憂いのマノン
奥様が無事にレオ坊ちゃんがお産みになられたのは喜ばしいことだった。
レオ坊ちゃんも元気で、ミシェーラお嬢様も笑顔を見せている。本当に良かったと思う。
けれどいつか、レオ坊ちゃんがご自身の出生をお知りになられた時に。
ミシェーラお嬢様が、まだ知らされていないレオ坊ちゃんの秘密をお教えされた時に。
一体どうなってしまうだろうと不安になる。
今はまだ先のことではあるけれど、大切なミシェーラお嬢様とレオ坊ちゃんが、その時にくじけてしまわぬよう、今はたくさんの愛情を注いであげることしかわたしにはできない。
「おぎゃああああああああああああ――――――――――――――――――――っ!!!」
お洗濯物を干していたら、レオ坊ちゃんの泣き声がした。
レオ坊ちゃんはいつも分かりやすく元気に泣かれる。干そうとしていたシーツを籠に丸めて戻し、屋敷の二階へ走っていく。
「はーい、はい、レオ坊ちゃん、どうしましたか?」
ベッドから抱き上げる。臭いはしないし、ミルクはさっきお飲みになられたばかり。
となると、何でしょう? 何もなさそうなのにレオ坊ちゃんはいきなり泣かれることがある。こういう時は大体、胸に抱いてあやしてあげれば……。
「マノンがちゃんといますからね、レオ坊ちゃん〜。ほーら、よしよし、レオ坊ちゃんはお利口ですね」
泣きやんでくださる。
手がかからないような、変な手間が増えているような――いけない、こんなことを思っちゃ。
「レオ坊ちゃん、マノンは近くにいますから安心してくださいね」
泣きやんでくださったのでベッドへ戻して、早足にお庭へ戻る。屋敷の裏手側の庭はお洗濯ものを干すところ。ここに干したシーツが並ぶと、風に吹かれてちょっと綺麗な風景になる。
お庭から見えるテラスではミシェーラお嬢様がブリジットさんにお勉強を教わっていらっしゃる。レオ坊ちゃんがお産まれになってからは、立派なお姉ちゃんになりたいと意気込んでいらっしゃる。でももう、すでに弟のレオ坊ちゃんをとっても大切に想う、やさしいお姉さんですよ。
お洗濯を済ませて掃除を始めようとしたら、イザークさんが玄関で腕を組んでいた。コックとして雇われたのに、それ以外のお屋敷の仕事も率先してくださっている方だ。もちろん料理もおいしいけれど、手先が器用でものを直したり、お庭の手入れなんかもやってくれるからブリジットさんが助かると言っている。
「どうかしたんですか? イザークさん」
けれど、何もせずに考え込むようにしているのは珍しかった。
声をかけるけれど、イザークさんは難しい顔でわたしを見るのみ。極端に口数が少ない。どうしてかは分からないけれど。彼が目をレオ坊ちゃんのお部屋に向ける。
「……レオ坊ちゃんが、どうかなさいました?」
そう言えばイザークさんはレオ坊ちゃんとはあまり触れ合うことがない。けれどとてもやさしい人だから、気にはかけてくださっているはずだ。
「坊ちゃんが部屋を出て、あそこから落ちそうだった」
「何とっ!?」
イザークさんが喋った!?
「……………」
じと、と見られる。
「す、すみません……うるさかったですね」
こくりと頷かれる。
でも、イザークさんが無口だからいちいち驚いちゃうんですよ。わたしなんてイザークさんが喋るところをまだ20回も見ていないのに。
「え、ええと……レオ坊ちゃんが、お部屋を出ちゃったんですね。うーん、どうしてでしょう……? ドアを開けられるはずもないんですけれど」
はてな、と考えていたら、まだ視線を感じる。
じとり、とイザークさんがわたしに視線を向け続けている。やだ、見つめられたら照れちゃう。
「あの、イザークさん……? だ、ダメですよぅ、そりゃ、イザークさんは素敵な男性だとは思いますけれど、それでも、そんな……」
「ドアを閉め忘れるな」
言い残してイザークさんは行ってしまう。
あ、わたしがさっきお世話しに行った時にドア閉め忘れてたんですね。レオ坊ちゃん、動けるようになってから活発だから……。やってしまった。
と、そこでまたレオ坊ちゃんの泣き声。
今日は何だか多いかも知れないなんて考えて階段を駆け上がって飛び込む。
「はいはいはいっ、どうしましたか、レオ坊ちゃん!」
臭いもしないし、ミルクにしても感覚が早い。抱き上げてあやすと、すぐにレオ坊ちゃんは泣きやんだ。かと思うと、わたしの腕が窮屈とばかりに身をよじろうとする。
1日に3階もお掃除している、ちゃんと綺麗にした床へ降ろしてさしあげるとレオ坊ちゃんはドアの方へずりばいをして行かれる。こうして廊下まで出てしまったのか。でも。
「ダメですよ、レオ坊ちゃん! イザークさんが困ってましたよ、気づいたら部屋を出てて落ちそうだった、って!」
「あうっ!?」
「ひえっ……え?」
まるでわたしの言ったことを理解したかのようにレオ坊ちゃんがわたしを振り返った。驚いた――ような顔に見える。イザークさんが喋ったなんて、みたいな。
あれ?
うーん、でも……ハッ、わたしが大きな声を出しちゃったからビックリしちゃった?
「おぎゃああっ!」
「あわわわ、レオ坊ちゃん、ほーら、高いたかーい! よしよし、泣きやんでくださいねー」
案の定泣いてしまわれて、慌ててあやす。
しばらく泣かれていたけれど、レオ坊ちゃんは泣きやむのも早い。胸に抱いて揺らしていると、すぐに目がとろんとしてお眠りになられた。
「ふぅ……」
さあ、お掃除をしなくちゃ。
レオ坊ちゃんを起こさないようにそっとベッドへ寝かせて、窓を開ける。ちゃんとドアを閉めながらお部屋を出た。
「マノン、イザーク、お話があります」
奥様にお呼出を受けたのは、ミシェーラお嬢様がお眠りになってからだった。ブリジットさんが奥様の傍らに控える。奥様が幼少であったころより仕えていると聞いている。しかし、それを抜いたとて、奥様とブリジットさんがお並びになるとしっくりと落ち着くように見える。一枚の美麗な絵のように。
「はい。何でしょう?」
「……………」
嫌な、重苦しい雰囲気がある。
青白い顔で奥様は、不安そうに傍らのブリジットさんを振り返った。ブリジットさんは悲しそうに目を伏せながら、頷かれる。
「レオンハルトは明朝……あの方に引き取られます」
「旦那様に……?」
「あの子は、この家にいたことを覚えているべきではないと……」
「そんなっ……」
「マノン」
静かなブリジットさんの声で、静止させられた。
言いたいことはあるけれどこらえて唇を結び、奥様の言葉を待つ。
「ミシェーラお嬢様には、何と……?」
「あの娘には、レオンハルトは急な病で死んだと」
「そん、な……そこまでされなくても」
「あの方の決めたことです。……わたし達には拒む余地などございません」
あんなに毎日、レオ坊ちゃんとお遊びになられているのに。
旦那様が帰ってこられると、昼はあれほど喜んでいたのに、それを悲しみに塗りつぶすなんて……。胸が痛む。
「坊ちゃんはこれからどうなるので?」
イザークさんが口を開き、低い声を出した。
彼の言葉には重みがある。ただ無口なのではなく、強い意思を言葉に秘めるがために普段は口を閉ざされているのではないかと思うこともある。今の問いには、レオ坊ちゃんを心配する――ううん、その程度の言葉ではとても言い尽くせぬほどの、あらゆる感情を伴ったものが込められているように思えた。
うすうすと気づいている。イザークさんはただのコックではない。
詳しい素性は彼を雇うと決めた奥様とブリジットさんしか分からないけれど。
「どこか遠い土地の、子どもに恵まれない貴族に迎え入れてもらうと。
あの人のことですから、それが……もっとも良い形として収まるのでしょう」
今にも消え入りそうに、か細く奥様が息を吐かれる。
それからわたし達は就寝なさいと言いつけられ、お部屋へ戻った。
レオ坊ちゃんはこれから、どうなってしまわれるのだろう。
奥様とお嬢様は栗色の明るい髪。旦那様も今は白髪が多くなられているけれど同じ。
でもレオ坊ちゃんは――。
寝つけずにいると、レオ坊ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
ベッドを飛び出してお部屋へ向かうけれど、奥様とブリジットさんがいた。泣きやまないレオ坊ちゃんを奥様が必死に抱いていらっしゃる。それをドアの隙間からそっと見て、ゆっくり閉めた。振り返るとイザークさんも来ていた。
「どうして……こうなってしまったんでしょう?
産まれてしまったことがいけないなんて……あるのでしょうか?」
答えを知りたいわけでもないのに、気づけばわたしはイザークさんに尋ねていた。イザークさんは目を細め、無言でわたしの頭を撫でた。それから、踵を返してご自分のお部屋へ戻られる。
青い月の光が、屋敷に差し込んでいた。
明日、レオ坊ちゃんは――このお家から追い出される。