50 音無き声 (アラン)
アラン視点
『……アラン』
呼ばれた気がして、ふりむいた。
だがそこに見えるのは、鬱蒼とした森の木々と馬に跨るセレン殿下の護衛の者たちの姿だった。
……そうだ、ここに彼女がいるはずがないのに。
「どうかしたか、アラン」
セレン殿下に問われて、私は乗馬の姿勢を戻した。
殿下の馬と並び、「いえ、私の気のせいです」と返事した。
ここは、視察のため街へむかう道中の森の中だ。安全確保のために先に街に出向いている早馬の二名、そして殿下と私のような護衛の一団、そして少し遅れて後方に視察先に渡す品々を乗せた馬車と護衛の一団と三つの組みに分けて進んでいるものの、森の中の道は整備もあまり進んでおらず、馬の脚も遅くなりがちになっていた。強引ともいえる日程で体力勝負ということもあり、女性の姿は皆無だ。
「気のせい? 何かを感じて振り返ったのだろう?」
「はい。呼ばれた気がしたので」
私が答えると、殿下は声をあげて笑った。
「愛しの婚約者のことでも考えていたのだろう」
からかうように言われて、私は殿下の顔を見る。笑みをたたえている顔は、あきらかに私の反応を見て楽しんでいる様子だ。
私は首を振る。
「本当に呼ばれた気がしたのです。声ではないのですが……」
そう説明すると、殿下が肩を揺らした。
「魔力のないお前が、声が届かぬところから助けを呼ばれても、察知することなどないだろう?」
揶揄するようにさらりと言われて、「ほら、先を急ぐぞ」と殿下が馬を進めた。
なぜだか殿下の言葉に、引っかかりを覚えた。
まさにその時。
「お話し中、失礼いたしますっ!」
後方から部下の騎士が駆け寄ってきた。
「どうした?」
「たった今、団長の館からの伝令が後方の一団に追いつきました。文を預かりました。至急とのことでしたので、お持ちした次第です」
差し出された文書を見れば、封の下のサインはグールドのものだった。
「私に気を使うな、読んでいいぞ。」
殿下の言葉に、非礼を詫びてから馬上で文を開ける。
すると、グールドの几帳面な文字で、今朝兄の館から使者が来て美香とマーリが兄のところへ移った旨が書かれていた。
想像していなかった内容に、思わず読み直していた。
……なぜ、今日? 夜会まで日数がありすぎる。
……しかもよりによって、私の不在時にとは。兄は何を考えている?
いたずら……それとも、何か裏があるのか。
誰の目に触れるかわからぬ文なので、グールドは当たり障りなく事実のみを書いてある。
だがグールドがわざわざ伝令をとばしてくるところをみると、グールドの目からみて、兄からの使者が有無を言わせなかった状況、もしくは異様な事態であったはずだ。
文を読み直していると、
「館で何かあったか? 使用人が事故にでもあったか?」
と殿下に問われた。
「……事故などではないのですが、美香が兄の館に移ったそうです」
私がそう告げると、殿下は呆れたような顔をして肩をすくめた。
「なんだ、そんなことか。ディールは美香の後見人だろう? 婚約発表の前に準備で館を移動するなどあたり前だろう」
「そういえばそうなのですが……私の不在時に美香が移るとは、さすがに予想外だったので」
そう答えると、殿下は「心配性だな」と浅く笑った。
「夜会にはドレスやら衣装の用意やもてなしのあれこれもある。何か準備が早めに必要になったんだろう。そんなことくらいで早馬をとばしてくるなんて、お前の館の執事は少々大げさなのではないか?」
殿下はそう言うと、私の顔をのぞきこむようにしてみた。
「それくらいで愛しの婚約者の元に戻りたいなどと言い出すなよ、アラン」
釘をさすかのような言葉に、私は返事を言いよどむ。
たしかにグールドの文面には一言も私が戻るようにとの言葉はない。
けれど、長きにわたり館を任してきたグールドが、わざわざ私に文を寄越したのだ。
流していいようなことではない気がした。
すると、即答できない私に苛立ったかのように、殿下は軽く眉を寄せた。
「……視察の街には夕暮れまでには着きたい。急ぐぞ」
殿下は言い捨てると、道を急ぐかのように手綱をあやつり馬の脚を進める。
その背を追いかけないわけにはいかない。
――けれど。
先ほど、遥か彼方から呼ばれた気がした感覚が、ふと戻る。
泣きそうな顔をした美香の表情が思い浮かんだ。
グールドからの文を懐にしまい、殿下のそばへと馬を進めたものの、馬上で揺られながらどうしてだか、胸騒ぎが止まらない。
「アラン! アラン・ソーネット!」
「はい」
「お前は、今、私の護衛としてここにいるのだろう」
その表情と声音に、何か違和感を覚える。
グールドからの異例の文、美香に呼ばれているかのような錯覚……。
小さな違和感が積み重なっていく感覚だ。
……何か見落としているような。
そう思った瞬間、ふと、ついさきほどの殿下の言葉が脳裏を横切った。
『魔力のないお前が、声が届かぬところから助けを呼ばれても、察知することなどないだろう?』
そうだ……妙なのだ。
殿下の「声が届かぬところから助けを呼ばれても、察知することなどない」という言葉は、魔力のない私にとって、たしかに事実だ。
だが……。
そもそもなぜ殿下は「助けを呼ぶ」と連想した?
……それは、殿下がその連想の下地として――……ミカに何かあると”知っている”のか。
殿下とディール兄が、何か図ったか――……?
そう思ったとたん、自然に身にそわせる双剣を意識していた。
思考が巡ってゆく。
殿下の馬との間合い、後方につく護衛の騎士の配置がいっきに鮮明になる。
団長の私の耳に入っていない情報……それが、「いたずら」のようなものゆえに耳に入らなかったのか。
それとも、一部貴族のみだけで計画された何かがあるとすれば――?
手を柄にかけることはなくとも、手指、背後、気配、すべてを意識したまま、口を開いた。
「殿下。……ミカがどうしているかをご存じなのですか」
敏いセレン殿下であれば、その問いだけで私が何かに勘付いたと知るのに十分だとわかっていた。
森の中の速度を落とした馬の蹄の音にあいまって、私の声は殿下に届いたのであろう。殿下は少しこちらをむく。
……単なる勘違い、ただの兄とのいたずら――そういった類であってほしい。
心のどこかでそう願いはありつつも、答えによっては――私は、次の行動を決めねばならない――との思いがあった。
一語も聞き漏らさないように気を張り詰める。
殿下の口が小さく開いた――……
けれど。
そこに声は無かった。
『アラン』
殿下は目線だけを私の方に向け、唇の動きだけを私に見せつけたのだ。
まるで後に続くほかの騎士には聞こえてはならぬというように――唇の動きだけで告げたのだ。
『アラン、今、もしお前がミカの元へと駆け出せば、ミカの今後の未来、その命、名誉について、”フレア”は保証せぬ』
手綱を持つ手に力が入った。
『ミカと共に生きたければ、今は私と視察に行け。明日になれば、ミカの元でも館にでも好きなところへ行けばいい。……今は、事を荒立てるな』
静かに閉じてゆく唇が告げた内容にカっとなる。
”今”は駄目で、明日になれば行っていい……?
思わず私も無音で言い返していた。
『今、何が起こっているのですかっ』
殿下が少し手綱と足さばきで馬の速さを緩めた。それに合わせて、ほんの少しも見落とさぬようにセレン殿下の口元を見つめた。
しばらく動かなかったが、ちいさいため息をついたような仕草の後――その口は声なきままに告げた。
『……リードによる、審問だ』




