バリオス卿とリュカとメイド
「サントル、見て見て、大物釣れた!」
「分かったが、リュカ……いつも言っているだろう、汚れや水をきちんと落としてから入りなさい」
「でも魚抱えてるんだから汚れちゃう」
「何かへ入れればいいだろう」
「あ、そっか」
今さらにまた屋敷を飛び出していく小さい背中を見送ると、また頭が重くなった気がした。
それからネオナにシェフへ活きのいい魚が届くように伝えなさいと命じる。
リュカを屋敷に預かるようになり、もうすぐ丸4年。
そそっかしいところはあるが大きな病気もせず、元気に育っている。少々、腕白すぎるところは玉にきずだが目の前の仕事ばかりに没頭していると、彼がひょいとやって来てはかき乱し、顔を上げさせてくれる。そのお陰でこのカハール・ポートを正しく見られている――とまでは言い過ぎか。
だが、もうじきに約束通りにレヴェルト卿子飼いの、あの少年が戻ってくるのだろう。
そうすればリュカは彼とともに、カハール・ポートから、この屋敷から去る。寂しくなりそうなものだ。
「旦那様、シェフが……どう、調理しましょうかと」
戻ってきたネオナがおずおずと尋ねてくる。
最初は痩せた、みすぼらしい少女だったが最近は少々ふっくらしてきた。それでも元奴隷で、わたしに拾われたという恩義があるのか、どこか卑屈に感じてしまう。
いや、ネオナだけでもないか。今の使用人達は、程度はあるが誰もがどこかで遠慮して、歪にかしこまっている。主を主とも思わぬのもどうかとは思うが、これはこれであろう。
「ふむ……ネオナはどんな魚料理が好きだ?」
「わたしは、特には……」
「食べたことがないのか? わたしはお前達にもしっかりした食事を食べるよう命じているが」
「そ、そんなっ……そういうわけではなく……」
「では、今のシェフの料理が口に合わぬと」
「いえ、とってもおいしいです」
「……一番おいしいと思ったものは何だった?」
「ええと……」
「それをわたしも食べてみたいものだ。別にわたしと同じメニューをお前達が食べても構わん。そうしなさい」
「は、はい」
「ああそれと、リュカから魚を預かっておきなさい」
仕事へ戻り、終えたのは日が沈んでからであった。
ネオナが食事の時間だと呼びへ来て食堂へ行くとリュカが座って待っていた。
「サントルおっそいよ、お腹もうぺこぺこ」
「あまりいやしいことを言うものでない」
「だあーって……」
「レオンハルトも軽口は得意だったが、自分の感情だけを押しつけるようなことはしなかったぞ」
「……はあーい」
さて、今日の食事はシンプルにムニエルのようだ。
リュカが獲ってきたという魚は確かに大物だったらしく、腕を広げながらそのサイズを語っていた。シェフも捌くのに少し苦労したそうな。
「今日は何をしてきたのだ? 釣りだけではあるまい?」
「釣りの前に剣の特訓してきたよ!
それから釣りに行ってー、あとは町で人形がしゃべってた!
皆そこに集まってて、どっからどう見ても人形なのに、おっちゃんが人形に手を入れると喋り出すの。
それでおっちゃんと面白い話いっぱいしてて、すっ……ごい、面白かった!」
腹話術か。
前に何度か見たことはあったが、あれはなかなか愉快なものだったな。
「サントルも見たら?」
「ふむ……そうだな。リュカ、手紙を書くから、その男へ明日持っていきなさい」
「手紙?」
「この屋敷へ、招いて観賞しよう。屋敷の者、全員でだ」
「ほんとっ!? やった!」
「リュカ、喜ぶのはいいが食事中は大騒ぎをするものじゃない」
そっと控えている者達を見る。
おおむね、楽しみにしているようだったがネオナだけはどうしてか浮かない顔をしていた。
翌朝は早くにリュカがわたしの書いた手紙を握って飛び出していった。もしかすれば、字の読めぬ者かも知れないがリュカにはきちんと字の読み書きを教えてあるから、読み聞かせてもやれるだろう。
そうして昼前ほどになり、リュカは腹話術士を連れて屋敷へ帰ってきた。
「それでは披露させていただきます――」
昼食でもてなしてやってから、使用人を全て集めさせて広い部屋でともに腹話術を見る。
うまいものでわたしは唸らされてしまったが、他の者はリュカを始めとして腹がよじれるかというほどに笑い悶えていた。
ディナーも食べていきなさいとは伝えたが、町で楽しみに待っている者が多いからと謙虚に男は去った。せめてもの礼に金貨を1枚持たせると嬉しそうに、またカハール・ポートへ来た時は声をかけてほしいとまで言ってきたものだ。
夕食の後、海を眺望できる屋敷の裏庭へ出て煙草をふかそうと思ったらネオナが柵へ手をかけていた。身投げのようではないようだし、ただ眺めているようでもあった。
波の音は絶え間なく聞こえ、明るい月が空に浮かんでいる。
この景色だけはわたしが幼かったころより変わっていない。
「何を見ている、ネオナ」
「っ……だ、旦那様、申し訳ありませ――」
「何も謝ることはしていないであろう。そのままで良い」
煙草へ火を点け、煙を吐き出す。
「屋敷での生活はどうかね」
「は、はい……とても、良くしていただいて、有り難く思っております」
「……お前はどうも、ひどく遠慮をしているように見える。
立場をしかと弁えていることは良いが、息が詰まってしまっているかと思うほどで少々、目につきすぎる。
何か胸に重いものがあるのであれば、良い月夜だ。吐き出してしまいなさい」
「ですが……」
「それともわたしを、使用人のひとりさえ満足に暮らせてやれない能無しにしたいのか?」
「そ、そんなことはありませんっ」
「では良いであろう」
海の手前に広がる町並みは、人々の活気にまだ溢れている。
もうしばらくは長い夜を楽しむべく、赤ら顔で酒場を回り、語り合う者もいるのだろう。
「……旦那様」
「うむ」
「わたしは……卑しい生まれでございます。
父はどこの誰とも知らぬ男で、母は娼婦をしておりました。
奴隷となり、買い手を待たされている間も、こうなるのが必然だとも思っていました」
ネオナは語った。
自らの出自に誇るものはなく、人として最底辺を這うように生きるのが宿命だとも思い込んでいたと。
それがレオンハルトによって解放され、わたしが屋敷へ全て迎え入れた。
そのことが彼女には受け入れがたい幸福であり、柔らかな棘となって蝕むのだと。
「光栄でございます。
けれど……身に余るのです。
屋敷で働く他の皆様は受け入れていらっしゃいますけれど、わたしだけはこんな、これほどに安定して、穏やかな暮らしをするのは違うと……思ってしまうんです。
ですけれど、旦那様にこんなことを仰るのは……拾い上げてくださったのに、失礼で……申し訳なく……」
理解には苦しむが、ネオナもまた苦しんでいるようである。
煙草はすでに吸い終わり、吸殻は足元へ捨てている。
「ネオナがそのような考えを持っていたとは知らなかった」
「……申し訳ありません」
「だが、お前はまた奴隷のような存在になりたいというわけでもないのだろう?」
「はい……」
「ならばもうしばらく、我慢してみなさい。
与えられた自由な時間はどう過ごしている?」
「やることもなく、部屋で……」
「給金も出しているのだ、買い物へでも行って着飾りなさい」
「ですが……」
「落ち着かぬのなら、屋敷の普段は手の届かぬ場所を掃除しても良い。
何もしない時間というのは退屈で、お前のような真面目な者は暗い考えをずっと頭に渦巻かせてしまうだろう。
わたしからの命令だ。次に時間ができたら買い物へ行き、気に入った服で着飾って見せにきなさい」
「そんな……旦那様はお忙しいのに」
「わたしも綺麗な女を見れば元気がわくというものだ」
笑ってやるとネオナは恥じらうように顔を伏せる。
「ネオナ、わたしは貴族に生まれ、父の後を継いで領主となった。
だが子ども達には……恵まれなかったのだ。唯一、生きていたビバールも野心を抱いて破滅した。
しかしわたしはこのカハール・ポートの全ての民を、我が家族のようにも思っている。
ともに屋敷へ暮らすお前達はさらに特別なものとも考えているのだよ。
教養もなく、使用人としては良く言おうと二流どころではあるがな、それでも……家族と思えば、健やかにいてくれるだけでも良いと思う。
出自などは、些細なこと。ここから眺める景色を美しいと思う気持ちは同じなのだから」
「……旦那様」
「いずれはお前も、どこかへ嫁ぐ。いや、嫁がせるつもりだ。
その時に飾り気のない女だなどと言われぬようにしておきなさい。
これはわたしの主としての命令であるとともに、お前を家族としてみなした時の家長としての願いでもあるのだよ。
それでいいな、ネオナ」
「っ……はい、ありがとうございます、旦那様」
「あまり風に吹かれても体を冷やす。適当に戻りなさい」
屋敷へ戻ると、使用人が昼の腹話術の話で思い出し笑いをしていた。
きちんと部屋へ戻ってからやれば良いものを、とも思ったが今日は黙っておいた。
数日してから、ネオナがおめかしをしながら、おずおずとわたしの書斎へ来た。
あまり着飾ることには慣れていないようで、2、3の助言をしてやると、次からはわたしの助言を取り入れて訪れるようになった。




