幼かった約束
あれは確か、アニューラ城の中庭だった。
『しょうぶだ、テレス』
『いいだろう、ソロン』
満月が2回昇ったら、俺とテレスは互いの城を行き来して遊んでいた。
『どっちがカティアを、おきさきにむかえられるか』
『まけないね、ぼくは』
その度、俺とテレスは張り合った。
『おれはしょーぐんに、けんをおしえてもらうんだ』
『ぼくはおーきゅーまほうしに、まほうをおそわるよ』
恋敵だった。
同時に、親友だった。
『おまえにはまけないからな』
『こっちだって、きみにはまけないよ』
ずっと昔の、思い出――。
「痛いか、ソロン?」
テレスが俺を見下ろしている。
指一本でも動かそうとすれば、たちまち全身を駆け巡る激痛。バングルを外そうとすれば、体が勝手にのけぞる激痛に襲われる。そう動いてしまうことでさらなる激痛が駆け抜ける。
「どう、して……お前……が……」
「……カティアを、お前には渡したくなかった」
静かな声でテレスが答える。
それからバングルを外して無造作に投げ捨てる。
嘘だ。
嘘に決まってる。
幾億もの小さな虫が全身を食いちぎるような痛み。
それよりも響いた。分かった気がしてしまった。
カティアを、俺もテレスも昔から――物心ついた時、すでに、好きだった。
今もその想いは朽ちていない。
同様にテレスは鼻につく陰険で嫌味な男だとしても、友だと思っていた。
かけがえのない、ただひとりの親友だと思っていた。
だが。
だが、だが、だが――。
いつからか、そう、恐らくは30年前の百国会議の時から、俺がナターシャにそそのかされたのと時を同じくして、テレスもあの女につけ込まれていたのだ。カティアを手に入れるために。
俺がエンセーラム王の従者に殺されかけた時、内心でほくそ笑んでいたのかも知れない。
俺があの事件の真相究明を命じられ、エンセーラム王国から帰還した時にカティアと会いに来てくれた。その時にはもう、ナターシャにカティアを与えるとでも言われて内通していたのかも知れない。
ずっと。
テレスは俺を裏切り続けていた。
「テ、レェス――!!」
皮膚が焼けるようだ。
いや、それさえも生温い激痛だ。
だが叫んだ。
お前はどんな気持ちでいたんだ。
カティアとの婚約が正式に決まった時。それを俺へ報せた時。テアスロニカ王国とエニアロウス王国の婚礼の時。他大陸の風土病と思しき病に罹って、俺に薬を用意していた時。調査レポートを整理していた時。ナターシャの拠点が判明したと告げてきた時。
お前は、ずっと、俺をせせら笑っていたのか!
「酷い形相ですね。
一思いに、楽にしてさしあげたらどうですか、テアスロニカ王」
「……死人に鞭打つマネをしたところで愉快になりはしない」
テレス、テレス、テレス!!
こんなエルフの手引きでお前はカティアを得たのか!
お前の胸には誇りというものがないのか!
その真実をカティアが知れば、お前なんかは、お前みたいな野郎なんかは――
「じきに、ここは海に沈みます。
運が良ければ潮に乗り、どこへなりとも流れ着くでしょう。生きてさえいれば」
本物か、幻かは分からない。
だがナターシャがまた姿を見せ、ほくそ笑んだ。押し殺した短い苦痛の呻き声が耳に入る。フィリアが浮かび、雲のように漂いながらナターシャとテレスの方へ流れていく。
「ごきげんよう、皆さん」
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
死んでたまるか。
「テレスゥゥッ……!!」
この程度の痛みで、諦めきれるものか。
手を開き、剣を握るのみで煮える湯を浴びせられたような、反射的に手を引こうとするような痛みが迸る。剣を持った手を地面につくだけで、鋭利な無数の鉄の針の山に拳を打ちつけたような鋭い痛みが奔る。膝を立てるのみで、体を起こしただけで、踏み出して、一歩を踏みしめるごとに。
だが。
そんな程度の痛みで。
俺のこの爆発した想いを止められるものか。
全身にたぎり感じる熱は、痛みだけではない。
何とも知れぬ、噴出する情念が炎となって身を焦がしている。
殺す。
叩き殺す。
斬り殺す。
何でもいい、許してはおけない。
衝動のままに叫び、テレスへ剣を振り下ろす。
「真正面から、やれるはずがないだろう。
キミはバカだな、ソロン」
地面からせり出してきた太い棘。
円錐状のそれは斜めに俺へ突き出てくる。
「お前の方がっ、大バカ野郎だ――!」
構いもせずに剣を振りきった。
テレスの目が大きくなる。身を引いていた。
剣は僅かに切っ先のみでテレスの胸元をひっかく。
どうして、届かない。
俺には何もできないのか。
好きな女も取りこぼして。
繋いだ命は利用されて。
裏切りに気づけずに。
これが俺の末路か。
30年の報酬は。
何もないまま。
死ぬだけか。
王位さえ。
命さえ。
何も。
〈まだ、終わるな〉
頭の中にした声とともに気がつく。
今まさに俺を貫こうとしていた土棘が砕け散り、破片が体を打ってきた。それさえも今は肉食虫に飲み込まれたような痛みに変わる。
「踏み込め!!」
エンセーラム王の声。
「っ――おぉぉおおおおおっ!」
倒れかけていた身を、踏み外しかけていた足で支え直す。
無様に振り切っていた剣を、腰の捻りを使いながら今度は振り上げる。
肉を抉り、切り払う重い手応え。
赤い血が飛び散り、テレスが眉間に深くしわを刻んだ。
「フィリアぁぁっ!!」
倒れていくテレスの体の横をエンセーラム王が駆ける。
ナターシャの顔からは微笑が消えていた。
浮かび上がっているフィリアにエンセーラム王は手を伸ばす。
彼女の華奢に見える手を掴みかけた時、いきなりナターシャとフィリアが消え去った。転移の魔法か。
ここまでが、テレスが倒れるまでの僅かな間だった。
エンセーラム王が転がり込む。フィリアの手を取るために前のめりになりすぎていたからだ。
「どこにっ……! クソがっ! フィリアを、フィリアをくれてやるわけには……!」
憤りのままにエンセーラム王が言葉を吐く。
岩の大地を叩いた左腕には握りつぶされたように壊れたバングルがある。
フィリアも気になるが、俺はそこまで必死に考えられない。
「テレスっ……」
「……すまない……ソロン……」
痛みはまだ全身を這いずり回る。
仰向けに倒れたテレスがか細い声を発した。
「お前っ――ナターシャの手先だったんだろ!? どこへ行った、どこだっ!? 言え!!」
エンセーラム王がテレスの切り裂かれた胸ぐらを掴み上げて恫喝する。リュカがその肩を掴んで引っ張ろうとしたが、すぐにエンセーラム王は振り払った。顔をこちらへは向けず、リュカは片手で俺のバングルを掴み、無造作に握りつぶした。バキバキと音を立ててバングルが壊れると、それまで続いていた痛みが引いていく。ずっと詰まり詰まりだった呼吸が戻る。
「……知りません……」
「知らねえじゃねえんだよっ!? 言え、どこだっ!?」
「レオンっ! ……知らないって、言ってる。嘘じゃない」
「っ……フィリアっ……!」
乱暴にエンセーラム王がテレスを放した。
すでに目から力が抜け始めていた。
「……テレス」
「どれだけ……魔法を極めても……いや……極めることなんてできやしなかったが……それでも……魔法士としては……平凡な才能しか、僕にはなかった……。でも……キミは違った。……確かにキミには……剣の、才能が……あったんだ……。勝てないと……思っていた……。だから……」
懺悔なんか、聞きたくない。
ただ剣が扱えるだけで、それが何だ。
「お前の方がっ……! 頭がいい、政治もできる……できてた……。そうだろう、テレス……」
「すまない……詫びても、意味はないだろうが……それでも、カティアを……」
うっすらと、テレスの青い目から涙がこぼれた。
瞳から光がなくなり、動かなくなった。
「……バカ野郎……」
膝をついてリュカがテレスの傍らへしゃがみ、顔を手で覆った。
その手が離れると瞼が閉じられていた。
「俺を裏切ってまで……カティアを手にしたなら……死ぬなよ……。
何て言っても、あいつが悲しむだろうが……」
力が抜けた。
剣が重く、手からこぼれた。
『ソロン、かってもまけても、カティアのためにはきょーりょくしようね』
『もちろんっ、おれとおまえで、さいきょうのけんしとまほーしだからな』
俺の剣は、お前を殺すためにあったわけじゃないのに。




