62 捕らわれた者 7 (ミカ)
――……違う世界から。……私と、同じ?
「……キースは、落ちて来たの?」
いつのまにか私はキースににじりよって、彼の上着をぎゅうっと掴んでいた。
うまく言葉になったかわからない。唇が震えて、上着をつかむ手もぶるぶる揺れている。
キースが異世界からここに来た人かもしれないということは、ディールも言っていたことだし、予想していたことだったはずなのに、いざ、キース本人の口から、”落ちて来た”と言われると、一気に現実として押し寄せてきたみたいだった。
キースの黒い瞳と見つめあう。
その向こうに、私の故郷がないかと、探してしまう。
「……キース、日本……日本って知ってる?」
いつのまにか、私は問いかけていた。
なつかしい、なつかしい、封じ込めていたような「日本」という言葉を口にした途端、涙がにじんできた。
このキースが落ちて来たなら……キースの世界が、もし地球のどこかなら――……。
でも、キースは、私の心を見透かすようにして、首を横に振った。その一瞬で強張った私の手、彼の上着をつかむ私の両手をゆっくりとつかんで上着からはずす。
「知らない」
「キース……」
「――……ミカ様は、ミカ様の故郷とのつながりを私に期待しているかもしれませんが、それは、無理な話だ」
「……無理?」
「時代が違うのか、国が違うのか、それとも世界が違うのか……無学な俺には詳しい説明はできない。俺は『日本』というところも知らない。ただ、俺は、”ここ”に来るまで、家族で羊を飼い、畑を守る暮らしだった」
「じゃ、じゃあ、『地球』とか、星とか……」
私の言葉にキースは首をもういちど横にふった。そして、まるで小さい子どもに言い聞かせるみたいにゆっくりと言った。
「俺は、本当にわからないんです。……なんの傷も手荒れもない、柔らかそうなミカ様の手は、身近になかったもので、それは、俺にとって到底理解できないことだ」
言われて、自分の手先をとっさに見る。今もアランに守られて、マーリ達にお世話してもらって、水仕事も針仕事もしていない自分の手指がそこにある。
「……俺の妹はとてもかわいい娘だったが、手指は若くとも働き者のしっかりした手だった。何かと水仕事をしていた手は、寒い日が続くと赤くなりささくれだった。母が香草と油を混ぜたものを暖炉の前で妹の小さな手に塗り込んであげていた。その母の手もまた、太く、手のひらが厚かった。畑を耕し、日々、糸をつむいだ手でした」
キースがつかんだままの私の手の先を見ながら言った。
「こんな淡い花の色の、小さく薄い爪など、ここに来るまで俺は見たことが無かった。確かに、村を出て遠い街にいけば、綺麗な手をした女性も存在したのかもしれない。だが、俺は行ったこともないし、見たこともない。そもそも、もしいたとしても、それは、このフレアでいう『金持ち』や『お貴族様』だけだ。でも、ミカ様はドーラ達によく言っていたでしょう、自分は、もともとは庶民の暮らしだったって」
「え? 庶民……」
「そう、ミカ様は、自分は庶民の育ちなんだって、繰り返しおっしゃっていたでしょう。お貴族様でもお金持ちの家で育ったわけでもないって。上流の生活などしらない、だから、アラン様と婚約することになっても、全部、一から作法を教えてもらわないと何もわからないんだって」
確かめるようにキースにそう言われ、頷いた。
たしかに、自分がこのフレアに落ちて来たとき、ドレス姿の暮らしや使用人を「つかう立場」であることに慣れなくて、反発したり悩んだりもしたのだから。キースのいるバラの庭に遊びに行っていたのも、仕えてもらう生活に息がつまったからだ。
肯定した私を見て、キースが小さく息をついた。
「庶民、普通の民が、こんなに贅沢な手をしているなんて、俺の元いた世界ではありえないんです。すくなくとも俺の知っているところではない。それだけじゃない。ミカ様が空から降ってきたときも、俺の見たことがない服を着ていた。形は奇妙だったが、しっかりと仕立てられた、まったく古びていない布だった。――……だから、俺は、ミカ様の故郷は、俺の元いた世界とは違うと思っています。もしくは……」
「もしくは?」
「時代が違うのだろうと」
「時代?」
思わず聞きかえすと、キースがすこし労わるように私を見た。それは、アランの館でバラを手入れしていたときの、優しく物静かな姿だった。
そのまま、彼は穏やかに口を開く。
「バレシュ伯がよくいっていました。異なる世界からの到来者は、元の世界の時間がバラバラなのかもしれない……と。こちらと向こう側の結びつきは、時計の針のように一定方向じゃないのかもしれない、と」
「ちょっと待って! 元の世界とこちらの時間がバラバラって。一定方向じゃないって、バレシュ伯が言ってたの?……そこまで、そのバレシュ伯という方は、異なる世界のことを知っている人だったの!?」
思わず叫ぶように問うと、キースは少し目を伏せ、つかんでいた私の手を放した。
それから、私の隣にいるリードにまなざしを送る。
「聖殿の魔術師リード」
「なんです」
「……アラン様の弟という立場を用い、こうしてミカ様を使って私の心をくすぐるより、無理やりにでも俺の記憶を開示した方が、確実に”知りたいこと”を暴けるんじゃないのか」
「ミカはミカの好きなように話しているだけのこと。今は、あなたも話したいことを話せばいい――……後々どうなるかはわかりませんが」
リードが淡々とそう答えると、キースはだまりこんでしまった。私は耐え切れなくなって、もういちどキースにすがるように言った。
「確かに私はディールにキースが何者なのかを探るように言われた。でも、私が今こうして話してるのはね、ディールやリードにおどされてるとかそういうのじゃなくて、私が……わたしが知りたいの。どういうことなのか、どうして、ここに来たのか……だって、他にもここに来た人がいるなんて、知らなかった! なにか、なにか知っているなら教えてほしい」
私がすがるようにそう言ったとき、キースはおもむろに床にどかっと足をくずすように座った。
「キース?」
「……話は長くなる」
「話してくれるの?」
「――……足は崩させてもらう」
リードが了解を示すかのように、無言のまま自分も床に腰をおろした。私も慌ててスカートのすそを広げて座りなおす。
黒い瞳が私をみていた。
「バレシュ伯のことを話すためには、まず俺とバレシュ伯との出会いから話さねばなるまい」
私がうなづくと、キースはゆっくりと話し始めたのだった。
****
――……バレシュ伯は、ミカ様もすでに知っているようだが、領地に落ちてきた俺を拾ってくれた方だ。
十年前、あの方は、もう年老いて現実と過去と幻とが混ざってしまっていた。
だが、魔力だけは衰えていなかった。魔力で俺という異物が自分の領地の森深くに落ちてきたことを知り、下男とともに森の木にひっかかっていた俺を助けてくれた。
そして、彼は……過去と幻とが混ざった意識の彼は……俺を「息子」だと勘違いしたんだ。
その息子は、ミシェルというらしい。もう小さな頃に命を亡くし、バレシュ伯にとってはかれこれ50年ほど前に失った息子だ。だが、バレシュ伯の中で、森の中で俺を見つけたことから、『息子は死んでおらず、大きくなって自分に会いに来てくれた』と思いこんだんだ。
俺は、俺で、突然見知らぬところにいる自分が信じられなかった。
ついさっきまで、妹と畑仕事をしていたはずだったんだ。
それが、一瞬のあいだに何かに引きずり込まれるような感じがしたかと思ったら、すべて周囲が真っ暗になった。
気づけば、俺はまったく知らぬ森の中だった。
どこかから落ちたらしいというのはわかった。木に引っかかっていたから。
全身の痛みと、葉や枝による傷を負って、意識は戻ったものの俺は木から降りるだけの力はなかった。
今だからわかるが、たぶん、森の上の空に現れ、まぁ、落ちたってことなんだろう。
とにかく、その時の俺には、なにがなにだかまったくわからなかった。
そこに、バレシュ伯と下男が現れた。木から降ろし、助けてくれたんだ。安心して、俺はまた気をうしなった。
次に目覚めたときは、バレシュ伯の館のベッドに寝かされていた。身体に包帯がまかれ、薬草の匂いがした。
だが、最初は、助けてくれた者たち……つまりバレシュ伯やその使用人達が繰り返しはなしかけてくれても、何を言っているのか少しもわからなかったんだ。
聞き慣れない言葉に、妙に綺麗な服や家具。
出される食べ物も、俺がそれまで食べていたものとはまったく違う豪華な食事。
困惑した俺が最初に考えたのは、遠い街の金持ちにさらわれたのか、ということだ。
俺は村から出たことはないが、時々村に来る行商人が、街の話をしてくれたから。
行商人は言ってた。村から見える山々を越えると、豪勢なたべものに、着飾った人々が集う”街”があるのだと。病気でもないのに、土いじりも、水くみもしたことがない人びとが住むところがあると。
そう聞いていたから、バレシュ伯の家で傷の手当をされながら、俺は何かの手違いで、人攫いにでもさらわれてここに放り込まれたのかと考えたんだ。
だが、もう十八にもなる男をさらうなどと聞いたことはないし、ことばが通じないにしても、傷の手当をなぜここまで丁寧にしてくれるのがわからない。
だから、次の考えたのは、あまりこころよい話ではないが、生活の金に困った両親が、下男として俺をここに売ったのかもしれないということだ。俺はなぜか気をうしなって怪我をして、助けられているが、これは俺の傷が治らないと下男としても役に立たないから、はやく回復するように手厚く手当してくれているのかもしれないと思ったんだ。主人が優しい屋敷は、使用人も大切にすると聞いたことがあったから。
言葉も通じないような遠い街に売られたのは寂しいが、考えようによっては、俺が売られたんであればあきらめがつくと思った。
まだ若い花のつぼみのような妹を何処かにさしだして金を得るよりかは、俺の方がまだいい、と。それなら、仕方ないとそう思いこもうとしてたんだ。
だが、ちがった。そんなのは、言葉がわからなかったから広げていた空想に過ぎなかった。
バレシュ伯が、ことばのつうじない俺に、魔力を注いでくれた。
高等な術式を丁寧に丁寧に組み込んで、俺の血の中に言葉がわかる魔力を分けてくれたんだ。
言葉が伝えあえるというのは、とても便利だ。だが、難点としては、バレシュ伯が『品のない言葉』として考えている『一般共用語』はお気に召さなかったからか、通じる言葉は「古語」のみ、だったということだ。
いや、違うな……バレシュ伯は、この俺に流した魔力は『一般共用語』は通訳しないよう『はじく』魔力なんだ、と説明していた。だから古語だけが、伝わりあえるのだ、と。
まぁ、とにかく、バレシュ伯の魔力のおかげで、俺の話すことばは古語に変換され、バレシュ伯の話す古語も俺はわかるようになったんだ。
そして、言葉がわかるようになり、自分が、どうやらさらわれたわけでも売られたわけでもないということもわかった。
この世界に、ひきずり込まれただけなんだ、と。
人間が俺を求めて引きずり込んだわけでも、買ったわけでもなく、ただ偶然に何かの力が働いてここにくることになった運の悪いやつなんだということがわかったんだ。
つまり、俺がここにいても、家族の暮らしの足しになるわけじゃないんだ。
逆に俺が突然消えたことで、男手が減り、苦しくなっていることだろう。
俺は帰らないといけないと思った。
もちろんすぐに「返してくれ!」とバレシュ伯に願ったよ。
最初、俺は、このフレアを「遠いところ」であっても、来ることができたんだから「戻ることもできるところ」だと思っていたからだ。
だが、バレシュ伯は、帰りたがる俺に、何度もこう言った。
「ミシェル、ミシェル、お前は、遠い遠い世界に連れ去られていたんだね。長いあいだのうちに、そこでの生活もお前の血肉となり、愛着もあるのかもしれない……。だが、そう簡単に行き来はできないのだ。私は父さんは、お前がここに帰ってきてくれたことがうれしいよ、ミシェル。だから、ここにいておくれ」
もちろん最初は反発したし、俺も理解できなかった。
なぜ、「来た」のに「戻れない」んだ、と。
その点、バレシュ伯は俺を「息子」だと勘違いしているものの、他のことについては、無学な俺にわかりやすく説明してくれたよ。
この「館」から逃げ出したって、帰られない距離なのだと説明された。
そして、それが理解できない俺に、地図を使い、空の星の場所が違うことを使って説明してくれた。
バレシュ伯は博識だっただけでなく、先の戦いでフレアがガタールと戦った折の転移の魔術の問題なども独自で研究していたらしいんだ。聖晶石が乱獲された影響だとか、そもそも魔力や魔術を使うことによって目に見える魔術の結果以外にも、なにかこの世界に影響を及ぼしているんじゃないのか……ということも含めて研究していた、らしい。
俺の頭では理解できないが、とにかく、バレシュ伯は俺にわかるように、説明してくれたんだ。
ここは、物語にあるような、元いた世界とは違う「別の世界」と言えるのだと。異なる世界で、簡単に行き来できるわけでなく、ここからいくら歩いても走っても、馬を使っても、帰られないんだと。
俺は荒れた。十年前、当時、19歳の俺は、村では成人男性として扱われはじめたところだったが、この時ばかりは、バレシュ伯の元で子どものように、暴れてしまった。
「俺は帰りたい! 家族にあいたいんだ!」
「お前が遠い世界で、家族と思える者がいたことをうれしく思うよ。でも、お前のいたところは遠い……遠いんだ」
「いやだっ! なぜ!」
これが現実なのだと受け入れられなくて、わめいた。泣いた。理解できなかった。
両親にも妹にももう会えない。自分がいなくなってどれほど悲しむか、また暮らしが大変になってしまうのか。
金との引き換えにもならない、俺。俺はいったいなんのためにここに来てしまったんだって、わけがわからなかった。
だがバレシュ伯は、そんな俺を「ミシェルは苦しいんだな、悲しいんだな」と俺の嘆きをうけいれてくれた。
老いた体でなお、ただ、そばにいてくれたんだ。




