胸の穴
雨降りの日。
帽子からぼたぼたと溜まった雨がこぼれ落ちていく。無言でフェーミナとともに歩いた。足元はぬかるんでいる。僅かな傾斜のある道で足を滑らせかけ、フェーミナに後ろから支えられてことなきをえた。
「お前、足元しっかりしてるな?」
「こういうものをはいてる」
足を持ち上げ、そのブーツの裏を見せてくる。小さな棘がついていた。俺が昔使っていたスパイクブーツみたいだった。
「……それって、俺がはいてたのをマネたとか?」
「けっこう便利で重用してる」
ほんとによく調べてやがらあ。
どこでスパイクブーツは捨てちまったんだっけ。ああそうだ、アイウェイン山脈をショートカットして抜ける時に出くわした半魚人みたいな魔物だ。超冷たくて透明な湖みたいな中に引きずり込まれてダメになったんだ。
「別に、正直どうでもいいんだけど……30年経った今は、俺のことって……知られてるのか?」
「知ってる人は、知っている」
「どんな感じに?」
「穴空きレオンは、困っている人のところへ現れて助けてくれる」
「んな大袈裟なこと、した覚えねえのに……」
「ある村では賊に襲われた時にやってきた。まだ少年だった穴空きレオンが、燃える剣を使って賊を一網打尽にした」
そんなこともあったっけ。
「スタンフィールドでは悪童レオンとして――」
「えっ、それまだ残ってんの?」
「残ってる」
「……むしろそこは消えててほしかった……」
「物好きな学院の卒業生が、学院で語られていた悪童レオンの伝説を題材に戯曲を作って、王都ラーゴアルダで演目になったこともある。学院では語られていなかった話が追加されている」
「何それ?」
「学院から消えた悪童レオンがラーゴアルダに現れて、コロッセオを牛耳る、という話」
「あー……」
そう言えば暴れた記憶がある。
あの時くらいから、開き直って穴空きレオンとか名乗り出したような……?
「悪名もあるけれど、そういう話の陰では苦境に陥った人々を助ける存在としても語られたりしている。それが特にディオニスメリアの南東部ではエピソードが多い」
カハール・ポートとか、レヴェルト領とかでのことか?
そんなに有名なつもりはなかったんだけど、意外と人の記憶に残るもんなんだな。
「旅の楽士の間でもよく知られている。新しい音楽を独創的に作り出したリュート奏者として」
「ほおー……」
「有名な歌は、海の歌」
「海の歌……」
「海は広いよ、大きいよ……っていう」
「……あれか」
「短くて簡単な歌だから子ども達がよく歌っている。特に港町や、漁村なんかで」
まあ、元々が唱歌だしなあ。
雨の中を歩き続けた。
ぐちゃぐちゃの道を踏み歩いて、やがて遠くに明かりが見えた。うっすらと、不確かな明かりが見えた。街の明かりだった。小さな、今にも消えそうなほどに遠かった。
「あそこが、キャスの暮らしているところ。今さら引き返すのは、なし」
釘を刺されてから、また歩き出した。
港町についた時はもうすっかり夜になっていた。宿を探し、泥まみれで部屋に入った。身につけていたものは脱いで、室内に張ったロープに吊るした。俺がパンツ一丁でもフェーミナは何も思わないらしい。
どころか、フェーミナまで下着同然の姿を恥じらう気配もなくさらした。まだ発展途上か。欲情する気にもなりゃしない。
「お前さ……恥じらいとかないわけ?」
「あなたに恥じらう必要性を感じない」
「どーゆー意味だか……」
「……そのままの意味」
舐められてるということだろうか。これでも中身は26――いや、52歳だというのに。正直、精神年齢的な言葉にあてはめると疑問がわいてくるが、何故か生まれ変わっちまってるのに記憶が継続されてるんだから中身は合算しちゃっていいだろう。いいはずだ。
宿屋は酒場と一緒になっていたから、服を着替えてからそこへ降りていった。
エールを飲んで、魚を食った。エンセーラムは暖かい気候だったから、脂の乗ったうまい魚というのは少なかった。まずいというわけでもなかったが、物足りなさのある魚が多かった。しかし、ディオニスメリアではいい魚が食える。身が引き締まって、脂がたっぷりと乗った魚料理が出されていた。
「この魚……おいしい……」
「これはグロフィッシュだな」
「グロ、フィッシュ……?」
「目玉があちこちについてる、ウツボみたいな……そういうのの仲間だと思う。正式名称は忘れたけど、これを獲れる漁師はあんまいねえし、高値なんだよ。見た目はキモいんだけど味はいいんだよな。……まあ30年前の話で、今はどうだか知らねえけど」
懐かしい味だ。
じいさんに昔、捌く前のグロフィッシュを見せられて、押しつけられたっけ。俺が嫌がるのを楽しんでやがった、あのじいさんは。
「よく知ってるねえ、坊や」
「まあな……」
グロフィッシュの講釈をフェーミナに垂れてたら女将が声をかけてきた。
「この魚、見た目は悪いけどおいしいんだよねえ。今、この町じゃあこれを獲れるのはひとりだけなのさ」
「ほらな、言ったろ? そうそういねえんだよ。けっこう海ん中じゃ獰猛で」
「もっと驚くことを言ってあげようか?」
「ん?」
「これを獲れる、その漁師は女の人なのさ。キャスさんっていう人でね」
グロフィッシュの脂が口の中で溶けたが、一瞬でその味が失せた。
確かに驚かされた。想定の範疇にはあったはずだ。でも思わぬところで、キャスの存在を確認してしまって、不意打ちを食らった気分だった。
夜中に雨がやんだ。
寝つけぬままに朝になった。いつもキャスと漁に出ていた時間帯となった。鎧戸を開け放つと薄暮の空が広がっていた。今ごろ、キャスは――大人になったキャスは、漁に出ているんだろうか。じいさんから譲られた銛を持って。
ベッドに座ったまま澄んだ空を眺めた。
日が昇ってフェーミナが起き出し、それから朝食を食べに階下の酒場へ行った。
「わたしは一緒に行かないから」
「は? 何で?」
「荷物の点検をする」
「んなもん、後でもできるだろ」
「それともあなたは、その姿と同じで誰かと一緒じゃなきゃどこにも行けないお子様なの?」
「…………」
黙らされた。
「明日には発つ。もしキャスに会って、まだ……うだうだ言うのなら、もうあなたに期待しない。自分で決めて。このままずっと負け犬になってのうのうと暮らすのか、わたしに協力して、取り戻すのか」
「……薄情者」
「逆。むしろ、わたしは……これで情に厚いところを見せている」
「どこが」
「分からないの?」
分かってるさ。
でも、何かダメなんだ、今は。
とにかくメシを食ってから宿を出て港へ向かった。
市場が出て賑わっていた。獲れたての魚が大量の氷の上へ並べられている。それを買う主婦がいる。主婦に連れられている子どもがいる。肩がぶつかった、やるのかてめえ、と揉める男2人の間へ割り込んで突っ切っておく。威勢良く呼び込みをする声がある。魚の匂いがある。
市場を抜けて港に着く。もう朝の漁は終わって閑散としていた。漁の片づけをしている姿がちらほらあった。市場の賑わいと裏腹に、こっちは静かな時間だ。海猫が鳴いている。
素潜り漁をしているなら、船着き場からは離れたところだろうと海沿いに歩いていった。すると浜へ引き上げた小舟の中で、何か作業をしている女の姿があった。よく日焼けしていた。髪が随分と長かったが、縛ったりもせず背中に流していた。
見つかる前に岩の陰へ隠れ、そっと見た。
網を修繕しているらしい。健康的な体だった。あまり老けている印象はない。じっとマジメな顔をしている。その表情は変わっていなかった。ピアノを教えてやっていた時、学校で勉強を教えてやっていた時、よく見た顔だった。
唇を合わせて、顎をやや持ち上げ、手元をじっと見て作業に没頭している。
大きくなった。
木製の槍を肩からかけて歩いていた女の子が、大人の女になっていた。
ずっと見守っている内に修繕が終わったようで、体をぐっと伸ばしていた。肩をぐるぐると回して、首も回して、見慣れた銛を手にして小舟を降りた。手遊びでもするかのように片手でくるくる回している。
いいんじゃないか、とふと思う。
キャスは今、元気そうだ。グロフィッシュを仕留められるほど腕の良い漁師になっている。皆を救うことはできない、できなかった。だけどキャスだけは生きていてくれた。それだけで、もういいんじゃないか。
見つからない内に、そこを立ち去った。
穴空きレオンと名乗ったのは、俺が魔力欠乏症だったからだ。
でも、今は胸にぽっかりと穴が空いているから、穴空きだ。胸の中を空虚な風が吹き抜けていく。昔はいつも悩みごとがあればそこでぐるぐると渦巻いていたのに、今じゃあどれだけ悩んでもぽろっとこぼれ落ちるように諦める方向で落ち着いてしまう。
抜け落ちているのが分かる。
多分これは、二度と埋まらない。