黒幕の影
セラフィーノが死んだ。
不意に告げられた事実には、耳を疑わざるをえなかった。だが、オルトは困ったようにほほえんで見せ、静かに杖を突きながら書斎を出ていった。フィリアも知らなかったらしくて固まっていた。
どうして死んだのかなんて尋ねられる雰囲気ではなかった。
いつもレヴェルト邸に来て泊まる時は、夜遅くまでバカ話をして過ごしていた。
オルトの奇人っぷりに笑って、俺がやらかしたことについて笑って、愉快な夜を過ごしていた。だが、オルトはもう年のようで夕食の後に風呂へ入ると、すぐ床へ入ってしまった。次のレヴェルト領の領主は決まっていないらしい。
セラフィーノが死んでしまったことが影響しているんだろう。
もしも、オルトが次の領主を指名できなければ国が領主を任命することになる。本来は大領主に跡継ぎがいなければ、その領地内の小領主の中から選ばれるのだが、オルトは小領主を囲っていない。巨大なレヴェルト領全体をオルトが町長や村長などを通じて間接的にだが、全て管理していた。
このレヴェルト領が誰の手に渡るか、というのは貴族達の関心ごとであり、分裂状態にあるディオニスメリア王国の今後を左右する重大な人選でもある。
俺はどうせ、過去に帰る。
だから、オルトの死後のレヴェルト領なんて――と思いかけた。でもそこで疑問が浮かんだ。
俺が30年前に帰ってエンセーラム王国の滅亡を回避することができたとして、今いるこの時代はどうなるのか。フィリアが天涯孤独になることはなくなるんだろう。そうしたら、今のフィリアはどうなる。
丸ごと消えてしまうのか?
それとも、パラレルワールドみたいな感じで残ってしまうのか?
どちらにせよ、今、同じ部屋で眠っているこのフィリアは――。
「その顔は何なんだい、レオン?」
翌日はしとしとと雨が降っていた。
テラスでオルトと一緒に茶を飲みながら物思いに耽っていたら、静かな声で尋ねられる。
「……何でもねえって」
「そうかい? ひとつ、キミに協力する見返りを求めたいんだ」
「見返りって……老い先短いのに何が欲しいんだよ?」
「老い先が短い? とんでもない。少なくとも30年はあるさ」
「いくつまで生きるんだよ……」
「過去のわたしが、ということさ」
傍らに控えているファビオも、オルトのことを怪訝な顔で見ていた。
「大きく変わることになるだろう、この時代の歴史とは」
「そうだろうな」
「けれど、変わらないことになるかも知れない」
「変わらない……?」
「保証はないだろう。キミが元の時代に帰っていったとしても、それからのことが何も変わらない、と」
「…………」
「わたしはこの30年のことを、覚えている限り、仔細に記すことにした。それをキミに託す。過去へ帰り、キミが生き残った時はそれを過去のわたしに渡してもらいたい。未来を手に入れる」
想像を超える見返りを求められていた。
30年分の未来。でも、それはどこかで絶対に分岐して、枝別れているはずだ。意味があるかないか、分からない。肝心のところで何かが変わっていて、予見していたものと違って変な大損をすることだってあるかも知れない。
「安いものだろう? ただのおつかいだ」
「……図太いよなあ、お前……」
「未来を変えてしまおう、なんて発想をしたキミの娘の方がよほどだろう」
そうかも知れない。
「しかも、すでに彼女は変えてしまっているのだから」
「何を?」
「……キミの亡骸は、すでに確認されていた。だというのに、キミはここにいる。死を免れたのだ。キミが過去へ帰ってまた死ぬかも知れないし、その前に、この時代で死んでしまうことだって考えられる。けれど死に方は変わるだろう。フィリアはすでに、世界を変えた」
それでもこの世界では、いきなりエンセーラム王国が30年分の発展を遂げた状態で姿を現した、なんてことになっていない。フィリアがどれだけのことをしても、今俺がいるこの時代では何も変わってはいないのだ。
「……フィリアがやってることに、意味はあるのか……? 30年、孤独に戦い続けてきたあいつは、報われないんじゃないのか?」
「そんなことは、すでに覚悟しているだろうね」
「何で分かるんだよ?」
「あれだけ聡明だというのに、気がつかないはずがないだろう」
「俺と同じでぽろっとそのことを考えてなかったかも知れないだろ」
「けれど、またキミに会って、話をしているじゃないか。わたしは嬉しく思っているよ。実の娘である彼女は、わたしなどよりも……よほど嬉しく感じているんじゃないのかな?」
「みっともねえとこばっかり、見せたからな……。どうだか……」
裏庭にはアジサイが咲いていた。
レストに乗って、ここへ降り立つことが何度もあった。俺とオルトが話している間、ファビオにしごかれた後のセラフィーノはレストと遊んでいた。椅子に座りながら裏庭を眺めていると、その時のことがふっと思い浮かぶ。
「キミは迷うことなんてない。元より、この時代の人間ではないのだから」
「オルト……」
「ナターシャ、と言ったかい? 恐らく彼女は、今の時代にも生きていて、暗躍を続けている。セラフィーノを追い込み、手にかけた時だって影にいただろう」
「何だと……?」
「オルトヴィーン様?」
「それだけじゃないはずだ。不可解な事件は、これまで何度も起きていた。誰かが事件を影で煽動していながら、尻尾を掴ませなかった何者かがいた。しかし誰も、そこには辿り着けなかった。
カノヴァス家とボーデンフォーチュ家の婚姻を巡った争いがあっただろう? あの時だって、異様だったはずだ。騒動の影に何者かがいたとは知っているものならば知っていることだが、それが何者だったのか、というところまでは掴めていなかった。しかし、戦略魔法の暴発が起きた時――」
「おい、あれって口封じされてたはずだろ? お前、当事者でもないのに、どうして……?」
「わたしの情報網を、あまり侮らないでもらいたいものだね」
「…………」
「暴発の時だって、謎の2人組が第八魔法隊を襲撃してきたと記録には残っている。ナターシャだろう、十中八九。目的は不明だが、彼女はこの世に混乱をもたらそうとしているように思える。何人も死んだ。わたしは領民や知人でなければ、誰がどこでどう死のうが気にはしないが……セラフィーノを持っていかれたことについては、許すつもりはないんだ」
老人とは思えぬ眼光が、何もないところを射抜いている。
しかし、ふっとその顔を消してからほほえみを浮かべるとオルトはティーカップを手元へ運んだ。
「ナターシャを殺しなさい、レオン」
「……そのつもりだ」
「キミを見つけた時、興味ばかりが先行していた。けれど……こうして50年もの時が流れた今になって、この言葉を吐き出すためにキミとの関係があったんじゃないかと思うよ」
「50年?」
「そうさ。50年前だ。キミがこの屋敷へ、初めてやって来たのは」
そうだったっけ?
6歳くらいだった気はするな。で、俺はレオンハルトとして26歳の時点で、この時代に来た。その時から30年が経過してるから――そうだ、50年だ。半世紀。
「……ファビオ、変わらねえな?」
「羨ましいものだね、エルフというのは」
「いえ。主が先立たれることを考えれば、これほどエルフに生まれたことを呪ったことはありません」
そこなのか。
「けれどファビオとソルヤには、まだまだ……わたしのために動いてもらいたい」
「オルトヴィーン様?」
「全てが済み、フィリアが戻ってきたら、どうだろうか? このレヴェルト領の領主となってもらうのは。彼女の名付け親はこのわたしだ。わたしはキミの後見人でもあった。その娘を後継者にしても角は立つまい」
「……でも、フィリアはお尋ね者なんだろ?」
「フィリア・エンセーラムとしては……確かにムリだろう。けれど、そうだな。……例えば、フェーミナ・レヴェルト。そう名乗ってもらえれば問題はないはずだ」
「フェーミナ?」
「麗しい女性、という意味だ。フィリアというのは、愛しき少女。ぴったりだろう?」
とことん、俺には学というものはないらしい。
なるほどな、フィリアはずっとヒントを俺に出していたわけか。
「ナターシャを殺すためのアドバンテージは、キミにある。この時代で、ナターシャを見つけなさい。可能ならば殺しなさい。そうして過去へ帰れば、また殺すことなんてできるだろう。ファビオ」
「ハッ」
「レオンについて行きなさい」
「っ……おい、いくらお前の頼みでも、そんなの――」
「かしこまりました、オルトヴィーン様」
「はあっ!?」
老い先短いはずのオルトから、ファビオが離れる?
何でそんなこと、即決で了解できちまうんだ。
「この身命に替えてでも、必ずや」
「できれば、生きて帰ってきなさい」
「ハッ」
「どうして、お前……?」
「……セラフィーノの仇だ」
腑に落ちてしまった。
だが、心強すぎる味方だった。




