王女と世話係 5
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今より遥か、遥か昔のこと。アレミスもハルネールも建国されていなかった頃のことだ。この地には、見目のよく似た二つの種族が暮らしていた。
時に助け合い、時に争いながら、それでも二つは正しい距離を保って、平和に暮らしていた。
彼らの『知能』を生み出し、彼らの『心』を複雑に分化させたのは、一体何だったのか。それはまさに進化という緩やかな変化であり、それらが生じた瞬間などは、どうあがいたって断定できない。
が、それが生まれたことによって、二つの種族に越えられない違いが生じてしまったことは確かだった。
『人間』と呼ばれた一方は欲望に苛まれ、『吸血鬼』と呼ばれた一方は孤独に蝕まれた。力の弱すぎた『人間』は数と技術でその力を激増させ、力の強すぎた『吸血鬼』は最後まで孤高のプライドを棄てなかった。一方は狡猾に、一方は高潔に。
やがて、両者はお互いがお互いを蔑み合うようになる。
彼らは、過去にないほど長い間、争って、争って、争った。
―――そして、
「一方は滅びたとされておりますが………、それは違います」
「………」
「今は各地に散らばって、身を潜めて暮らしている者が多いでしょうが、確かにまだ存在します」
「それが………貴方だと………?」
「はい。………と、胸を張って言いたいところですが、私は混血ですので………純血の者が残っているかどうかは、はっきりいたしません。少なくとも百年前には存在いたしました」
「………吸血鬼、が………」
そんなまさか。そうは思うが、目の前には瞳こそオッドアイであるものの、はっきりと伝承と同じく銀色の髪を持つ青年が立っている。
「私には………貴方のお気持ちが少しだけわかります。混血故に、存在を喜ばれたことはほとんどありませんでした。おこがましいと、承知しておりますが………それでも、私は貴女を救いたいのです。貴女を護ると………、誓ったのです」
ロザリーはじっと、下を向いてハルドの話を聞いていた。こんなに暖かい言葉だけれど、そんな言葉を素直に受け入れられなかった。
何度、裏切られてきただろう。
何度、期待を粉々に砕かれたことだろう。
もう、自ら断頭台にあがるのは、ごめんだった。
「は、るど」
拙い声で、名を呼んだ。
「はい」
「私がここに………まだ閉じ込められているのは………どうしてか、知っている、か」
「………人間どもの悪習、では………?」
「………髪のことはもちろん、そうだけれど………違う、の」
これを言えば………もう彼は二度と来ないかもしれない。希望の光は二度と、現れないかもしれない。でも、それで良かった。ロザリーは、そんな光など、はなから求めて等いなかった。
「私には、未来が見える」
「………!」
「私には、人の心が見える。………正確には、悪意が」
「………それは」
ハルドの瞳が、一瞬だけ驚きの色を帯びた。
紅髪は、どの地域でも大抵忌まれるものの様で、しかし、その対処方法には地域色がでる。
生まれた瞬間に首を絞めて殺したり、四肢をもぎ取って焼いたり、一生世間から隠して軟禁したりと、方法は様々だ。
そして、このアレミスでは………
「私は、十二歳を迎えた日に………バラバラにされて、殺される予定だった」
「………………」
そう。十二歳未満の子どもを殺すことを何よりの禁忌とするこの国では、紅髪は十二年間だけ、生かされる。その分残酷な方法で、存在を抹殺されるのだ。
「でも、私は、生きている。余計な力のせいで………」
『力のせい』という言葉に、ハルドは影を感じずにはいられなかった。
「………人間は………その力を、図々しくも使おうと?」
「さぁ………。でも、私を生かしておくべきか、会議はまだ続いている。結論が出ないまま、三年過ぎた」
「………」
「だから………。ここにいれば………私の代わりに、貴方が殺される」
「………どういうことでしょうか」
ハルドは、そう聞きつつも、何となく答えが分かっていた。
「私の周りの、関わりのある人物を殺したら、私が………苦しむ、から」
そう。どこの誰かは知らないが、ロザリーの存在をよく思わない者の、度を越えた嫌がらせなのだ。
ずっと、そうやって緩やかに心を壊されてきたロザリーに、逃げ場などなかった。
「わかったでしょう?」
乾いた声。痛々しい、声。
ロザリーは、笑っていた。
「あんなに、優しい言葉、はじめて聞いた」
本心だ。
「あんなに、暖かい言葉、はじめて言われた」
本心だった。
「だから、ハルド」
それは、誰のためでもなく、ただ、自分自身のために。
「二度と、来ないで」
会って数分だったけれど、優しさや希望に飢えたロザリーの心は、ハルドの言葉に縋り付きそうになっていた。
ハルドの言葉は嘘かもしれない。いや、経験上、確実に嘘だろうと、少なくともロザリーは思っていた。嫌がらせが、レベルアップしたのだ。期待させて、依存させて、そんな相手を殺せば………今以上にロザリーは確実に傷つくし、苦しむ。
そう、たくらみが分かっていてもなお、縋り付きそうになった。
これほど危険で残酷な罠が、他にあるだろうか。
嘘だと分かる前に、裏切られる前に、万が一、彼の言葉が嘘でなかったとしても、せめて彼が殺される前に、ロザリーは防御線を張ったのだ。
しばらく黙って聞いていたハルドは、くるり、とロザリーに背を向けて言った。
「………わかりました」
そうして………差し込んだかに見えた光を、ロザリーは自らの手でかき消した。
後にはもう、静かないつも通りの『日常』があるだけ。
ロザリーはほっとして、漸く足元に落ちる本を拾い上げる。光を見てしまえば、もう闇に戻れない。何も見えない闇の中に、さらなる闇はないのだから、ロザリーにとってこれほど安心できるところはない。
これでいいのだ。
これで………。
いつも通りに静まり返った部屋は、まだ少し、ロザリーに居心地の悪さを感じさせた。
****
予想だにしない事がこんなに何度も起こる日は、ロザリーにとって、生まれて初めてだった。
数十分前に静寂を取り戻したはずの部屋に、突如あるはずのないノックの音が響き渡る。
―――コンコン
―――バサッ
本を二度も落とした。これも生まれてはじめてだったが、そんなことはどうでも良い。
これはいったい、どういうことだ。
心の準備も整わないうちに、ガチャリ、と無慈悲にも扉は開かれてしまった。
それだけは予想通りで、現れたのはやっぱり、先ほどの綺麗な吸血鬼だった。
「失礼いたしますロザリー様。午後の紅茶をお持ちいたしました」
「―――――――――は?」
「準備いたしますので少々お待ちください」
「………………え、………」
「今日はここの厨房にあったレントリーニ社のダージリンティーしかご用意できませんでしたが、今後はロザリー様の好みに合わせられるよう色々と揃えさせていただきますね」
「………ちょ………っ」
「ダージリンはストレート向けですが………ミルクやはちみつはお入れになられますか?」
「まっ…………、まって!」
自分でもびっくりするほどの、大声だった。ぴたりとハルドの動きが止まる。ただ、ロザリーの方を向こうとはしなかった。
一方でロザリーは、たった一言叫んだだけで肩で息をしていた。
―――どうして?
初めにハルドが挨拶をしに入ってきた時以上に混乱している。
先ほど、ロザリーの言葉に納得して出て行ったはずの彼が、どうしてまた数十分後には当たり前のように紅茶を入れ始めているのか。
何処をどう考えても理解ができない。
何から追求すればいいのかさえ分からずに、ただ、息を整えながら、ロザリーは混乱していた。
と、ハルドがおもむろに口を開いて、呟くように言った。
「………ようは、私が死ななければいい」
「………え………?」
「私のことは、気になさらないでください。私は、混血と言えど、列記とした吸血鬼の血を引いております。そこらの人間ごときにやられはしない」
「………………で、も」
「裏切ることも、決していたしません。………これは、どう証明すればよいのか、わかりませんが………。貴女が私を信用できないなら、それでいい。常に、疑っていてください。お望みであれば、このように干渉することも控えます」
「………………」
「それでもいいから、どうか………」
ハルドが漸く顔を上げて、まだ金色に輝く瞳でロザリーを捕えた。
「どうか、お側にいさせてください」
あぁ、だめだ。
ロザリーはどこかで、そう思った。
どうしようもなく怪しいけれど、おそらく、全部はったりだろうけど、それでも『嬉しい』と、そう思ってしまった。
運命は、決まっている。そして、ロザリーの運命は、狂っている。
きっと、そういうことなのだ。
ロザリーは、早々に、運命に逆らうのをあきらめた。
彼を受け入れたのではない。運命を受け入れたのだ。
「仕方がない」と、ロザリーは心の中で呟いた。
逃げだったのかもしれない。優しさに飢えた心が作った、大義名分だったのかもしれない。
とにもかくにも、ロザリーはハルドを追い出すことを、早々に諦めた。その事実だけは、変わらない。
そうして、その日を境に、吸血鬼の世話係と紅髪の王女との、奇妙な主従生活がはじまったのだった。