1 祭り
唐突にネジを巻かれた子供のおもちゃのように突然目を覚ました少年、翔は普段、幾ら起こされようと「後五分」だと言って布団を今まで以上に強くくるまり、ミノムシのようになる困った子供だ。
何故普段なら、ミノムシになった布団のなかで二度寝を貪るような子供がこの日は二度寝すると言わずに起きたのか。
彼の惰眠を払拭したものとは窓越しから聞こえてくる祭り囃子の音だった。ドンドンとなる太鼓音とそれに被さる笛の音。その前をに獅子と振り手。
獅子は厚手の新緑色をしたカヤと呼ばれる大きな布に十数人の青年たちがなかに入って威勢よく声をあげている。
生活道路の幅いっぱいになった獅子の図体の先にはすべてを咬み千切るかのようなごつごつとした金の歯を持つ作り物の頭があった。獅子とはおぞましい姿持ち、世の中で最も凶暴で、強く残虐な生き物なのだ。
しかし、獅子は縁起の良いものとされている。
その理由は、獅子が強大な力を持つ事で他の低級の妖怪や悪魔の全てが、その土地から逃げていってしまう。という言い伝えがあるそうだ。つまり、獅子に有象無象の低級悪魔を追い払わせ、何とか獅子を手なずけるか退治をすれば手っ取り早く静謐な日常が長く訪れる。というものだ。
振り手の一人は獅子に牽制をするかのように太刀を振り、舞を披露している。獅子、振り手、楽器隊はこの小さな田野芳賀町を練り歩き、民家の一軒一軒を訪ね、そして魔除け払いをしているのだ。
彼らの帰る芳賀神社では、この週末に露店がなん店舗も立ち並び、よく賑わっている。
少年はこの日が大好きだった。普段は夜は出歩いてはダメだと母親に叱責を与えられるが、この日だけは夜まで外で過ごせたからだ。彼にとってはその一日はまるで魔法に掛かったかかのような気持ちになり、毎年この季節になるとワクワクしてたまらなったのだ。
近所大人たちも同様この日はめでたい日だということで集まり宴に明け暮れ、子供達の面倒だけを見てはいられない。という空気だったし、大人たちの大宴会は神社関係の地域会の枠をまたいで行われ、夜になると神社の周りにまで酒の匂いが漂っていた。
少年はその匂いが嫌いではなかった。普段は見る事の出来ない大人の世界を垣間見たつもりになっていたのだろう。
しかし、少年には、大人の世界とは何なのかはいまいち分り得なかった。
大人たちが子供は夜は早く寝なさい、といい父も母も翔が寝付くまで床に入る所を見た事が無かったし、翔は自分が寝てしまった後に、大人たちはどんな事をしてるのだろう。もしかしたら自分の知ってる世界とは全く違う世界に行き楽しんでいるのではないか。二人で自分だけを置いて街に出て楽しい思いをしているのか、と訝しんでいた。
少年ながらも、そんな事はあるわけない。と分別ぐらいはつくので両親に問いかけた事は無いのだが、時々思う。
もし、そんな世界があるならばどんな所に行ってるのだろう。そしてどんな事をしているのだろう。と想像するのだ。きっと、子供にはわからない艶かしい何か。なのだと。
この御祭りの少年のお話です。
***
翔はこの日を待っていた。いつもは厳しく目を見張らせる大人たちは、この日に限っては自分たちの扱いが甘くなるからだった。
早く大地と結を誘って、お祭りをやっている夜の神社に行く計画を立てたい。と高鳴る胸を押さえながら、団地四階に位置する自分の家の扉から勢いよく飛び出し、階段を駆け下りていく。それから階段下に止めてあった愛車のMTBに跨ると、少しだけ、じめっとした残暑の空気の中を翔は神社に向けて駆け抜けた。
普段、昼間は子供達の遊び場にもなっている境内では、翔も例外でなく仲のいい友達と一緒にかくれんぼや鬼ごっこ、だるまさんがころんだ、などをして遊んでいた。神主さんもとても良い人で神社の仕事に手が余ると、時々子供達にいろいろ遊びを教えてあげたり、悪い事をすると叱られ、でも大切な事を教えてくれたりしていたのだ。
慣れ親しんでいる遊び場だが夜になると、神社の敷地内は境内を除き、森に囲まれているため暗闇に包まれ、一歩間違えば別の恐ろしい世界に連れて行かれそうな雰囲気になり、小学生である翔は、正直一人では怖くて一人では入れない。
しかし、この日はいつもと違い、黄色電球光が露店の赤い暖簾を照らし、境内の内側の雰囲気を妖艶にしている。おみくじ、べっこう飴、射的、お好み焼きなどお祭りには欠かせないお店が立ち並ぶ。
小学生である翔にとって、それらはこの上ないご馳走だったし、景品の貰えるお店もに置いてある玩具も、普段買ってもらう物なんぞより、ずっとずっとキラキラと翔の目に映っていた。
***
「おーい、だいちー、いるかー?」
翔は神社に向かう道中にある大地の家に立ち寄り、ドアベルを鳴らした。
すると、家の奥から犬の鳴き声が聞こえてくる。大地が室内で飼っているラブラドールレトリバーだ。何度も大地の家には遊びに来た事があるので、いつも彼の家に来た時は一緒に遊んでいる。ドアベルを鳴らすとご主人様より先に反応するのもいつもの事である。
「よう、翔。今日はお祭りだったよな。こっちも今から翔を誘いに行こうかなと思っていた所だよ」
玄関の扉が開くとメガネを掛けている少年が出てきた。
彼の身長は翔より一回り大きく、体つきもいい。一緒に遊んでいると、時々弟の面倒を見ているお兄ちゃんに見られる事がある。
「なんたって一年に一回だけあるこの日だからな!早く準備しろよ、これからゆーちゃんの家も寄るつもりだからさ」
「わかったわかった、かあさんに伝えてくるよ」
大地が家の奥に入ろうとすると、そちらの方からラブラドールのクロが出てきた。大地が、ほら中に入れ。と言っても客人である翔に駆け寄ってじゃれている。
「まぁ、すぐに戻ってくるから、玄関で待ってて」
と一言大地は言うと母親に伝えに居間のほうに戻っていった。
***
早送りで支度をさせた大地を連れて、その後結とも合流して、いつもの神社に到着した。
「おつかれさま、翔」
労いの言葉を俺にかけたのは結だった。
薄く栗色がかった地毛は肩甲骨辺りでバッサリとカットされている。艶やかで思わず指を通してみたいと思えるのは、結の少し上品で育ちの良い立ち振る舞いもあるのだろう。風が吹くたびにふわりとシャンプーの良い香りがするのが翔は好きだった。
大地の家から自転車で結のうちに着いたのはよかったのだが、結は自転車を持っていない。というか乗れないのだ。
六年生になっても自転車に乗れないなんてカッコ悪い!と結自身でも思ってるらしく、翔と大地は何度か近くの河川敷で練習に付き合ったにもかかわらず一向に上達しなかった。
なので、この三人でどこかに遊びに出る時には、翔か大地の運転する自転車の後ろに乗せて行動を共にしていたのだ。
「約束どおり風船ジュース一本だからな!」
駐輪場に着くなり翔は人差し指一本を立て、後ろに腰を掛けている少女に向かって言った。
結は自転車の荷台から足を下ろして、膝丈まである白いワンピースの端を直して、いつものやさしい笑い方を口元に浮かべながら、わかってますよ。答えた。
風船ジュースとは神社の表に出ている屋台で売っているジュースだ。風船ジュースという名前の通りに風船状になった容器の中に甘い蜜が詰められていて、袋のはしっこに穴を開けて飲む。という駄菓子色の強い飲み物だ。
翔がこの露店が好きなのには他にも理由がある。一本購入する際にパチンコをする事が出来るのだ。
パチンコ台の底部にはオマケ二本、オマケ一本、ハズレ小サイズ。と書かれたポケットにビー玉を落として何処に入るか。というシンプルなものだ。
一本オマケは時々見るのだが、二本オマケは見た事が無い。
何か板に仕掛けがあってオマケ二本のポケットには入らないようになってるんじゃないかと怪しく思い、去年のこの祭りで一時間張った事もあるが、結局どうなっているのか小学生の翔にはわからなかった。
「でも、ルーレットであたりが出たらちゃんと私にも一本頂戴ね」
「まかせとけっ」
そう翔は言って神社の鳥居の反対側にあるバス停横に設置された自転車置き場に愛車を止めた。近所の子供達がこぞって来ているらしく、いつもはガラガラに近いこの自転車置き場に溢れんばかりの数の自転車が止まっていた。なんとか隙間をみつけ二台分、二人は駐輪してから道路の反対側に渡った。
「おっさん、風船ジュース、ワンチャレンジね」
おっさん、と言われて、むっとした面を一瞬見せる露店の店主だったが、所詮、餓鬼だと思ったのだろうか、すぐになんともないと言いたげな表情に戻り、無愛想気味にも翔にビー玉を一つ渡した。
喜々とした翔はビー玉をパチンコの発射台に設置し、今年こそは絶対に大当たりを引いてやる、と意気込みながら少し手のひらに汗を感じながらビー玉を発射台の溝に込め、レバーを引いた。後ろで翔のその動作を見守る大地と結は息を呑みながら見ている。
一年前に何度かチャレンジした時は惜しくも二本オマケのポケットには一歩及ばず、跳ね返ったビー玉は無残にも小サイズのハズレに入って肩を落とした記憶がある。
翔は心の中で、どの角度が真ん中に位置するポケットに入るんだ?その時に近い感覚を思い出せ。そしてあのギリギリポケット近くに刺さった釘より手前に落ちるように、少しでいい。ほんのコンマ数ミリだけ力をレバーを緩めて弾くんだ。と自分に言い聞かせ集中する。
とは言っても一年前のチャレンジの感覚はほとんど覚えておらず、ぶっちゃけた話し、ほとんど勘だった。どうせ二本オマケなんて当たらないのだから。と勢い半分でパシっとレバーを離す。
レバーはビンッとビー玉を弾き、ビー玉が釘に当たって小気味の良い音を立てながら落ちていく姿に、三人は目を放さずに見ていた。
弾くレバーが強すぎたせいか、一度は中央のポケットの反対側に飛んでしまい、翔はギョッとしたが、幸いポケットの越えたあたりに刺さっている釘にキレイに反発し二本オマケのポケットの方に戻って、またビー玉は小気味の良い音と一緒に落ち続けた。
時間にして、弾いてから十秒ほどで結果は出るのだが、この時はその十秒がとても長く感じた。息が止まったような感覚で翔は見ている。大地も結も同じだろう。
カツカツと上から下に向かって立てるビー玉は最初の釘以降も何度か三人を緊張させる動きを繰り返した。たった八十センチほどの長さしか無い板が、二倍か、それとも三倍かの長さに思えた。下に行くにつれてした中央に位置する二本オマケポケットから、少しずつ右にずれて行くビー玉に翔は、また今回も駄目だったか。と諦めかけた瞬間。
なんと、ビー玉は吸い込まれるように方向を変え、二本オマケのポケットに入ったのだった。
三人は一瞬止まり、お互いの目を見合わせた。そして、露店のおっさんに目を向けると「やられたなぁ」という顔をしながら、おめでとう、と言い。俺達三人は結が買った一本と二本オマケのボーナス合わせて三本を入手し、三人は乾杯をした。
結の家から二人分の体重の自転車を運転してきたのと、オマケパチンコの緊張があったためか翔の乾いた喉に風船に詰められた甘い蜜は一口喉を鳴らすたびにじわりと染みていった。
合成着色料の緑色の液体、その味は砂糖水、と言えば良いだろうか。ひどくシンプルで大した味ではない。だけども、あの小さな興奮で勝ち取った味はどんな100パーセントの果汁ジュースより美味だった。仲の良い連中と一緒にこの特別な味を分け合えるのは、なんて幸せなんだろうと。忘れたくない思い出の一つになるはずだ。
「まっさか、本当に一回でオマケ当てちゃうなんてね」
結が五分前の興奮を忘れられないらしく、少し興奮し、甘い蜜をちゅーちゅーと吸いながら言った。
「ほんとう、まさかだよ、俺は今日ついてるっ」
翔はガッツポーズを決めながら駆け足で二人の先を神社までの石段を登る。
「その運には感謝ですな、翔どのー」
結と並んで階段を登る大地が自衛隊のやる敬礼のマネをしながら言った。
「俺も勢い半分で引いたからまさか二本オマケに入るとは思わなかったけどな、しかし、諸君よ、君たち二人が手にしている風船ジュース二つは俺のテクニックと運によるものには他ならないのだ。もっと感謝してもよいぞ、うむ」
翔は後ろ向きに振り向き二人に向けて言った。さらに、髭の一本も生えては居ないのに、長い顎鬚に触れて伸ばすような仕草をした。
「お金を払ったのは私なんですからね!」
「ははは、それには感謝するよ、ゆーちゃん二等兵」
翔と大地が自衛隊ごっこを続けると、結は男の子って単純だなぁ、という顔をして風船ジュースをその小さな唇で咥えなおした。
石階段を上り、神社本殿の方を見ると今から御神輿が出るところなのだろう。褌を腰にガッチリと締めて、祭り、と大きく入った法被を着た大人たちが威勢良く声を高く上げている。
お祭りの役員か、子供達をここまで連れて来た親たちだろうか、御神輿が高々と持ち上げられる瞬間の写真を撮ろうと鳥居の少し内側に壁を作っているので、翔には直接御神輿衆の姿は見えなかった。
その御神輿衆の大きな声に少し驚いたのか、結が少し怯えたのか肩をすぼめる様に翔は見えた。
鳥居くぐり大人達の壁を潜り抜けると、そこにはいつもの遊び場がまるで別世界のように広がっていた。
露店が何店舗も立ち広がり迷路のようになっている。喧騒としているが、その活気のある空気がなんとも言えない妖艶な雰囲気を醸しだし、三人を虜にした。
「ほら、境内のお店、まわろうぜ」
翔はそう言い、二人を連れて境内の中に入っていった。