フィリアの決別
「フィーリアちゃん」
「っ……お父さん」
振り返ると、お父さんがいた。
手にしていた何かを上げて見せてくる。柄杓?
「水瓶の中、空っぽでさ……。一杯、くれねえ?」
「……分かった」
水魔法で柄杓の中へ水を満たすと、それに直接口をつけてお父さんは喉を鳴らした。飲み干してから手の甲で口元を拭い、柄杓を肩にかけて持つ。
「んで、この時間に何してんだ?」
「ちょっと寝苦しかったから、散歩」
「夜にあんまりふらふらしてると、悪い野郎に――」
「ただの暴漢相手に引けを取るつもりはない」
「……ま、確かに」
昼間の喧噪が嘘のように静かな街。
何となくまた歩き出すと、お父さんはついてきた。
「なあフィリア」
「何?」
「全部終わったらさ……お前、寂しくならねえか?」
「どうして?」
「ちゃんと全部やり遂げられても、まだお前はこの時代へ帰るだろ? でも、過去で何をしたって、この時代は変わらないんだ。それってさ……ちょっと想像したけど、どうしようもなく虚しいと思うんだよな」
「分かってる」
「分かってるって……」
「たった一目でも、またディーを見られれば、お母さんを見られればいい。
あわよくば……例えわたしがもう関われないとしても、生き延びる未来を作れればいい」
過去を変えたからと言って、この今はきっと変わらない。
やっていることは全て自己満足に過ぎないことは分かっている。けれどそうしないと、腕の中でディーが冷たくなって、息を引き取った時の、あの感覚が消えてくれないだろうと思っている。
決別なのだ。
30年前に奪われたものとの、決別。
これを済まさなければわたしは、未来のことを考えられない。
忘れてしまいそうだった記憶を残すために絵を描くようになった。思い出に浸って忘れないようにするために楽器へ手を出した。未練がましいのだ。だから断ち切らないといけない。
何にもならなくても、何もかもがなくなってしまったことから立ち直れると――信じている。
「…………」
後ろをついて来ていた足音が止まった。
お父さんが足を止め、わたしを見上げている。何となくディーに似た顔立ち。親子だから当然だ。ディーが成長したら、こういう少年になったのだろうかと素直に思える。
でも表情は――やっぱりお父さんだと思う。
ディーはもっとハンサムで、やさしい顔をしているはず。
お父さんは少し意地悪そうに見えてしまう。そういう風に顔の筋肉が固まってしまっているのだろうか。険しいというか、いつも眉が片方吊り上がっているような感じだ。いつも何かに違和感を抱いているみたいな。
「俺、こっちに残るか?」
「……え?」
こっちに、残る?
意味をよく飲み込めなかったが、その言葉を反芻して分かった。
「過去に行って、お前は戻らなきゃいけない。
その時にさ、俺も一緒にこっち来るか? それで一緒にいよう」
小さいころは毛嫌いしていた。
そこまでしなくても、と自分で思うほど避けていた。
だと言うのにお父さんは――わたしを見る度に気持ち悪いほどニヤけていた。幼心でそれを気色悪くも思っていたが、この人はそういう人なのだ。わたしのことを何の見返りもなしに愛してくれている。
この時代にはお母さんもいないし、ディーもいない。
お父さんの親しかった友人だっていなければ、自分で切り開いて興した国さえもない。
だと言うのに、本来関わるはずもなかったわたしのために、ここへ残ろうかと言う。きっとわたしを心配しているから。元の時代にはまだ幼いわたしだっているのに。可愛げはなかったかも知れないが、小さい子が好きなお父さんからすればどんな尻尾を持った獣人にも劣らぬほど愛でたいはずなのに。
「……それは、いらない」
「いらないって……」
物言いが悪かったかも知れない。
落ち込ませたいわけではないのに、お父さんは敏感に気分を変えてしまう。
「そうしたら、折角取り戻した未来からお父さんがいなくなってしまう。
きっとお母さんもディーも寂しがってしまうから、その必要はない。意味がなくなってしまう」
「でもお前は――」
「わたしなら平気。平和な未来がきっとくると見届けられれば、それだけでいい」
「……そうか?」
「そう」
「でもなあ……」
「6歳のわたしはどうか分からないけれど……お父さんと一緒に、大きくなりたかった。だから、そうしてあげてほしい」
しばらくお父さんは黙って、それから肩を落としながら頷いた。
また少しだけ歩き、宿へ帰った。朝早くにお父さんはどこかへ出かけていて、朝食の前に帰ってきていた。どこへ行っていたのかとファビオが尋ねていたけれど、お父さんは内緒と言い張って言わなかった。
出発の時刻となった。
わたしとお父さん、リュカ、ファビオ。そしてソロンとテレスの5人。それとレストでナターシャの拠点へと向かう。集合場所はソロンのところだった。
「忘れ物はないな」
「大丈夫だ」
正直、ソロンとテレスがどれだけ戦えるのか分からないから、不安材料だ。
お父さんが言うにはソロンは30年前の時点で、魔鎧を切り裂けるだけの剣技を備えていたらしい。大陸から大陸へ渡り歩いたということだし、大丈夫だろうとは何となく思える。けれどテレスというのはどうだろう。魔法士として優秀だとソロンは言っていたが、今は一国の王。実戦に耐えうるのだろうか。
「それじゃあフィリア」
「……分かった」
転移の魔法の準備を始める。
暴食の魔剣を使い、そこに蓄積されている魔力で転移に必要な魔力を補っている。暴食の魔剣を地面へ突き刺したところで、4人とレストを見渡した。街中なのでレストが衆目を集めている。これから目の前で消えるのだから、余計に注意を惹いてしまうのだろうが構うまい。
「行こう」
お父さんが言う。
頷いて、転移の魔法を発動しかけた時に――
「そこの一団、待て!!」
空気を震わせる強い声がした。
人混みが割れ、おおっと声が漏れた。もうお年寄りの域にあるはずなのに、背筋は綺麗に伸び、老いを感じさせないエネルギーを全身から発散させている女性がいた。
「あ、ヴァネッサ」
リュカが気軽に言った。
「変わらぬな、お前は」
「まあね」
「……女王さんがどうして……」
「何かを言ったか、レオンハルト」
「っ……お、お前、俺って分かんのか?」
ヴァネッサ・ジョアバナーサ。
この国の前王だ。それがどうして、こんな街中に従者も連れず、旅支度でいるのかと目を疑う。
「カスタルディのドラグナーがどれほどのものかと戦いに行った時、お前のことを耳にした。これからデカい戦いへ行くそうだな。わたしもそこへ連れて行け」
ぱくぱくとお父さんは口を開け閉めしていた。ソロンも、テレスも。ファビオは訝しんでいる。が、その中でリュカだけはいつもと変わらなかった。
「戦えんの? もうおばあちゃんじゃん」
「わたしを舐めるなよ、リュカ。政からは手を引いたが、一戦士としては現役だ」
「つっても、何歳だよ……」
「70だ!!」
こんなに元気な人間族の70歳がいても良いのだろうか。
けれどチェスターおじいちゃんも亡くなる日まで元気に漁へ出ていたとかだし、こんなものなのだろうか。
「連れていけ」
ヴァネッサ元女王について、確実に言えるのは有無を言わせない人物ということだけだった。