何があっても、絶対に
精神感応魔法。
他者の心に介入する、高等魔法だ。
学院にいたころは学ぶことさえも禁忌とされる、禁断の魔法のひとつでもあると教わった。しかし、ごく稀ではあるが、人を惑わせる魔物が存在し、精神感応魔法を使う。
ディオニスメリアにはいないが、僕の故郷の森にはたまに出てくる魔物だ。狩りの対象になる魔物じゃないが、出くわした時に身を守る必要があって、金狼族の戦士はその方法を教わる。ラルフを見せるために故郷へ行った時、僕はそれを学んだ。口に苦すぎる薬草を含み、噛んですり潰しながらその場を離れるという方法だった。
魔法を使わずに対処ができるなら、それでいい。けれど魔法でそれができても良いと思ってしまうのが、魔法士の性だ。薬草の成分を調べて、どんなメカニズムで精神感応魔法へ対抗しているのかを明らかにした。今度はその効能を魔法でどうやって再現するか、だ。
これは難儀したが、どうにか方法を見つけた。近かったのは、催眠の魔法だ。体内の魔力を外部から乱すことで、その刺激によって眠気を誘うことができる。催眠魔法は精神感応系統ではないとされているが、その有用性から魔法士ならば習得していることが望ましいとされている。だから、あえて系統から外すことで学ぶことも、習得できることもできていた。
ナターシャはリアンに精神感応魔法をかけたと確かに言った。それがブラフでなければ、僕が編み出した、催眠魔法を応用させたこの魔法でもリアンの精神に介入することはできるはずだった。
そして、その目論みは成功した。
リアンの魔力放出弁から、強制的に僕の意識を魔力とともに中へ潜り込ませる。
見えてきたのは、どこかの里山だった。
背の高い木々が並び、足元の土はわずかに湿り気を持った濃い土色をしている。精神の世界だからか、鼻は利かない。耳で何かを捉えることもできない。夢に似ている。恐らくここは、リアンの心象風景。リアンの故郷が彼女の心の中で具象化されている世界だろう。
見慣れた旅装のリアンが、無数の奇怪な黒い虫に取りつかれていた。
でっぷりと肥えたいも虫のような姿をしていて、外皮は薄そうな殻に覆われて、黒光りする殻はわずかに光を反射している。体長は30センチほどで、胴回りは鍛えている男の二の腕ほどの太さはありそうだ。それがリアンにくっついて、おぞましく蠢いている。必死になってリアンは剣を振り回しているが、それは虚しく空を切るばかりで一匹も払い落とせていない。
この虫が、ナターシャがリアンに仕込んだ魔法なんだ。
「リアン、大丈夫っ!? 今助けるから待ってて!」
駆け寄り、リアンにくっついている虫を掴んで引き剥がそうとする。しかし、そうするとリアンが悲鳴を上げた。
「ああっぐ……! それ、を――取ったら……!」
苦しげな声に手が止まる。
「なくな、る……。いなくなって、しまう……から……!」
「何が? なくなる? いなくなるって、リアン!?」
剣を取りこぼしたリアンの手が、僕の方へ向けられる。その腕へ虫が登っていく。膝からリアンが頽れる。――と、周囲の景色が一変し、砕けたガラス片のようなものが周囲に現れた。その破片のひとつずつに別々の光景が映し出されている。
「食べられ、る……引き剥がしても……わたしの、記憶が、消える……」
記憶が消える?
あり得ないと即座に頭が否定したが、同時に一抹の嫌な可能性を弾き出した。いや、直感的にリアンが置かれている状況を理解した。ここがリアンの精神世界だから。
この虫は今、リアンの記憶を食べているのだ。
こうしてリアンの心の中で、リアンの自我にくっついて葉っぱのように穴空きに記憶をむさぼり食べている。すでに食いつかれてしまっているから、この虫を引き剥がしたら食われている記憶ごと引きちぎられていく。
だが、放っておけば全てを虫に食われ尽くす。
リアンを救うにはこの虫を駆除しなきゃいけないのに、その過程でリアンは記憶を失ってしまう。
「リアン……」
どうして、こうなるんだ。
これまで僕はリアンを助けられたことがあっただろうか。いつだって、リアンは自分のことを棚に上げて誰かのために働く。いつだって、僕はそれを眺めながら気休めの言葉を吐くしかできなかった。
「ロビ、ン……ロビン……」
「っ……リアン、僕はここにいるよ」
顔の半分を虫に覆われている。左目だけが僕を見据えていた。今までに見たことがない、弱った瞳。こんな窮地に、僕は見ているしかできないのか。
「あなたを……マティアスを……傷つけてしまって、すみません……」
それでも彼女は、僕を気遣いほほえもうとする。
「ラルフはきっと……大丈夫ですから、あなたは戻って……わたしを、あなたの手で――」
「そんなこと、できるはずないじゃないか! 何か、何か方法はあるんだ、だって、ここまで来られた! リアンの代わりになれる人なんていない! 簡単に諦めないでよ、お願いだから……」
弱々しく、リアンは目を伏せる。伸ばされていた手を掴む。
リアンが死ぬなんて許せない。ラルフとリアンと、僕と、3人でこれからずっと暮らすんだ。
クラウスくんと一緒に、ラルフはすぐに大きくなっていく。ハイハイができるようになって、歩けるようになったら、あちこちに走っていこうとするはずだ。
ところ構わず、何でもかんでも口に入れて噛みたくて仕方なくなるころになったら、家中の家具をそうされてもいいものに取り替えなきゃいけない。それを作るのは、一家の主である僕の役目だ。でも、作るのはあんまり得意じゃないから、リアンに手伝ってもらわなくちゃいけない。きっとリアンは、そういう工作もそつなくこなしてくれて、僕が手伝いに回ることになってしまうだろうけれど。
「あなたのわがままは……聞いてあげたいんですが……こればかり、は……」
「……っ」
「お願いですから……。これ以上……時間をかけたら、全部がムダになってしまいかねません……」
「何でいつもリアンはっ……そうやって……」
「性分なんですよ……。あなたの、そういうやさしいところが、大好きです。けれど……」
嫌だ。
そんなの嫌だ。
リアンが命を落とすくらいなら、いっそ――。
「いつも、いつも…僕は何かをしてあげられなくて、してもらうばかりだったのに……」
「それでいいんですよ……。これでかなり、尽くすタイプだって知ってるでしょう?」
「これからは、僕がリアンのことをずっとずっと……助けていく」
「愛想が尽きたら……いつでも、捨ててもらって構いません」
「そんなことしない。
リアンがどうなったとしても、僕はずっと、リアンと一緒に生きたいから」
虫を掴む。
リアンの目が大きくなる。どこかで、ガラス片にヒビが入る音がした。
「惚れた弱みです……。いいでしょう、けれど……どうなってしまっても、愛してください」
「何があっても、絶対に。愛してる、リアン」
「わたしも、愛しています――」
掴んだ虫を握りつぶし、一気にリアンから引き剥がした。リアンの苦痛の悲鳴と同時、ガラスが割れる。次の虫を剥がす。手当たり次第に、蠢く虫を握りつぶしてはリアンの体から、引き剥がしていく。
真剣な表情で帽子を選んでいたリアンの記憶が砕けて割れた。
僕と、レオンと、マティアスくんと、そしてリアンと、4人で朝まで飲み明かした記憶が粉々になった。
僕の知らない商人らしい男性の顔が消える。
リアンの生家の家族の顔が消える。
学院時代の記憶が消える。
卒業後の旅の記憶が。
宝剣を抜いた時の。
国の皆の顔が。
リアンの記憶が、消えていく。
虫を引き剥がした分だけ、周囲に浮かんでいた記憶の欠片達も割れてなくなる。
ラルフを抱いた僕の姿が映し出された鏡。
それに最後の虫と連動してヒビが入った。
虚ろになったリアンの顔には、もう何の感情もない。
「ロビン……」
この虫を剥がしたら、僕のことも、ラルフのことも忘れてしまう。
里山はいつの間にか、綺麗になくなってしまっている。この光景を作り出していた記憶がなくなったからだろう。
「ごめん、リアン……。僕は、こんな形でしか……」
「いいんですよ……」
忘れられるのが怖い。
どれだけ記憶が残るのかも分からない。
最後の虫を引き剥がす。
ヒビ割れていく記憶。苦痛に歪むリアンの顔。
最後の虫を握りつぶすと同時に、記憶の欠片が砕けて消えた。
その場に倒れ込んだリアンを抱き起こす。ただ呆然とした表情で、僕の顔を見ていた。
「…………あなたは……どなたですか?」
か細い声で尋ねられる。
「ロビン・コルトー。
僕とリアンは、結婚しているんだ」
目を細めてから、リアンが僕の目元に指を伸ばした。
いつの間にか僕の目から溢れていた涙を彼女は払うと、ふっと、柔らかくほほえんだ。




