パパン、襲来
つい先日、ずりばいができるようになった。
すこやかに成長してるぜ、レオ坊や! 俺だけど。
そんなわけで、まだ腰を浮かせられずにほんとに這うのが精一杯だけど俺は動き出す。
いざ、探検だ。この時をどれだけ待ち望んでいたことか。
まずは俺がいつもいる部屋。
でっかい窓があって、そこから光の当たる場所に俺の居所であるベビーベッドが鎮座。朝になればマノンがカーテンを開けにくる。夜になると誰かが西日眩しいってことに気づいてカーテンを閉める。16畳くらいの広さで、ベビーベッドの他には木製の家具がちょいちょい置いてある。床にはけっこう手触りの良い絨毯。
あとは俺の世話のために必要なものがいくつかと、ミシェーラ姉ちゃんが遊びにきたきり忘れていった玩具が少々。片づけなさいってのに、あの娘はすぐぽろっと忘れて……。マノンと同じでドジっ娘属性持ってるんじゃなかろうか。弟として心配。レオンハルトはミシェーラ姉ちゃんの将来がちょっと怖いよ!
とりあえずぎゃん泣き。
マノンを召喚して、慌ただしく俺の世話を終えてバタバタと仕事に戻っていくのをみはからい、ちゃんとドアを閉めないのを利用させてもらって部屋を出る。と、そこはいきなり吹き抜けの空間だった。ここは2階だったらしい。柵になっている手すりの隙間から下を除けば、玄関らしいでっかいドア。
玄関から入ったら正面に階段があって、そこから壁に沿う形で俺もいる廊下があるわけだ。でもって、いくつか部屋がある、と。さすがにまだ階段は厳しいだろうな。1階の探検はもう少し後にしよう――なんて思ってたら、玄関から入ってきた謎の男イザークが何気なく首をこきこき鳴らし、その拍子に俺を見つけた。
見つめ合うこと5秒間。イザークが目をこすった。それからまた俺を見る。幻じゃねえよ?
するとあからさまに驚いたように身構え、ダダダッと階段を駆け上がって俺のところまで駆け上がってくる。近くにくると、まあデカい。ほぼほぼ地面から見上げる形だから身長とかよく分かんないけども、まるで巨人だ。……一般成人くらいなんだろうけど。
でもって、俺はイザークに恐る恐るといった具合で持ち上げられた。
きょろきょろとイザークが周囲を確認し、誰も近くにいないのを確認すると、そのまま部屋のベビーベッドへ送還された。
「…………」
仰向けにされる。じっと睨む。表情筋がまだあまり発達してないから、睨んだりもできないけど邪魔すんなよ、と抗議の眼差しを向ける。向けている――つもりだ。
イザークもまた、無表情で俺をじっと見下ろしていた。
さっぱり顔が変わらねえな、こいつ。グズってやろうか、なんて考え始めていたらイザークはさっと踵を返して行ってしまった。
よく分からんやつだ。
まあでも、悪いやつじゃあないっぽい。
しかし、俺の探検はこの程度じゃめげない。またもや、特技・ぎゃん泣きを使ってまずは人を呼ぶ。
あとはドアにずりばいして外に行きたがってると分からせてやれば、まあ自由とはいかないが部屋から出してもらえるだろう、きっと。抜け目がねえぜ、さすが俺様。
「はいはいはいっ、どうしましたか、レオ坊ちゃん!」
ちょろいマノンがやってきたぜぃっ!!
とりあえず抱き上げてもらったとこで泣きやんで――意外と泣くだけでも体力を使うもんだ――床におりたいとマノンの腕から逃れるようにすれば床へ降ろしてくれる。でもって、ドアに向かう!
「ダメですよ、レオ坊ちゃん! イザークさんが困ってましたよ、気づいたら部屋を出てて落ちそうだった、って!」
「あうっ!?」
「ひえっ……え?」
イザークが、喋ったのかっ!?
思わず反応しちゃったとこで、マノンに凝視される。しまった、これじゃあまるで赤ん坊が言葉を理解したみたいじゃねえか。気不味い沈黙の後、泣いておいた。
「あわわわ、レオ坊ちゃん、ほーら、高いたかーい! よしよし、泣きやんでくださいねー」
立て続けに泣きまくったせいで、今日は脱走失敗。
赤ん坊の体力って少ない。ガチ寝入りをして、終わった。
「レーオー」
ミシェーラ姉ちゃんは大体決まった時間に現れる。
どうやらお勉強だの何だのの空き時間を潰して、わざわざやって来てるようだ。そんなに弟ってもんはかわいいもんかね。意味不明のタイミングで泣いてはいちいち家の人間を呼び出す困ったちゃんなのに。夜泣きはがんばって我慢してるけど。
「あのねー、大はっぴょうがあるんだよ?」
「あう」
「じつはじつはー、明日! お父様がかえってくるの!」
ほう、かわいいかわいいこの俺様が生まれてからまだ1度も顔を出さなかったすっとこどっこいか。でもミシェーラのこの感じだと、一大イベントっぽい感じだな。
仕事人間って感じか? バリバリに働いてるんなら、対応を練り直すか……いや、現物見てからだな。
これがクマみたいな野郎だったら泣いてやろう。イケメンだったら、俺もそうなる可能性が高いから鼻を高くさせてやろう。
「お父様はね、レオ。とってもえらい騎士なんだよ」
訊いてもいないのにミシェーラはにやけながら喋り出した。
ミシェーラ曰く、
パパンは騎士なる職業。
パパンは世界一かっこいい。
パパンは騎士とやらの仕事の都合でなかなか帰れない。……らしい。
にしても、騎士て……。
魔法があって、今度は騎士でございますか、お姉ちゃん。
あれだろ、甲冑とか身につけちゃって、騎士道とは何たるかー、みたいな感じの頭の固そうな感じだろ? やたらプライドが高くて頭もガチガチな軍人みたいのを想像すりゃいいのか? ちと危ない公務員みたいな感じか?
だとしたら……ヤダな、ちと。
俺は生まれる前からロックなソウルを胸に宿してるんだぜ、そんなお固い人間とはちょっと馬が合いそうにねえよ。
むしろ体制をぶっ壊す側にいたいくらいだ。
誰もやったことのねえことをやってのけて、拍手喝采でよりどりみどりの美女に囲まれて、普通に働いて普通に暮らす人間じゃあ一生飲めねえような酒をガバガバ飲んで……。
「はやく明日になったらいいね」
「あー」
「えへへへ……ちゃんとおへんじしてレオはいいこだね」
そんなわけで、パパンが来ることを知った。
だけどどういうわけだが、その夜にふらっとママンが来ると俺を抱き上げた。何か揺れると思ってぼんやり目を開いたら、ママンはすすり泣いていた。
「あぶ」
何で泣いてんだ、母ちゃんよ。夜に泣くのは赤ん坊の仕事だろ。
ねぼけ眼でぷっくらしてる手を伸ばすと、ママンの顔を触れた。その手をママンは自分の手で包みこむようにして、また泣く。そう言えば母ちゃんの登場頻度はそう多くない。たまに相手をしてくれるかと思えばそれこそ聖母のように慈愛に満ちた眼差しで俺を抱いてくれるのに。
「ごめんなさいね……レオ……。許してちょうだい……」
「あう」
何を懺悔しているのか知らねえけど、泣くなって。
ママンが泣いてたら俺まで何か悲しくなってくる。あ、ダメだ、赤ん坊なもんで涙腺が――いや泣くな、俺。この母ちゃんはガチで引っ張り回しちゃいけない相手だ。
「……ぅ……うっ……あんぎゃあああああああ―――――――――――――――――――っ!」
腹が減ったり、しょんべんすんのと同じで、赤ん坊にとっちゃ泣くのも生理反応か。
夜中にも関わらずブリジットが駆けつけてきて、泣く母子を見ると鬼メイド長の目にもうっすら涙が浮かんでいるように見えた。……おいおい、明日はパパンがくるってのに、しんみりするなよ。
とまあ、気楽に構えてた翌朝。いつの間にか俺は寝てたし、いつものように誰かが部屋に来て目が覚める。カーテンが開いて、日光を浴びて俺の一日も平穏に始ま――
「これがレオンハルトか」
「あぶっ」
片足を握られて、食肉みたいに逆さまに持ち上げられる俺。
持ち上げてきたのは白髪混じりのオッサン。やたら精悍な顔つきの、これぞ武人ってぐらいの貫禄がある。しかもマントみたいのまでつけてて、くすんじゃいるけど重そうな鎧もつけてる。
「だ、旦那様っ、レオンハルト様を乱暴に――」
「黙っていろ、ブリジット。この時より、レオンハルトはただの赤子ではなくなった」
何それどういうこと。
ただの赤子じゃなくなった? じゃあ価値のある赤子様ってか? 頭に血がのぼるから、そろそろおろしてほし……あ、ちょ、マジ、やめて。
ギブアップのために泣こうかと思ったらブリジットがけっこう手荒く、俺をオッサン――恐らくパパン――から取り上げて抱いた。ばあさんのくせにやるじゃないか。けども、その旦那様が見るからに冷たい眼差し向けてきてんぞ、平気か? 泣きまくって誰か起こすか? つかブリジット、呼吸、荒いぞ? けっこうな年だし、あんま興奮するなよ?
「返すんだ、ブリジット。それはもうこの屋敷にいるべきものではない」
「しかし、旦那様……!」
「レオンハルトの将来のためだ。それは分かっているはずだ。トリシャも理解をしている」
睨み合い。
パパンの眼光は鋭い。
ブリジットが俺を抱く腕に力が入っている。
一体どういうことなんだ、これは。別にパパンがDVオヤジって感じもないし、かと言ってこの有無を言わせぬ感じは不愉快だし。
ブリジットが俺を見た。近くで見るとほんとにばあちゃんな感じだな。鬼メイド長とか言ってごめん、ブリジット。ちょっと厳しいだけの立派なメイドさんだと思うぞ。メイドの良し悪しなんて俺にゃあ分からんが。
「レオンハルト様……強く、あってください」
「だぶ?」
どういうことだか。
パパンがブリジットに歩み寄ってきて、俺は引き渡される。今度は雑に持つこともなかった。片腕にすっぽり収まって、固い胸当てに体が押しつけられる。
「留守は任せた」
「……いってらっしゃいませ、旦那様。レオンハルト様」
パパンに抱えられて初めて外へ出ると、庭には朝もやがかかっていた。
広い庭だ。野球はムリにしろ、バスケのコートは2面くらいなら入りそうだ。庭の手入れをしていたイザークが顔を上げてこちらに気づく。その視線を無視するようにパパンはまっすぐ門まで歩いていく。
ママンも、ミシェーラ姉ちゃんも顔を見せてない。
あんなにミシェーラが喜んでたのにパパンはもう行っちまうのか? ちいと薄情すぎやしませんかね。
門の前には見るからに立派な黒塗りの馬車があった。パパンが乗り込むと、静かに馬車が動き出す。いまだ、俺はパパンの腕の中。にしても、寡黙なおっちゃんだ。
「あぶ」
呼びかけてみるが、さっぱり反応なし。ぎゃん泣きしてやろうかと思ったら、パパンは俺に目もくれず――
「レオンハルト、恨むのなら強くなれ。でなければお前に価値はない」
赤ん坊に何を言ってやがりますか、こいつは。
意味深な言葉の意味は分からず、それきり何も語らず、諦めて寝ることにした。
ママンが泣いてたのは、これを知ってたから――だったのかもな。