63 捕らわれた者 8 (ミカ)
前話に引き続き、キースの語りで始まります。
――――バレシュ伯の忍耐と優しさは、俺を支えてくれた。
元いた暮らしに戻れないことに絶望し、錯乱していた俺だったが、ただただ受け入れてくれようとするバレシュ伯の元で、少しずつ落ち着いていったんだ。
老いた人間を振り回し続けるほど、落ちぶれた男になりたくないという、意地もあった。
世話をしてくれる人たちがいるというのに、ただ喚いて嘆いて毎日を過ごす男なんて、俺をそだててくれた両親にも、俺を慕ってくれていた妹にも恥じる行為だ。故郷の村の奴らにも、顔向けできない……そう心を奮い立たせた。
俺は納得はできなくとも、この場所この国で生きていかざるをえないことを、受け入れることにした
んだ。
そして、フレアに来て半年以上経ったある日、俺は、バレシュ伯の息子「ミシェル」の身代わりとして暮らすことを決心した。
ミシェルと呼ばれれば返事し、自分のことを「ミシェル」と名乗ることにした。
まぁ身代わりといっても、実際のところ、バレシュ伯だけが俺をミシェルだと思いこんでいるだけだった。
館の誰一人、髪の色も目の色も違う「俺」がその息子だとおもっていなかった。だが、老いて、なかば夢と幻の中を行き来するバレシュ伯をいさめる使用人などいなかった。
バレシュ伯は、貴族でありながら希有な魔力を持つ、一級魔術師。
皆が尊敬と恐れを抱いているようだった。おそらく、幻と現実を行き来して、癇癪を爆発させることもあったからだろう。
だが、俺が来てからは、バレシュ伯の使用人をてこずらせた症状もずいぶんとおさまったらしい。
使用人達は最初は俺を訝し気に見ていたが、だんだんと歓迎してくれるようになった。
辺境の地での暮らしは、森が広がる中で、来客もなく静かでひっそりとした規則正しい生活だった。
鳥の囀りに、流れる小川。
限られた使用人しかいない館だったから、あまり手入れされていないが庭もあって、少し離れたところには使用人たちが館のための野菜を育てる畑もあったよ。
朝や夕方、よくバレシュ伯と森の小道を散歩した。
それから、ときどき、あの方の得意だったという楽器も聴かせてもらった。
博識なバレシュ伯はさまざまなことを教えてくれる先生にもなってくれた。
このフレアという国の歴史に地理。この国での基本的な生活の作法も、彼の身体の調子が良いときは丁寧に教えてくれたんだ。
他にも、たくさん世話になった。
彼自身は一般共用語をほとんど使わなかったが、”ミシェル”が世の中で苦労するだろうから、と、一般共用語を教えてくれる家庭教師までつけてくれた。
俺はあまりもともと自分から話しかける性質ではないせいか、上達が遅くてバレシュ伯や家庭教師を困らせてしまってばかりだったな。今でも、一般共用語の発音は不安で、あまり使う気にはなれないほどだ。
だが、ひとまずは古語を使わなくても生活できる程度には家庭教師が仕込んでくれたんだ。
その内、こんな風にいろんなことをしてくれるバレシュ伯に、なにか礼がしたいと思いはじめた。
偽りの「息子」であることが申し訳なくなってきて、あの方の役に立ちたいと思った。
それで、俺は、バレシュ伯の庭の手入れを始めたんだ。
昔から土いじりはやってきたことだったし、野菜や花を育てるのは好きだったから。
バレシュ伯の庭は貴族の庭らしく、優美な花がたくさん植えられていた。庭師に教えてもらいながら、一緒に世話をさせてもらった。
庭園の花々は、俺の故郷ではみたことがないような、花びらが大きく香りも強い、観賞用のものばかり、珍しさと興味とで俺は故郷への恋しさをまぎらわせることができた。
そうしてだんだんと花に関わっていくうち、日差しが強くなってくる頃、懐かしい香りをまとう花に出会った。
故郷で、よくかいだ香りだったんだ。
だが、香りが同じなのに花の形があまりに違う。それがとても不思議だった。
俺は、ある初夏の夕食の時、バレシュ伯にそのことを話した。
「昔いたところと同じ香りをまとう花があった。でも、形が違うんだ」と。
いつもなら、過去と今と幻の中を行き来しているバレシュ伯は、「ミシェルは花が好きだね」とか「良い庭師をお前の家庭教師にしてあげよう」と返事するくらいだったことだろう。
でもその夜は違った。
バレシュ伯は、まるで、老いていた表情が、はらりと仮面が剥がれ落ちたみたいにガラリと変わった。なにか覚醒したかのように、目に光が入り、いつもの柔和さが消え、鋭く深いまなざしで俺を見返した。
「花。おまえの昔見た花とは、どの花を言ってるのだ?」
問われて、俺は庭に出てそれを摘んで差し出した。
差し出したのは――……咲き誇る、バラの花。
*****
キースの語りに聞き入っていた私は、思わぬ花の名前に息をのんだ。
思わず、聞き返す。
「バラ?」
口を挟んだ私に苛立つ風でもなく、キースはゆっくりと頷いた。
「そう、アラン様の館でもソーネットの屋敷でも咲き誇っているバラの花です」
「つまり、フレアに来る前の故郷にもあったの?」
「形は違うが、バラの香りの花は村に咲いていました。よく覚えている。妹が花びらをあつめて乾かして匂い袋をつくっていましたから」
そこまで言って、キースはほんの少し口角をあげて言った。
「花びらを煮詰めて、砂糖を入れて薄く赤く色づくバラのジャムも作ってくれたこともありました」
予想していなかった言葉に思わず息をのむ。
――……バラジャム!
途端に、アランのお母様の「奥方の部屋」をお借りして作ったジャムの、甘くて華やかな香りがよみがえった。
アランにプレゼントした、あの夜。
他の瓶詰めは使用人の人たちにも食べてもらった赤いジャムは、キースの口にも入ったことだろう。
「まさか、もう一度、この地で口にすることができるとは思いませんでした。母は、ジャム作りは女の秘密だとかいって妹にしか教えなかったから、俺はどうすればあの鮮やかな色が残るのか知らなかったから」
「……キースが……花びらを食べてみたいと言ってたって、アランの館の人たちが言ってた……。それは……想い出の味だったからなんだね」
「妹は、花の時期がくるといつも嬉しそうに作ってくれました。……『今はお父さんと兄さんに一番に食べてもらうけれど、いつか大きくなったら、最初の一口は恋人に食べ貰うんだから』とはにかむように笑いながら」
懐かしげにどこか遠くを見るような目で話しながら、キースは息をついた。
「ですが、妹が作ってくれたジャムに使うバラの花びらは、ミカ様がつかったような、何重にも大きな花びらがある花からとったものではないんです。もっと小ぶりで、花びらもすくなくて。もちろん茎には棘があった。妹は、何度も手を傷つけながら、花びらだけは破らないようにと一枚一枚集めてつくってくれた」
キースが私にわたしてくれた、アランの庭のバラ。それは、いつも、とても丁寧に棘が抜かれていたことを思い出した。
妹さんのことを思い出して、丁寧に棘を抜いてくれていたのかもしれないと思うと、胸がつまったみたいに痛くなった。
何も言えず黙っているとキースの方が口を開いた。
「本題からずれましたね……。ともかく、俺はバレシュ伯に故郷で同じ香りの花があったことを告げた。すると、あの方は、突然、俺を書庫に連れ出したんです」
「書庫?」
「えぇ。バレシュ伯の叡智が詰まった書庫――……その中に招き入れると、彼は、いくつもの大きな書棚を渡りあるくようにして吟味しながら、いくつかの本を取り出していきました――……そして、彼は戸惑う俺に話してくれたのです――……フレアという国の闇を」




