王女と世話係 4
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運命が狂ってしまう瞬間があるとするならば、
私のそれは、きっと生まれ落ちたその瞬間なのだと、そう思っていた。
部屋にノックの音が響き渡る、その時までは―――。
朝の光は優しいから好きだった。
暗くて寂しい夜から解放してくれるような気がする。例えそれが虚しい幻想でも、それでも朝の光を浴びるといくらか心が安らぐのを感じるのだった。
………だが、朝が来るのが待ち遠しいわけではなかった。朝が、明日が来るということは、いつだって怖かった。
何かが変わってしまうことは、例えそれが良い方向に変わるものだとしても、恐怖を伴うものだったのだ。
今日とは違う時間がやってくる度に、少女はいつも変化におびえていた。
願わくは、静かに、安寧に、自分の知らないどこかでいつの間にか終わるような、そんな一生を送りたい。そう、切に、願っていた。
気持ちの悪い汗を洗い流し、その帰り道で死体を発見し、しかし何事もなかったかのように部屋に帰ったロザリーは、『いつものように』本を読もうとしていた。
もうこの時間になれば、窓から入り込む陽の光は、本を読むのに十分な明るさになっている。
昨日最後まで読み切れなかった物語小説を本棚から慎重に引っ張り出し、両手で抱えてそのままベッドに座った。
何処まで読んだのだろう。確かエピローグに入る手前だったけれど………。
コン、コン―――と。
それはあまりに突然の出来事だった。
驚きを通り越して体は固まり、喉からは悲鳴さえ出ずに、ロザリーは文字通り、息を呑んだ。
どれぐらいの時間、頭を真っ白にしていただろうか。
事実、随分な時間を要して、ようやく首だけを少し動かして、唯一の出入口である部屋の扉を見つめる。
ノックだ………。
ロザリーの頭が、ようやくさっきの音の名前を見つける。
―――これは、空耳? 幻聴? それとも………。
それ以上の真実を確認する勇気なんて、十年以上閉じこもっている一人の少女に、あるはずもない。だからといって、元通り、読書に戻る勇気だってなかった。
どうしよう………っ
壊れてしまった玩具のように、その言葉だけがぐるぐると繰り返される。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
こんな時、どうすればよいのか、知らない。
ノックに対してどうすれば良いのか、生まれて初めて自分だけに向けられた音のメッセージだから、何が正解なのかわからない。
世話係でさえ、今まで誰も部屋をノックして入ろうとしたことなど無かった。
時間になれば部屋の外に食事が置かれている。それだけ。いつもいつも、それだけの関係だった。
だから、あり得ない。
この扉をノックする人がいるなんて、あり得ないのだ。
強く握りしめたシーツにしわが刻まれる。
しばらくの間、ロザリーは身体中に力を入れて、微動だにしなかった。
いや、正確に言えばできなかった。
―――けれど、
「………………」
いつまでたっても外からは二回目のノックが聞こえてこなかった。
扉の外に誰かがいる気配もない………と思われる。
………なんだ、気のせいだったのか?
全くどうしてしまったのだろう。この部屋に訪問者なんてあるはずないのに。
きっと今朝、嫌な夢を見たせいだ。そうに違いない。
無理やり恐怖を抑え込み、踊り狂う心臓をなんとかして落ち着ける。
よし、大丈夫だ。何もない。誰かがいるなんて、そんなはずはないんだから。
ロザリーはようやく少し落ち着いて、ほっと短く息を吐き、体の力を抜いた。
しかし、その刹那。
―――コン、コン、
「―――っ!」
びくっと言葉通りに肩が跳ね、息が止まった。
―――バンッ
思ったよりも大きな音と共に、手元にあったはずの厚みのある本が足元に落ちる。
が、そんなことに構っていられる余裕もなかった。
「ぁ…………っ」
開いた口から空気が漏れる。図らずしてそれは恐怖の声になった。
一度止まったかと錯覚した心臓の音が、ここぞとばかりに爆音を奏で始める。
気のせいなんかじゃない、確かに扉の向こうに誰かがいる。
なんで。誰が………。どうして………!
本が落ちた音が聞こえたのだろう。外からまた、ノックがされる。
『大丈夫ですか?』
と、そんなわけのわからない言葉と共に。
ダイジョウブデスカ、ってなんだろう。
誰に言っているのだろう。なんで、その言葉を使うのだろう。
おかしい。おかしい。こんなのおかしい。
ダメだ。もう、何もかもが、分からない………!
冷や汗が、嫌な感覚で背を滑る。心臓の音が大きすぎて、何も聞こえなくなりそうだ。
パニックになったロザリーは、全部を拒絶するかのように、耳を塞いだ。
『………申し訳ありません、失礼、いたします………』
中の様子がおかしいことに気付いたからか、何なのか。
遠慮がちだが、確実に部屋に入ろうという意思のこもった声。そして、
ガチャリ
運命の狂う音がした。
****
静寂が、部屋を支配していた。
静かなのは普段通りのはずなのに、いつにも増して音のないこの場所が、奇妙な空間に思えて仕方がない。それは、たぶん、自分以外の誰かがいるのに、こんなにも静かだから………。
あまりに長い沈黙に、耐え切れなかった。誰かがいる時の静寂は苦手だったのだと、初めて知った。
ゆっくりと、本当にゆっくりと視線を上げる。
黒スーツの足元が見える。本当に、誰かがそこにいることが、裏付けされた。次に、きっちりと身にまとわれた黒の背広の端が見え、片腕に下げられたローブのような長い布が見えた。
そこまで視線を上げて、それ以上を見る勇気が出ない。
顔を見るのは、怖い。目を合わせるのは、怖いのだ。
また、硬直する空気。一秒が永遠のように感じる、とはこういうことなのだと、ロザリーは初めて実感した。このままで、死ぬまで時が止まるのではないかと思うほどに、緊張した空気が流れていた。
しかし、その静寂を破ったのは、意外にも、ロザリー自身の第一声だった。
「えっ………?」
ザッ………と、ロザリーの声に少し遅れて、衣擦れの音と、上品な靴の底が石の床をこする音がする。視線を上げられず、見えなかった『彼』の顔は、図らずして、ロザリーの視線の先へ飛び込んでくることになった。
目の前に、真っ黒で艶やかな髪を揺らした青年が、跪いていたのだ。
「っ、へっ………、え………っ?」
「………………先ほどのご無礼を、お許しください……………」
「………っ」
部屋へ乱入したことへの謝罪を述べ、青年が顔を上げた。ばっちりと目が合って、瞬間、惹きつけられる。
―――あぁ、なんて、
「ロザリー=ミラ=アレミシェル様、ですね………」
端正な顔が柔らかくほころんで、向けられたことのないような笑顔が、紛れもなくロザリーただ一人だけに、向けられる。そんな『異常』な状況にも関わらず、ロザリーの思考は、ある一点に置かれたまま動かなかった。
なんて綺麗な瞳なのだろう。青く澄んでいて、空の色に近いけれど、もっともっと、深いような………。
そうだ、きっとこれは………まだ見たことがないけれど………『海』の色なんだ。
なぜだか、確信が持てた。それほどまでに、綺麗で、沈んでしまいそうな深みを帯びた色だった。
「………ロザリー、様………?」
「………あ」
声をかけられて、やっと、今の今まで彼の瞳に見惚れていたことを知る。
急に恥ずかしくなって、ロザリーは目を伏せた。
そもそも、この人が何者なのかも分からない状態なのだ。一瞬でも警戒心を解いていた自分に驚いた。と、同時に、冷静に考えるにつれ、思い出したように、先ほどの恐怖心が心の浸食を再開する。
声を出すのに数秒かかった。
「………っ………あ、なた………」
「はい?」
「………な、何なんだ………」
「………あぁ」
今度は青年がはっとする番だった。
「大変失礼を………。申し遅れました。私は本日付で貴女様の世話係に任命されました。ハルド=シュニヴァルト、と申します」
跪いたまま、頭を垂れて彼は言う。忠誠を誓う姿勢だということだけは、ロザリーにもわかった。どうしてそれを向けられているのかは、まるでわからなかった。
「世話、係………」
「はい」
「ハルド………」
「はい」
「どうして………」
どうして、ロザリーの部屋を訪ねたのか。どうして、挨拶までしたのか。
今までそんなこと、もちろん一度もなかった。
視界に、嫌でも映る長い紅髪。これは、この国で最も忌むべきはずの髪。
それだけじゃない。ロザリーがこんなところに閉じ込められているのにはもう一つ大きな理由があった。
そう、だから『普通』なら、関わりをなるべく絶とうと思うはずなのに、どうして。
「どうして………私なんかに………」
「どうして、とは………?」
きょとん、とする、海色の瞳。もはや話が通じていないことは明らかだった。
その、無垢ともいえる綺麗すぎる瞳に、気付くと、ロザリーの口からは自然と言葉が零れ落ちていた。
「私は………、呪いの、髪を持っている………」
「……………それは、」
人と話すことなど、慣れていないはずだった。
人と話すことなど、苦手であるはずだった。
「この髪は………悪魔の血色………、災厄を呼ぶんだ………」
「いえ、それも……」
けれど、どうしてか、言わずにはいられなかったのだ。ハルドの言葉など聞こえないまま、ロザリーは続ける。
「それに………私は………」
―――私は、何を言っているのだろう。初対面で、名前しか知らない青年に。私は、何を望んでいるのだろう。こんなことを言って、救われるわけでもないというのに。
自分を貶めることで、何かが許されるわけでもないのに。
きっと、こんなこと初めてだから。だから、何かが少しだけ、ほんの少しだけ狂ってしまったのだ。
今まで、全部を押し込めていた、枷のような何かが。
「わたし………は………」
ロザリーの中に芽生えた、初めての感情。なんと形容すればいいのか分からないけれど、それは確かに初めてだと言えた。
そんな感情があったにも関わらず、ロザリーから出てくる言葉、表情、声色、仕草―――そのすべてが無だった。
恐ろしい程に、抑揚のないものだった。
―――この人は、目の前にいる見目麗しい青年は、きっと少女がどんな存在でどうしてここにいるのか何も分かっていないのだろう。
言わなければならないと、そう感じた。
こんな存在であることを望んでいるわけでは、無論、ない。
―――でも。
こんな存在であることさえ許されないとしたら、『私』は、もうどこにも居ることができないような、そんな気がした。
「私は………ここには、要らない………存在だから」
自分が要らない存在だということに気付いたのは、いつだっただろう。
決定的なことがある前から、ずっと感じてはいた。世話をしてくれる人たちの、無機質な視線。本で知った、「親」という概念を、知らなかったという事実。
―――苦しめ。
頭の奥で、誰かが言う。
「わた、し、は………、苦しまなくては」
―――お前は、この世で最も憎まれるべき存在なのだ。
ぐるぐると、頭の中を回る、言葉。記憶。
憎まれるべき存在ならば、愛されてはいけない。愛される『私』は、存在してはいけない。それは、何かの呪いのように、少女の腕を、足を、喉を、縛る。
「私は、憎まれなければ………」
「―――違う!」
息が、止まった。空気が、止まった。
それは、とてつもなく大きくて、とても感情的な音をしていた。先ほどのロザリーとは、まるで正反対。
驚きのあまり、ロザリーは伏せていた顔を上げる。また、魅惑的な瞳に射すくめられた。
「違う」と、叫ぶように言ったハルドは、見ればぐっと何かをこらえるように拳を握っていた。
ロザリーが状況を把握できないうちに、ハルドはスッと姿勢を崩さず立ち上がる。
それを追って、ロザリーの目線は上がった。
「見ていてください」
「えっ………?」
言うと、真剣な顔をしてハルドはフッと目を閉じた。ロザリーは、何が起きるのか、そもそも今何が起きているのかさえ分からずに、言われるままハルドを見つめる。
すると。
「っ………!」
髪が。
青年の艶やかな黒髪が、頭からゆっくりと色を失ってゆく。
そして、代わりに現れたのは―――。
―――………ぎん、いろ………?
それは、白とは明らかに違った、光を反射して輝く、銀色の髪だった。
「あっ………」
思わず声を上げた。知っている。ロザリーはそれを、遥か昔の逸話で読んだことがあった。人間では、あり得ない、その髪色は―――。
「私は、かつて、要らないと言われた存在でした」
そういってまぶたを上げたハルドの瞳は、左側だけ、魅惑的な青が霞むほどに見事な金色に染まっていた。




