85 母 1(ミカ)
ミカ視点になります
金色のキラキラした糸みたいな――……あぁ、違う、あれはアランの髪だ――綺麗な。
綺麗な―――……
ふわりとした感覚が、突然魔法が切れたみたいにプツンと切れた。
とたんに、一気に痛烈な痛みが押し寄せた。
肩や腕がドクドクと強烈に熱くて――痛い。
痛い――……痛い、痛いよ……
痛すぎてどこも向けなくて。
自分がどこかに横たわっていて――なぜか土の匂い。
土!?
目を開けたら、青空と、白い壁の二階建ての家が見えた。
タイル状の外壁、光沢のある雨どい、ひさし、ガラス窓。
まるで、自分の家の庭に寝転んで空を見上げてるみたい――……
と思ったとたん、またさっきの強烈な痛みが戻って来た。
肩やお腹が痛い――痛みを通り越して、今度は、ガタガタと全身が震えてきた。
なに、これ……
歯がかちあわなくて、でも身体の震えがとまらなくて……
アラン――怖い、怖いよ……
痛くて怖くて目をまたぎゅぅと閉じた。奥歯がカチカチカチと打ち合う。ドクンドクンと身体全体が波打つようなのに、ガタガタガタと身体の中心部分から震えがくる―――――
「ア……ラ……」
そのときだった。
「美香! 美香! 美香! どうして、何が……その傷はっ……きゅ、救急車――っ」
叫び声が聞こえた。
この声……ど、うして……
思った瞬間、痛みが襲う。
「お、か……ぁ……さ……」
「美香―――っ!」
なぜか、ずっと会っていないはずの――母の声がした。
*****
断片的にだけ、記憶がある。
救急車に乗せられた気がする。サイレンの音がしたから。
母が私の手を握って、しきりに「美香!美香!」と呼んでいたように思う。
また記憶は途切れ――、次は病院。
マスク姿の白衣の人が数人、私をのぞき込んでいた。
でも、また途切れる。
次は何か質問され――でも痛みと苦しさでうまく応えられなくて――隣で母が泣きながら「今はまだ事情聴取なんて無理です!」と言って誰かを病室から追い出していた。
また記憶は途切れ、次に目覚めたときは、頬がかゆかった。
ずっと酸素マスクや点滴をつけていたらしい。
夢の中で痒くて、でもかけなくて。
目を開けたら、夢じゃなくて自分は病室らしきところにいた。カーテンでしきられている、管がついた点滴のパックとステンレスの棒が見えた。
頬がやっぱり痒い。
でもそこをかこうとしても手がうまく動かないことに気づいた。
そのときになってやって自分が酸素マスクをしていると気付いた。見えた点滴パックは、私自身の腕につながっていた。
ぼんやりとした目で回りを見ると、枕元に人影があって。その人は俯き加減で何か書類みたいなものを書いていた。
横顔……。
(……お、か……さ……)
口を動かしたいけどうまくいかない。
あ……そっか、酸素マスクつけてる――……。
ぼんやりした頭でそう思ったとき、不思議なことに、枕元の――お母さんが、ふいに横を向いた。
まるで心の中で呼んだ声が聞こえたみたいに、私の顔をのぞきこんだ。
「美香……」
目が合う。
お母さんの目が大きく見開いた。
「美香! あぁ、美香! 看護師さん――っ」
*****
意識が回復して、母が看護師さんを呼びに行き、そのあと数人の医師らしき人がかけつけ――……。
その後、数日はまだぼんやりしていた。
酸素マスクは外された。
しばらく寝たり目覚めたりの時間を繰り返すうち、だんだんと思考がまわるようになってきた。
食事にスープが少量ずつ出されるようになった。痛みはある。薬をのむとラクになる。眠る、目覚める、ぼんやりする、また眠る。痛む、薬をのむの繰り返し。
閉められていたカーテンも、看護師さんが朝夕開け閉めしてくれる。
窓から入る日差しに、その明るさに胸がざわついた。
置かれている状況がじょじょに見えてくる。
お母さんがいる。医師がいて、高度な医療技術があって、私は病院に入院しているらしい。
怪我の説明は、少しだけ聞いた。左腕、左肩の打撲や傷、頭部の外傷、身体のいくつもの小さな傷。出血量も問題だったらしいけれど、峠をこえ、いま私の身体は回復にむかっているらしい。
――それを施してもらえる、高度な医療技術。
つまり、ここは日本で――……私は戻ってきてしまったのだ。
それだけははっきりした。
他は、たしかめるのが怖かった。
母は、意識がはっきりしてきた私に枕元で聞いた。
「美香……美香、私のことわかる?」
「……うん。ここは日本で……お母さんは、お母さん」
答えると、母は涙ぐんだ。
「そうよ、そう! 何にちも眠っていて、起きてもまたすぐ眠って……心配で、心配で……」
何日も眠っていた――そう聞いたとき、疑問が湧いた。
「あの、お母さん……。今日は、何日だっけ……」
「あぁ、ずっと眠っていたものね。今日は――……」
日付を聞いて、まさかと思う。
私は思わず尋ねた。
「お母さん、いま、何年?」
母は不思議そうにしながらも、答えてくれた。
―――あぁぁ、やっぱり。
厚いカーテンを開けてくれたとき、窓からの日差し、窓から少しだけ見える木々の青葉色が……夏に感じたから。
「美香……本当に心配したのよ。いなくなって3日間、外泊なんて勝手にしたことがないあなたが……まさか庭で倒れて……」
母は見つけたときのことを思い出したのか、言葉を詰まらせた。
いなくなって三日。
たったの三日。
「警察に相談して……事件に巻き込まれたのか家出なのか……行方不明者届を出すかださないかを決めてくださいって言われて……手続きに必要なものもあって……。取りに帰ったときに、あなたを見つけたの」
母の話では、大学に行ったはずの私が帰ってこなくて、友人たちに聞いてまわって、見つからなくて警察に相談。でも年齢や状況的に事件に巻き込まれた可能性と自発的な家出の可能性どちらも捨てきれないとして、届出をだしても捜索にすぐに入ってくれるどうかはわからない。じゃあ、別の捜索してくれる団体か何かをさがすのか、それとも私が本当は家を出たくなるほどの何かがあって、家を出たのか……母が悩んでいるとき、私は庭に現れた――。
いなくなって、たった三日。
私がフレアで過ごしたと思っている一年半が、日本では……たった数日経過しただけだったのだ。
一年半が三日になっているのは、帰還するときに時間が歪められて戻ってきたということ?
それともこの世界とフレアの世界では時間の経ち方が違うの?
それとも……私は本当に……フレア国に落ちたのだろうか。
――ほんとに、アランと出会ったのだろうか。
もし、壮大な夢だったら――?
私はただフレアでの夢を見ただけで。
三日前の私が、例えば何か事故にあって頭を打ってフラフラしたまま帰ってきて、二階のベランダから落ちたとしたら。
記憶を失って、夢の中でみたものを、今現実だと思っているんだとしたら――……?
フレアでアランと過ごしたこと、本当のはず、本当のはず、だよね?
この傷は、宝物庫でバレシュ伯の魔力の塊が爆発したときにできたもので――
アランはあのとき光に包まれて――……
「美香、美香どうしたの……」
母が私の手をぎゅっと握った。
――フレアでのことが夢じゃなければ――アランはあの光の中で死んでるのかもしれない。
――フレアでのことが夢であれば、私は……アランと出会っていない?
心配そうな瞳に、泣き出した私が映っている。
「……いいの、いいのよ、美香。辛いのね、思い出したくないのね。いいのよ。とにかくあなたが生きていてくれたなら……お母さん嬉しいの」
母が私の手を握り締めて、祈るみたいに額に当てた。
その後、母は詮索してこなかった。数日私がいなくなったこと、そして突然怪我をして庭に現れたこと。きっと不審なことはたくさんあったはずだけど、触れてこなかった。
もちろん医師や警察は事件性がないかといろいろと母にも尋ねようすだった。でも、一貫してわからないと伝えつづけたようだった。そして、私の身体と心が安定するまで事情聴取を待ってくれとかけあってくれているらしいことが周囲の雰囲気でなんとなくわかった。
さすがに起き上がり、少量ながらも食事ができるようになってくると、すべてを後回しにすることはできなくなった。当然のことだと思う。誘拐事件や暴力事件が隠されているのではないかと疑われる怪我や発見状況だったのだから。
回復が進むにつれて、なぜこんな怪我をしたのかなどを医者や警察かと思われる人から、直接私は尋ねられることになった。
でも何も答えられない私がいた。
――なぜ、庭で倒れていたのか、なぜ数日いなくなっていたのか、どこに行っていたのか……。
私の中には記憶はある。
だけど、話せるわけがなかった。
信じてもらえるわけがない。
突然、大学の帰りに図書館に寄ろうとしたら、吸いこまれるように異世界のフレア王国にいってしまって、私はそこで暮らして、アラン・ソーネットという人と婚約して……魔術師の力によって破壊された瓦礫に当たって意識を失いました――だなんて。
しかもこちらの時間でたった三日のあいだに、私は一年半を過ごしたと話すのだ。
正気の沙汰とは思えないだろう。
信じてもらえないだろう。
そもそも私自身が、夢なのかどうか――決めるのが怖くなっていた。
追い詰められたみたいな気持ちになった私は、二階のベランダから落ちたと主張しつづけた。
信用されていないとも感じたけれど、とにかく、「ベランダから足をすべらせてしまったのかもしれない」「何も覚えていない――……」と言い続けた。結果的に、私は頭も怪我していたから、頭部を打って記憶を失っているのだろうということで、事故扱いでまとまった。
最初に発見した母にもいろいろと疑いもかかり質問もされたようだけれど、母もまた何もわからないらしく、最後まで「見つけたときはすでに怪我をしていました」と言い続けた。心配をかけるばかりでなく、周囲から疑惑や不審の目を向けられる母にとにかく申し訳ない思いがした。
******
入院して一か月をすぎて、梅雨入りの毎日雨予報が続くころ、私はいったん退院となった。
まだ通院は続くけれど、家で過ごせることになったのだ。
「一か月以上ぶりだから、懐かしいでしょう」
病院で退院手続きを済ませ、母が呼んでくれたタクシーで家の前についた。
梅雨のあいまの晴れの日で、街路樹の緑が鮮やかだ。
湿気のある暑さが、妙に懐かしく感じる。
左手がまだ傷が痛むわたしをかばい、母は私の荷物をもち、そのまま鍵を開けて、玄関のドアをひらいた。
ふっと足を踏み入れたとき、病院では気付かなかったけれど、すべてがコンパクトに感じる自分がいた。天井の高さ、廊下の幅、扉の大きさ――……
日本での一般サイズの家の内装なのに、ギュっとこじんまりと感じる。その全身の感覚にドキッとする。
「どうしたの? 美香?」
玄関で立ち尽くす私を母が不思議そうにたずねる。
私は「ううん」と言って中に入った。
すると、母が言った。
「――お帰り」
一緒に帰ってきたのに、お帰りと言われて――。
でもその懐かしい響きにドキッとした。
何気ないことだけど、母は私にお帰りといってくれたものだ。そして私も、仕事から疲れてかえる母にお帰りというのが何か大切な役目だと感じていた頃を思い出した。
それは――……こちらの日付なら一か月前までのことのはずなのに、ずいぶん前の役割のように感じた。
「お母さん……」
「ん?」
優しく見返してくれる母。
「お母さん、ただいま……」
母は微笑み、そのままそっと私の怪我をしていない右肩だけに手をおいた。
「うん……うん……生きてて……よかった」
母がそのまま声を震わせて俯いた。私もまたさまざまなことが頭をよぎって、母と同じように俯いた。
そのとき、うつむく母の毛の生え際にきづいた。接客業だからと毛染めをこまめに行っていた母の髪の根本が少し白くなっている。
胸がキュっとした。
少なくとも一か月、母は緊張の中で入院する私の元に通ってくれた――きっと多大な心配をさせた。医療費もかけた。
それでも、いなくなった三日間について、怪我の原因について、深く詮索してこなかった母。
いなくなった三日――それは母にとっても重かったのかもしれない。
わたしにとって異世界にいって一年半と感じている時間がここで「三日」なのは、すごく短く感じる。たった三日に思う。
だけど、母にとって私が突然いなくなった「三日」はとてもとても長かったんだ――……。
――アラン、どうして私は日本にいるの? リードは私に帰還の術をかけたの?
――それともすべて、夢だったの?
たくさんの思いがよぎる。
でも、なにひとつ確かなものはなくて――……、
だけど、帰って来た、という事実はある。
「……帰って来たよ……お母さんのところに」
言葉にしたら、母の私の右肩に置く手が震えた。
――……母に会えたよ。生きて、会えたよ。
胸の中に浮かぶ青碧の瞳にも、そう伝えたかった。




