水と氷の湖で
大空洞を進んだ。
不思議な場所だ。空気が澄み切っていて、静寂だ。
時間を丸ごと凍結させてしまったかのようにも思える。
そこを歩いていった。時折、氷の壁にうっすらと何かの影があった。それはガチガチに固まっているが、顔を近づけてよく見れば魔物だった。雪崩か何かに飲まれ、ほんの数センチ向こうへ辿り着けずに凍死したんだろう。
だが、とても死んだようには見えない。
剥製を氷に閉じ込めましたとばかりだ。食いものに困ったらこれを取り出して食っちまえばいいんじゃないかとか冗談で言ってみたが、何がきっかけでこの大空洞が崩れるとも分からないと冷静に言われてしまった。
俺が提案した時のリュカの輝いた顔と、エノラが冷たく言い返した答え時のリュカのひどく落ち込んだ顔は見てると笑いそうになったがこらえておいた。
俺にはつんけんしてるが、やっぱリュカはリュカだな。
そうして歩いていくと、だんだんと道が細くなっていった。
この空洞へ出た時の横幅なんて30メートルか、40メートルかはあったように思えたのに、それがだんだんと狭まってきて2人並ぶと少し窮屈くらいにまでなってしまった。だが、相変わらず天井は高い。ぶっちゃけどれだけ高いか見えない。光が届かないのだ。
やがて。
一度は肩幅ギリギリにまで狭まった通路をどうにかこうにか抜けると、また広くなった。しかし、そこは氷の壁に閉ざされた空間ではなく、上も下も右も左も岩の壁に囲まれていた。
氷と岩の空洞から、岩のみの洞穴になった。
随分と寒さもやわらいだ感じがする。不思議だ。ここは雪山のただ中なのに、そう寒くない。風がないっていうのも随分と大きいかも知れない。
しかし、このアイウェイン山脈というのはデカい。どれだけ進んでいるのかも分からなくなったが、まだ終わりそうにない。
さらに進むと、この環境では随分珍しいんじゃないかと思えるものが姿を見せた。
水だ。洞窟の中に、湖のようなものが姿を現したのだ。綺麗に透き通っていて、湖の底まで光をかざせば見られてしまう。魚なんかは一匹もいなさそうだ。
「ねえ、これ泳げる?」
「風邪ひいてもいいなら」
「…………」
前なら、俺に尋ねてきたもんを最近はエノラに尋ねてばっかだな。
へいへい、いいですよー、どうせ俺なんて目の上のたんこぶですよーっと。
エノラは湖には入らず、迂回するように歩き出した。
こういう水って飲めるもんなのか? でも生水は腹壊すとか聞いたことあるしな。湧き出てるような水なら大丈夫だとか聞いたことがある気はするけど、判別がつかない。
つめたーい水を飲んだらうまいんだろうなあ。でも今は腹壊しそうだからやめとこ。
「リュカ、たまにでいいから魔影使っておけよ」
「分かってる」
つっても、こんな岩だらけじゃあ、あんまり分からないだろうけど。
何かあのアイナってのは怖いな。さんざんエノラが脅したからか、いや二つ名持ちだからか。
「――あれっ?」
「どした?」
「何?」
素っ頓狂な声を出し、リュカが湖を見た。
そのままじっと、湖を見ている、魔影で何か引っかかったのか? 湖の中に何かがいたとか? 魚もいないんじゃあ食いものもないだろうに。
「……何か、水の中にいる」
「動きは?」
「ない」
「じゃあ無視」
「だな」
エノラがまた歩き出し、俺も続く。
リュカもしばらく湖を見てからついてきた。
何かいるにせよ、動きがないならいいだろう。
しっかし、どこにでも生きものっているもんなのか。エサもないだろうに。ないよな? それとも霞とか食えちまうのか?
やがてまた細い道となった。すぐそばをあの湖から伸びた水が流れている。緩やかだが下りの斜面になっていて、それに従って水も流れ落ちていっているようだ。
とは言え、目に見えるほどの流れはない。静寂そのものだ。
エノラが持っている松明の明かりを水面が反射し、洞窟には光の波紋が浮かんでいる。
綺麗なものだ。幻想的と言っていい。ひたすらに氷を切り出しては後ろに積んでという作業をしていた苦労もあって、今はなかなかに素晴らしい洞窟探検と言える。
まあ短剣と言うからには危険もつきものだが、そんなものはこれまで散々味わってきたし、このアイウェイン山脈越えにおいては必要ないだろう。というか、何もない方がいい。
「……近づいてきてる」
ぽつりとリュカが漏らした。
最後尾を歩いていたリュカは後ろを振り返っていた。俺達の歩くすぐ横を音もなく流れている水へ目を向ける。
「早いのか?」
「あんまり。近づいたり、離れたり」
「早めに離れた方がいいかも知れない」
それがいい、と返した。
歩くペースを早める。リュカにはエノラの後ろを歩かせ、俺が殿についた。あまり広いところじゃないから槍は使えないが、俺の腰の短剣なら充分にやれる広さだ。
さらに歩いていくと、岩の洞窟が終わった。氷と交じりあった、空間だ。広くなる。
だがここにも、水は流れ込んできていた。氷の大地に水が張られている。不思議なもんだ。氷の方は固まって白く濁ったように見えるからいいが、水は透明度が高いからそこだけくぼみになってるのかと思わせられてしまう。底も氷なもんだから、どこに底があるのか分からない。
「――来る!」
そんな空間へ出てきた時、リュカが叫んだ。
歩いてきた細い通路。その傍を流れていた水の表面が波打っている。来ている。
見えた。
魚かと思ったが、違う。
ヘビ。
かとも思ったが、妙に違う。
水面から勢いよく飛び出してきて、何じゃこりゃと思わせられる。
奇妙な魔物だった。鱗やヒレがついている。それは魚のようだ。だが、背中の曲がった人のような姿もしている。2本の足で立ち、2本の腕を持っている。手にも足にも水かきめいたものがある。指の数は4本ずつのようだ。
腰の曲がったばあさんのような猫背だが、身長は170くらいはありそうだ。タラコ唇だが、口が開くと魚みたいに小さくて鋭い、ギザギザの歯が並んでいる。ここは山の中で、しかも湖だが、サメのようにも思えた。
最初に魚かと思ったのはそのヒレによるものだ。
ヘビかと思ったのは泳いでいる姿がそれに見えたからだ。
しかし、姿を見てみれば、魚と人を足して2で割ったような魔物だ。
マーマンみたいなやつだな、と何となく思った時にはリュカが剣を引き抜いていた。
「でぇえええいっ!」
リュカが駆け込んで剣を振り下ろす。
硬い音がした。魔物は器用に腕を持ち上げてリュカの一撃を防いでいた。そして噛みついてくるが、剣を引いてわざとリュカはそれを噛ませた。
力ずくで、噛まれたままに頭を切ろうとしたらしい。
だが、僅かに魔物は抵抗をしてから自ら飛んだ。そうして湖の中へ再び潜り、その中を弧を描くように泳いでいる。
「あれって何て魔物だ?」
「知らない」
「水と陸と、両方行けるとか反則だろうに……」
槍を抜く。
だが、漁なら得意だ。最悪潜って仕留めてやろう。
次の瞬間、水飛沫を上げながら放たれた矢のように魔物が飛び出てきた。




