シオンとアインスの存在価値
エノラ王妃様がシオンさんと戦っている。
見たことのない、無数の魔法を駆使してシオンさんを近づけることなく圧倒していく姿は、一刻のお妃様じゃない。まるで、無数の戦いに身を置きながら魔法を磨き上げてきた、歴戦の大魔法使い。
「パーティクルアイス」
きらめく青白い光の粒がシオンさんの周囲に満ちる。素早くそこから抜け出そうとしたシオンさんが、僅かに粒に触れた途端、それが氷の花を咲かせた。シオンさんの体に、直接咲いたのだ。それがパキンとどこか耳に心地よい音を立てて弾けながら砕けると、花のあった箇所が骨まで消えて抉れてなくなっていた。さらに連鎖的に、次々と氷の花が咲いては砕けていく。たちまちシオンさんの全身が氷の花に埋め尽くされ、それが散ると直視できない痛々しい姿になってしまっていた。
「あなたはわたしに近づくこともできない。
どれだけ挑んできたところで、それは変わらない事実」
ふと――神殿で学んでいた時に誰かから聞いた話を思い出す。
とある泉に住まう神の話。その泉には、泉の神を守る2人の双子の姉妹がいて、巫女と呼ばれていた。彼女達は泉に近づこうとする者を追い返す。それでも向かっていく者は、巫女によって排除をされる。
巫女のひとりは、剣の使い手。
巫女のひとりは、魔法の使い手。
その強さは泉の神の加護を賜っているために常軌を逸しているが、彼女達は守るべき泉の神の力を消費することを疎んじて、必要最低限しか加護を使わなかったという。それでも尚、泉の神の持っているという清浄の奇跡を求めた者の全てを追い返し、あるいは実力をもって排除し続けた。
千の魔法を極めた巫女――王妃様の鮮やかな魔法戦に、そんなことを彷彿とさせられた。
「個人的には……あなたがこの国で、一生懸命に仕えてくれて、とても助かっていたし、レオンハルトのことも助けてもらえて、感謝をしていた。だからこうして痛めつけるのは胸が痛む」
淡々と王妃様はそう語るが、シオンさんを見据える瞳には油断の色が見えない。
きっと、王妃様は本心を口にしている。いまいち、シオンさんの事情は飲み込めていないけれど、彼を惜しんでいて、できることならば手にかけたくはないのだ。そしてシオンさんも、大人しくそうされてはならない気迫を持っている。
「自分はアインス……ナターシャ様のために存在し、ナターシャ様のために消えていく」
「そう。あなたが死んでしまうのは残念だけれど、もう相容れぬようになってしまったのなら仕方がない」
きっと、王妃様はどれだけ傷ついても立ちどころに傷を治してしまうシオンさんでさえ、下してしまうことができる。殺害という方法に頼らずとも、それが可能なだけの知恵と魔法を備えている。
このままだと、シオンさんは――いなくなってしまう。
それを悼む人がいる。シオンさんは本懐を遂げられない。
死ぬこともできないのでは、デアスに導かれてワルキューレのゆりかごに行くこともできない。未来永劫の失意と苦しみが待ち受けている。
「仕えてくれてありがとう。
そしてさようなら、あなたの壁新聞は嫌いじゃなかった」
そう言って王妃様が魔法を発動させようとした時に、そっと背中を押された。振り返るとイグニアスが穏やかな笑みをお顔に浮かべていらっしゃった。
希望と導の神、イグニアス。
わたしの信奉する、女神様。
「お、王妃様っ、待ってください!」
このままだとシオンさんは王妃様に葬られる。
それを哀れんだわたしの背を、イグニアスが押してくださった。
「……何?」
「重ね重ね、差し出がましいまねをして、申し訳ありません……。
けれどわたしは……シオンさんを、そのまま王妃様の魔法で滅ぼされることが、かわいそうなんです」
「かわいそうであっても、これは仕方のないこと」
「いえ、イグニアスはわたしの背を押してくださいました。希望はあります。シオンさんと対話をさせてください」
王妃様に深く頭を下げてから、いまだ体が治らずに地に伏しているシオンさんにゆっくりと歩み寄る。赤い瞳をわたしに向けている。彼の瞳には何かの情念によってたぎる炎がさかっている。
「十二柱神話が一柱、灯火神イグニアスの神官、第七階梯のマルタと申します」
イグニアスは希望と導の神。
どの神様より、人の未来を憂えて、少しでも良い世界となることを望んでいらっしゃる。
「イグニアス……弱小の神如きが、何をしたところで意味はない」
「確かにイグニアスは、争いを好まず、戦うための力を授けてくれることはありません。けれどイグニアスはどんな人でも、どんな生きものでも、この地上に生まれた全ての生命を見守ってくださっています」
「必要ない……自分はアインス、ナターシャ様のためだけに存在する」
「それは本心ですか?」
「……構うな、関わるな」
「わたしは……何だか、あなたがとっても強がっているように見えるんです」
灯火神イグニアスよ、迷える我々を導いてください。
固く心を閉ざし、悲しい道へ突き進もうとする彼が、デアスの苦痛の鎌に刈られぬように。
「オムニス・メミニ――」
イグニアスの力を使う。肉体から精神が抜け出るような浮遊感がし、シオンさんの中へと溶け込むように入っていく。異物が入り込んでくることによる拒否感が、わたしの体を電流のように痺れさせてくる。それに耐えながら、彼の中へと潜っていく。
「ここは――あなたの最初の思い出です」
そこには美しい銀の髪をしたエルフの女性がいた。シオンさんは今とは変わらぬ姿形で、彼女を見ていた。彼の記憶は、このエルフの女性と出会ったことに始まり、最初の感情が生まれる。ただ彼女を慕う、幼子が母に抱く無償の愛情だった。
彼女はひとりぼっちだった。気まぐれと、秘された彼女の目的によって彼は作り出された。多くの生き物がそうであるように、未成熟な赤ちゃんの状態から生まれたわけではない。あらかじめ肉体が作り出され、そこに鼓動が、意識が生まれて彼は生まれた。
それから多くの時が流れていき、彼は彼女を慕いながら、彼女の抱える孤独と寂寥を埋めたいと願うようになった。その自覚が生まれても彼は彼女との関係を崩すことを恐れた。しかしその想いは膨らみ、いつからか恋慕となっていった。静かな、静かな、ただ彼女が報われるならばどんな形でも良いと願う、消極的な恋心だった。
そして彼女も、孤独を紛らわすために彼に喋りかけるようになり、彼女が作った服を着せるようになる。しかしそれが逆に彼女の郷愁をじわじわと強めてしまう。とうとう、彼女は彼といる時間に苦痛を感じる。寂しさを紛らわせるために傍においた彼の存在が、逆に彼女の故郷への想いを強めさせてしまった。
彼は命じられ、彼女の一切のことを忘れる。
そして再び、長い長い時間が流れていく。彼は死なぬ身で、長い時間をかけて海を漂った。意識もとうになくした状態で、ずっと、ずっと、さまよい続けて、エンセーラム諸島に辿り着いた。
彼を拾ったレオンハルト王を主と定めて、よく仕え、よく尽くした。
そこには喜びがあった。覚えていなくとも彼は、彼女への想いを心のどこかに残していて、その思慕の念をレオンハルト王に置き換えていた。エンセーラム王国での暮らしは、彼には忙しくも満ち満ちたものだった。
「幸せだったんですね」
「違う」
否定はできない。これは全て、彼の中にあった、全ての記憶と想いだ。
百国会議で彼は、彼女と再会して、全ての記憶を取り戻す。再び、彼女の役に立てるというだけで、彼は幸福を抱く。また、彼女の傍に戻れる。また、彼女の力になることができる。
けれど彼は同時に、記憶を失っていた間の、彼女と過ごした時間とはまた別の幸せも忘れてはいなかった。
「違う」
「違いませんよ」
かたくなに、己をアインスであると主張するのは、シオンとつけられた名が、また別の彼にとっての幸福なヒビの象徴だったから。
「違う」
百国会議の場で、レオンハルト王とジョアバナーサの女王様と戦いながら、彼はためらった。
自分はシオンという名ではないと主張して、自分は敵であると主張して、その実、それを自分自身に言い聞かせていた。
「違う!」
誰もが、彼をシオンと呼ぶ。
リュカさんも、ロビンさんも、マティアスさんも。
そして王妃様も、シオンと呼んで、仕えていたころを労ってくれたのが、彼には苦痛だった。
「やめろ、違う! 覗くな!」
忠義を何よりも大切にしているから、彼女を裏切ることはできない。
彼女に仕えて、何も考えずに死んでいくことが唯一残っている道だとあなたは思い込む。でも、それはとても悲しいこと。
あなたは本当に、とてもやさしい人だけれどやり方が他にない。
彼女の役に立つことと、使命と記憶を失っていた時に受けた恩義を返すことを両立できないから、己の存在意義を作られた理由にあてはめる。頑なに、自分はシオンではなく、アインスであると主張をする。
シオンと呼ばれる度に、エンセーラム諸島での思い出が、そして、恋い慕っていた彼女の本当の名前が思い出されて、あなたは葛藤させられる。だからあなたは、シオンという名で呼ばれたくはない。記憶を消されても覚えていた、唯一の彼女のことが、彼女の本当の名前だった。それが自分につけられて、あなたはやるせない。
迷う気持ちは痛いほどにわたしも分かります。
けれど、もう後には退けぬほどあなたは、かつて己を救ってくれた人を、やさしくしてくれた人達を傷つけすぎた。だから後戻りはできなくて、悲しい道へ進むしか残されていないと思っている。
「違う!!」
「あなたに2つの道を示します。
彼女のために、多くの犠牲者を出す彼女の望みを叶えるために、このままアインスとして戦い滅びゆく道と。
灯火神イグニアスの導きを信じ、罪をすすいで再びシオンとして生きてゆく道と」
どちらを選んでも、それはあなたの意思。
できることならばわたしは、望みを繋いで前へ進んでもらいたいと思っています。
あなたはここでいなくなってしまうには、とても惜しい存在です。
傷つけてしまった過去が消えることはありませんが、きっとイグニアスの導きにより、あなたの在り方次第で失ったものを少しずつ別の形で埋めることはできるはずです。
「自分はアインス、ナターシャ様のために……ずっと、身を捧げてきた」
「怖がらないでください。
あなたが彼女のために尽くしてきたことも、何も変わりません」
「自分がいなくなれば……ナターシャ様は独りきりになってしまう」
「けれど彼女はすでに、無明の道に踏み入っています。あなたは追いつくことができない」
「それでも――!」
「誰よりもあなたが分かっていることのはずです」
彼女はもう、何者もただ利用する駒としか見てはいない。
「お願いします。あなたにはまだ、明日に繋げることのできる希望があります。
お節介で、自分勝手で、あなたの今の気持ちを踏みにじっていることも分かっていますけれど、それでも悲しいんです。あなたが失意の中で消えてしまうことが」
シオンさんが赤い瞳でわたしを見つめる。
両手を差し出し、彼を待つ。一歩、彼が近づく。二歩、彼が手を伸ばす。三歩、彼の傷だらけの手が、わたしに触れる。
「灯火神イグニアスよ、あなたの導きに感謝します……」
わたしの肩越しに、シオンさんはイグニアスを見ていた。




