わがままジジイ
「じーじ、かた、もんでやろうか」
「いきなりどうした」
「いいならいいけど」
「……やりたきゃやれ」
レオンがいずれワシの下を離れ、遠いどこかへ旅立つのだとは分かっていた。
だが、ある日いきなり訪れたこの子どもと離れると考えると、わびしさばかりが募るものだった。
こんなワシには見合わぬほどにレオンは良い子であった。
手を煩わされたことはない。喋れるようになると、ぺらぺらと口を利くようになった。本当に子どもかと疑いたくなることさえ言ってきて、生意気なところもある。だが、よくワシに懐いて、じーじと呼んでくるだけで、こんなものがあったのかと自分で意外なほどにかわいくなってしまった。
「どう?」
「力が足りん」
「……そこはおせじでもさあ」
「肩もみちゅうのはもっと違うだろう。こっちに背を向けろ」
「いいっておれは」
「いいから向けろ」
あと1年待てと告げた時もレオンはすぐに理解した様子だった。これはワシのワガママの時間だ。それにレオンはつき合ってくれている。
年甲斐もなく嬉しくなり、ワシも幼い子どもを相手に茶目っ気が出るというものだ。
「ふんぬぅっ!!」
「いっ、だだだだっ! いったい、いたい、いたいって、じーじ! じーじぃぃぃっ!」
大して力を込めたわけでもないのにレオンは身をよじり、大声でワシを呼び、訴える。
それが楽しくて、痛がりながらも笑うレオンの笑顔がかわいいもので、つい意地悪をしてから放す。するとレオンは不満気な顔。
「ちっとも凝っておらん」
「だから、いらないって……」
ぶつぶつ言っても、笑っているのだ。この子どもは。
文句を言えば、軽口も皮肉も言う。だが決してレオンはワシと距離を置こうとはしない。
もう嫌だと言い、意地でも出ていくと言えばワシは見送るだろう。
レオンを拾ったのはワシの気まぐれで。育てたのはワシのワガママで。本当の親と子でもなければ、爺と孫というわけでもない。
ワシが縛る道理がなければ、ワシの傍にいなければならん言われもない。
だから――このワガママにつき合ってくれるレオンを、余計に行かせたくはないと思ってしまう。
「はぁっ……はぁっ……おれの、かちでいいな?」
まさか負けるとは、思いもしていなかった。
ワシが作ってやった木の銛を、ピタと喉元へ向けたままにレオンが問うてくる。
ほんの子どもだというのに。
そのまま黙って、息子のように去って行こうとワシは受け入れる覚悟だというのに確認をしてくる。銛を掴み、取り上げれば済むだろう。この海に、浅瀬とは言え背の小さいレオンを押しつければ、それで済むはずだというのに。
認めざるをえない。
ここまで、よくつき合ってくれた。
つまらないしがらみに絡みつかれて逃げるように辿り着いたこの海で、レオンはワシに楽しい日々を贈ってくれた。顔いっぱいにメシのカスをつけて食べる姿が、できもしないのにワシの後にくっついて、必死に漁のまねごとをしていた姿が脳裏をよぎる。
海を叩くと、飛沫が舞う。
それから立ち上がるとレオンは銛を引く。
頬を流れ落ちる雫が海水かと思えば、目から溢れていた。頭を振りる。
そうしてからレオンの頭を一度、撫でる。こうして撫でてやることは、ほとんどしなかった。レオンはどこかの貴族の子であり、ワシの子ではない。だから遠慮をしていた。
それがたまらなく、悔しくも思う。同時に、巡り合わせに感謝もする。
レオンから目を逸らすように海を眺める。何十年、何百年と変わらぬ、美しい海の水平線がそこにある。
荒ぶる海の恐ろしさを知っている。
豊かな海の恵みと美しさも知っている。
海とともに生き、いずれ死ぬ。
そう決めて歩んできた人生で、レオンと過ごしたこの年月ほど充実したものはなかっただろう。
だがもう、満足した。
レオンは逞しく育ち、とうとう老体とは言えワシに勝った。
「どこへでも行け、レオン」
ワシの役目は、もう終わったのだろう。
小屋へと向かって歩き出す。すぐに行くのか、また一晩の大切な時間をワシにくれるのか。
いずれにせよ、もう止めはしまい。
この老いぼれはただ、見送るのみで良い。
いつもならばついてくるはずなのに、レオンは立ち尽くしていた。
滅多に泣かぬ子だと思っていたのに必死に鼻をすすり上げ、レオンは泣いていた。
「何を泣いとる、レオン……」
そんな顔では送り出せん。
まだワシの手にいた方が良いのかと、ワガママが膨らむ。
「っ……ないて、ねえ。……っふぅ……ふぅぅぅ……ひくっ……ないで、ねえがら゛……」
必死にそれをこらえようと、止められぬ様子だった。
そうだ。まだこれほどに小さい子どもだ。もう少しだけ。
1日でも、10日でも、半年でも、1年でも――。
いや、それはいけないことだ。
レオンはもう、何も教えることのない、ひとりの海の男。
ただ少し、小さいだけの。
レオンを抱き上げると、堰を切ったようにレオンは泣いた。
強い力でワシに抱きついて、しがみついて、別れを惜しむように泣いてくれた。
もうそれだけで、ワシは満足だ。
またいつか、背を伸ばしてワシに顔を見せてくれればいい。
それだけあれば、いつまでだって生きられよう。