56 捕らわれた者 1 (ミカ)
美香視点です。
アランが私に差し伸べてくれた手、そしてそこに用意してくれた選択肢。
それらはアランが身を削って準備してくれたものということは、十分に伝わってきていた。
以前の私であれば、アランはお貴族さまのお坊ちゃんだからそんな夢物語みたいなこと言うんだろうなって思ったかもしれない。けれど、私はこの目でアランが近衛騎士団長として部下を従えているのを見た。騎士見習いですらあれほどまでに付き従っている中、どれほどの複雑で大きな組織の上にアランが立っているのか、想像くらいはできる。
そんなアランが私を誘うってことは、自らを犠牲にして私に手を差し伸べてくれるに違いなかった。
……それは大きな誘惑で、私にとって魅力的なもの。
でもだからこそ、手を取れないと思った。
「美香、行きませんか?」
優しい言葉。あたたかな腕の中。
本音を言えば、夢みてみたい自分もいた。
それから、この手を取らず誘いを拒んだら、嫌われてしまうのかなと心配する自分もいた。
すべてを捨てて私に寄り添おうとしてくれているのに、肝心の私が手を取らないんだもの。
好きと言ったり、好意を見せたりしてる私なのに、いざとなったら彼の誠意を踏みにじろうとしているんだもの――呆れられてしまうのかもしれない。見放されてしまうのかもしれない。
嫌われるかもしれない――……。
でも、それでも。
「……ない」
好きだよ、アラン。
大好きだよ。
ごめんね、精いっぱいここまで来てくれたのに――……。
声を絞りだすためにおなかに力を入れる。
……お母さん、どうか私に勇気をください。ダンスの先生、私が流されないように力をください。自分で……決めて、選ぶんだ。
「……行かない」
アラン、大好きだよ。
言い終えた瞬間、扉が勢いよく開いた。驚きで顔をあげると、勢いある光が部屋に差し込むのが見えた。
その光はベッドの片隅にいる私たちをすぐさま照らし出した。
まばゆい光にとっさに目を瞑る私を、アランが守るみたいにして自らの背の後ろに私を隠す。
そんな私たちの頭上で、
「またまた逢瀬を邪魔することになって、すまないね」
と、この場に不似合いな明るい口調が響いた。
目をすがめつつ扉の方を見れば、ディールとその後ろにリード、さらにその後ろには明らかにこの状況に戸惑った顔のマーリが視界に入った。
ディールが私たちに近づいてくる。
「おやおやアラン、我が弟ながら、茶色の髪でも頬に傷を負っていても麗しい外見だね。……さあて、駆け落ちでも仕立てあげるつもりだったのかな」
この状況なのに、昼間と変わらぬ落ち着いた話し方とほほ笑みなのが恐ろしい。
けれど、そんなディールを怖がっているひまはない。私はすぐにアランの背後から這い出るようにして言った。
「ち、違うからっ。アランは心配してきてくれただけで……すぐに殿下の元に戻るからっ」
「そうなの?……ミカも逃げ出そうとしてるわけじゃなくて?」
ディールがちょっと首をかしげる。その茶番めいた仕草も、今はそこにすがる思いで私は大きく首を振った。
「まさかっ……わ、私は……」
とっさに言い訳が思いつかない。
すると、ディールはふっと笑った。
「そうだな、ミカには……キースがいるのだからね」
一瞬、私をかばっているアランの身体がほんの少し、ほんの少しだけど強張った気がした。
マーリはキースが捕まったことを知っているからか、ディールの言葉に怪訝な顔をした。
私に関係する人たちに妙な疑問を抱かせるディールの話運びに、胸が痛む。でも、今、私はここで何も言っちゃいけない。よけいに混乱を生むだけだ。
それだけはわかるから、耐えた。
言い返さない私をディールは面白そうに見て、アランに目を向けた。
「アラン。いろいろ事情があって、ミカとキースには少々親密になってもらう必要がでてきてね、必要なんだ」
「どういう意味だ」
アランの低い声が問う。
けれど、ディールは軽く笑って「王命みたいなものだよ」と言った。
妙な言いまわしをするディールに腹が立つ。けれど、キースが異世界に来た可能性があるなんてことを知らないマーリの前でいろいろ言うわけにはいかない。
さらにディールは私を見ると、もう一度、
「ミカ、自分の役割をわかっているね?」
なんて聞いてきた。
悔しい。
苦しい。
けれど、私はうなづいた。
「……ミカ、いい子だね。アラン、お前もこれくらい聞き分けがいいといいんだが、今回はいたずらが過ぎたな。まったく手のかかる弟だ。他の貴族が我々を見張っているというのに」
息をつきながらそう言ったディールはリードを振り返った。
「リード、他にはまだ勘付かれてないな?」
「魔術で偵察鳥を飛ばしましたが、他に気付かれたような動きはまだありません」
淡々としたリードの返事にディールはほっとしたようにうなづいた。
「アランなりに小細工を重ねて、うまくここまで忍んで来たってわけだ。……なりふりかまわず恋人の元に走ってきたわけじゃなくて安心したよ。まったく褒めはしないが」
ディールはそういって少し膝をかがめて近づいてきた。アランは私を背にかばったまま寸分も動かない。
そんなアランの顎先をディールの右手が取った。
しばらく顔と痣を見分するみたいにしてから、大きく息をつく。
「かのアラン・ソーネットが、兄とはいえ、私みたいな貴族に簡単に顎を取られるのだな」
「……」
「今だって、私の手から逃れる手はあるだろう? 無防備に見せかけてるが、着実な戦法を好むアランに限って『仕込み』が無いはずはないだろう。むろんリードの魔術と一騎打ちにはなるだろうが……それでもアランに勝ち目は残っている。なのに、歯向かわないのか。ここまで来ていて、私に顎を取られるのか」
ディールがアランを見つめているのが、背中側にいる私からはよく見えた。
アランの表情はわからない。けれど、なんとなく今のアランはすべての表情を消しているような気がした。
そしてそんな私の想像を肯定するかのような、温度を感じさせない静かで淡泊な声が響く。
「……ミカがここにいるというならば、私がすべきことはない」
アランがそう言い切ったのを聞いて、胸がズキンとした。
アランの精いっぱいの手を取らなかったのは私なのに、胸がいたい。アランは今、どんな想いでここにいるんだろう。
でも……、これは私のわがままだろうけれど、アランに捨てて欲しくないことがたくさんあった。
ソーネット家の次男であること、ディールの弟であること、リードの兄であること。
近衛騎士団長であること。
アランの館にはアランを慕う使用人がたくさんいるってこと。
どうかアラン、今もっているすべてを大事にしてほしい。
もしアランとここを離れて、フレア王国でのわずらわしい関係性から逃げられたとしても、きっと心は思い悩むだろう。
みんなどうしているんだろうと思い続けるだろう。
裏切ってしまった悔いを抱えつづけるだろう。私も、アランも。きっと。
だから……私は私の今いる立場で最善を尽くすしかないと思う。
アランの背中に広がるマントをぎゅっと握った。
砂埃の匂いのするマント。この夜の中、駆け抜けてここまで来てくれたことを教えてくれる匂い。
ディールが肩をすくめてアランに言う。
「すべきことはあるよ。……数日後、ミカと婚約披露し、準備が整いしだい結婚だ」
「……」
「まぁ、その様子だと、ミカには駆け落ちでもせまって振られたのかな。フレアの監視から解放させてあげたいでも思った?」
「……」
「でも、結局は婚約も結婚できるんだからいいじゃないか。共にいられるさ……いやというほど」
無言のアランに笑いかけたディールはちょっと肩をすくめて、おどけたように言った。
そして言葉をつづける。
「そのためにも、ソーネット家出身の者として近衛騎士団長でいてもらわなければならない。そしてゆくゆくは総帥だ。ソーネット家のアランが軍事派閥、リードが聖殿を抑えてくれれば、当分はソーネット家もフレア王国も安泰だ」
「……ディール、貴様……」
アランが初めて反論するように口を開く。けれど、ディールはかぶせるように言い放った。
「アランはミカを守りたいんだろう。そばにいたいんだろう? 私はね、父と母から受け継いだソーネット家を守っていくんだよ。フレア王国の中で、ソーネット家が断絶することがないように守る。アランとミカの婚姻は、お前にとっても、私にとっても必要なことだ。ミカにとっても暮らしの基盤ができるということで、どの者にも利があるだろう?」
ディールは歌うようにそういい終えると、おもむろに後ろを振り返った。
それが合図だったのか、私は見たことがない逞しい体つきの男が部屋に入ってきた。騎士なのかよくわからないけれど、アランの騎士服とはちがったもっと簡素なグレーの制服を着ている。
「アランを例の部屋に連れていけ」
「はい」
指示されたグレーの服の人たちが礼をすると、ディールは後ろに困惑した顔で夜着にガウン姿のマーリの方を見た。
「マーリ、当分、アランの世話をお願いしたい。ミカよりも優先事項だ。他言無用、アランとの会話も一切禁止でお願いする。すまないが、一切の質問は受け付けない」
「私はあなたの使用人ではありませんっ」
マーリが即座に反論した。
「だから、お願いだと言っているだろう? ……ただ、招いたのはミカだからね、マーリ嬢には帰っていただいてもかまわないんだよ。お父様の歴史の研究を手伝ったらどうだい? なんなら、明日馬車を手配するが」
「なっ……」
「どうする?」
迫られたマーリに私はアランの背後から、視線を送る。マーリは困惑と怒りの目をディールに向けながらも、私の視線に気づいたのか、すこし眉を寄せつつも軽く頷きを返してくれた。
そして、
「……いろいろ思うこともありますが、まずはアラン様に付きましょう」
と言ってくれたのだった。
ディールはそんなマーリに取ってつけたように優雅に「感謝する、マーリ」と言った。白々しいその言葉にマーリがディールを強いまなざしで見返すのがわかった。
けれど気にすることもなくディールは、待機していたグレーの制服の人に「では、アランを連れていけ」と最終指示をだす。
昼間の明るく軽快な声とはまったく違う、隙のない指令。グレーの制服の男は、アランを立ち上がらせる。アランはぎりぎりまで私を身体でかばってくれていたけれど、私の方は見なかった。
そのままグレーの制服の男に抵抗することもなく、廊下に出てゆこうとする。
手からアランのマントがすり抜けていく。
ディールが「例の部屋の階の廊下は人払いを」と指示しているのが聞こえた。
私はとっさに叫んでいた。
「アランに酷いことしないで!」
ディールが顔だけこちらにむけた。
「酷いこと? するわけないよ、可愛い弟だし、フレアにとって大事な近衛騎士団長だからね。婚約披露の夜会まで別室にいてもらうだけだ。ミカは夜会までキースについてに専念してくれたらいい。マーリの変わりの女性のメイドは朝になったら寄越すよ。あとはリード、見ておくように」
最後にふっと笑って「ミカ。行かなくて正解だったよ」と言い残し、ディールは部屋から出ていった。
そうして、部屋にリードと私だけが残されたのだった。




