09 触れても、なお遠く。(アラン)
アラン視点です。
いくら厚い壁と扉があったとしても、人の気配というものは伝わるものだ。
私は、騎士団の中でそれなりに察知力も気配を読む術も鍛えてきたのだから、なおさらだ。
いくら本人が密やかにしようとしていても、若い娘の足音くらい聞き分けられる。
まして、想いを懸けている者の気配だ。
わからないはずが……ない。
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ミカが夜にときどき出歩いているのは知っていた。
その行き先が、夜のテラスだったり使用人の集まる居間であることは、使用人の言葉から情報はあがってきていたし、そもそもミカには王の直属の監視員が密かについているので、そこからも情報がはいっていた。
王からの監視員……使用人の中にも実はいるし、存在をあきらかにしない影の者としても潜むものがいる。
異世界から来たという娘をなんの監視もなしに野放しにするほど、この国の王は楽天家でも愚かでもない。
暗殺者の可能性も捨てきれない。突然異世界からこちらに来ることになるという不遇に王に謀反を企てる可能性がないとはいえない。そんな風に、ありとあらゆる疑いの目がミカにかけられているのだ。
それは表向きはミカが不審人物ではないと判定された今も引き続きかけられている「疑いのまなざし」だ。国家の政権の者たちからすれば、ミカは謎と問題を運んできた未知なる娘でしかないからだ。
それは、どんなに彼女が純粋で、少々幼くて、一途で真面目という好ましい個性をみせたとして、覆されることはないだろう国家の掟、国家の問題だった。
私としては、ミカの心とその暮らしを誰かの前に暴かせるのは正直辛いことだ。だがミカがこの国で生きながらえるためには、王の監視下に入らざるを得ない……仕方のないことだともいえた。
だから、できるだけ……自由にと思っていた。
夜に出歩くのは、婦女子としてははしたないし、危険なことだろう。
しかし、この館内に限るならば……と目をつむっていた。
使用人との交流、会話の練習は、苦情とともに私や執事グールドのもとに最初は連絡がきていたが、だんだん苦情はなくなり、使用人と仲がよくなっているとのことで、やはり何も指摘しなかった。
……一般用語の練習なら、私でもいいだろう?
と、内心いくら思っていたとしてもだ。それは明るみにしなかった。
ときどき、夜に走り抜ける軽やかなかすかな足音と、階段脇の扉の開閉する音を、自室で黙って聞いていた。いつも、戻ってくる足音を確認するまで眠れなかった。
けれど、それも婚約、そして結婚すれば消えてなくなること――そう思ってきた。
だが、今回は……。
あのミカの気配が廊下を抜けていくのを感じた時……。
もう、自分を抑えきれなかった。
さすがに、彼女のいるであろう使用人の居間にまで私が押し掛けてしまえば、使用人たちが恐縮してしまうし、人間関係にゆがみがでるだろうと、必死に心を押さえ、彼女が帰ってくるのをミカの自室の前で待つことにした。
暗闇の中でたちすくんでいたとき、ランプを持ってきていないと気付いても、取りに戻るあいだに彼女が帰ってきてしまえばすれ違う……と考え、私は、暗闇で立っていた。
この私が、警護でもなく、一人暗闇で廊下で立っていたのだ。
滑稽だろう。愚かだろう。
19歳の娘に……。
フレア王国近衛騎士団の騎士団長の私が、いったい何故、焦れた表情を抑えきれず、荒ぶる気持ちを抑えきれず、娘の部屋のまえで立ちすくんでいるのだろう。
しかも、ランプすら忘れ、暗闇の中で。
いい笑いものだと自嘲する。
けれども、止められない。
もう、婚約したのだ。
今日、五日後の外出を告げた時……彼女を守ると……誓ったのだ。
あの華奢な指先に口づけたのだ。
彼女は受け入れたのではなかった?
嫌ではないと、私が守ることを受け入れていたではないか?
それなのに……なぜ?
なぜ、ミカは行ってしまうのだろう?
軽やかに、ひそやかに……知らぬ壁の向こうへ……。
******
戻ってきた彼女の姿を見たとき、私は心の糸が焼き切れたように思った。
なぜ、夜着なのだ?
しかも、夜着の中でも夜にくつろぐ衣服ではなく、本当に寝所にはいるときのみに着用する「寝間着」だ。ケープをはおっているにしても、その柔らかく薄い生地はミカの身体にそって、女性のラインを表している、そんなあられもない姿だ。
今まで使用人からのミカの行動報告書では、ミカの夜の出歩きで「夜着」だった報告は一度もない。
いつも使用人見習いのスカートやブラウス、エプロン姿との報告だったはず。
なぜ……よりにもよってこんな姿なのだ、夜に?
どこかで着かえた? それとも今夜は特別で、行き先が違ったとでもいうのか?
寝間着なんかで女が行く先は……。
そこまで考えて、もうたまらなくなった。
ありえないとわかっていながら、心を平静に保つ糸は切れてしまっていた。
「あ、あの」
こちらの顔色を見ながらおずおずと口を開こうとするミカ。
その可愛らしい仕草に、いつもならからかってみたい気持ちが起こるのだが…いまはそんな甘い気持ちではなかった。
もっと黒くて濁った感情が這いあがってきた。
なぜ? どうして? と問いかける前に、体の方が先に動いていた。
そこから先は……。
もう、責めるように落とし込むように近づいて。
ランプを落とした隙をねらって……口づけた。
何の訓練も受けていない娘を腕に抱きこんで、抵抗できないようにからめとる。
劣情と嫉妬に焼き焦げる表情を見られたくなくて、ランプの明かりはすでに消している。
……震える唇は柔らかくて。
口づけに慣れていないのか、息苦しそうに喘ぐミカに、心の暗い部分が反応する。
唇を触れるだけではもの足りなくなり、その先を急ぐように責め立てる。
息のあいまに開いた隙をついて、舌をねじ込んだ。
……大切にしたかったのに。
心が泣く。
壊れてゆく。
ミカが、慣れない行為と息苦しさでか、私の腕や背中をたたく。
もがくように、逃げるように叩き、身体をよじる。
その恋人同士のような甘い反応ではないミカの動きに、自分のしでかしたことの罪を知る。
そして、その力の弱さ……儚さ。
彼女が私を押しのけようともがいても、叩いても、私には痛みとすら感じられない……そのか弱さ。非力さ。
そんな守るべき弱き存在に、隙をついて一方的に奪うようなやり方を強いた。
……私は、何が欲しかったのだろう?
震えるミカの小さな肩に。
哀れで守りたいという気持ちを持つのに。
同時に、そこをもっと暴きたい、肌を見たい、触れたい、泣かせたい衝動がくすぶる。
それでも、ミカが、
「こわい」
と呟いたとき。
私は、騎士団で養った精神力すべてをもって、彼女と距離をもった。
接していたぬくもりが離れ、ひんやりした空気を感じ、自分がいつのまにか極度の緊張で汗ばんでいたことを知る。
『こわい』
先ほどの彼女の言葉が胸を貫いてくる。
ミカを彼女の自室へうながす。
ミカが私に恐れしか感じなかったこと……。
謝罪したくとも、うまく伝えられない。
暗闇で顔が見えないのは好都合なのだろうか。
謝らなければ……。
でも、いったい何をどのように?
迷っているうちに、私の口は勝手に動く。
「もし、ミカが許してくれるならば……五日後の外出、楽しみにしています」
暴挙をあやまるよりも、彼女の未来を抑え込もうとする自分自身。
どこまで……。
どこまで、ミカをからめとろうとするのだ、私は。
守ると誓った相手の自由を奪うような真似をしておいても、まだ欲しいのか。
これが、近衛騎士団を統べる団長の……当代一の剣技と謳われている男の姿、か。
もう、自嘲しかなかった。
こうまでして。
……ここまでしても、私は、ミカを手放したくない。離れたくないのと思っているのだから。