっていた。
しかしよく見れば踏み鳴らされたような跡があって、じいさんはそれを辿るようにして歩き出す。また数時間も歩くと遠くに建物らしいものが見えてきた。あれが、町らしい。
「レオン、あれがノーマン・ポートだぞ」
「あう」
ノーマン・ポート、ね。
まあ、初めての町だし、期待しちゃうぜ、じいさん。面白いもん見せてくれよ。
海に面したのどかな港町ノーマン・ポート。
じいさんと一緒に俺はその町へと入っていった。