47 強くなる日差しの下で 2 (ミカ)
アランから夜会がソーネット家の本宅の方であると告げられてから数日後。
朝からダンスのレッスンが入った。
やっぱり夜会が近くなったから、ダンスの仕上げに熱が入ってるってことなんだろうか。
グールドさんに言われるままに、いつもより早い時間から広間に行くと、先生はすでに準備ができていた。
強化練習みたいに、早朝から基本姿勢、ステップの総復習が始まった。
少し休憩があったかと思ったら、今度は楽師が呼ばれて、音にあわせて先生と踊る。
アランは騎士のお仕事に出かけているから、相手はもっぱら白髪ひっつめ髪のいつもの女の先生が男性役を務めてくれることになった。
広間に響く楽師の弦楽器の音。そこに合わせて鳴る靴音は二人分。
今日のダンスのレッスンは本当に長い。
もう何曲目か数えるのもつらくなって、ただ、とにかく表情と姿勢と足さばきを気を付けて踊り続けている感じだ。
やっと曲が終わる……
と思ったら、また、先生が片手で合図して、楽師の奏でる曲が変わり、拍子も変わった。
うわ、これ苦手なステップ。
とはいえ、顔には出さず、先生の男性役の最初の一歩に沿うようにして、私も一歩踏み出す。
二歩目を優雅に、三歩目もつま先の動きまでに気をつけて……上体は少しそらす感じで、背筋は伸ばし、肩はいからせず……。
今まで受けた先生の数々の注意やらアドバイスを頭の中で総動員。
白髪をひっつめ髪にした、優雅なのに厳しい女の先生が男役。
私と変わらぬ背丈、ほっそりとした体つきの先生だというのに、組んで踊ると不思議と先生の方がたくましく感じてしまうリードをしてくれる。
さっきからフロアをすでに何周も回っているけれど、先生の足は止まる気配はない。
長く踊ると集中力が切れそうになる。でも、これが夜会になったら、相手はどこかの貴族男性だったりするかもしれなくて、社交辞令の会話とか交わしながら踊る羽目になるかもしれないんだからと、想像して、自分を戒めながらステップを踏み続ける。
さらに二曲分踊った後、やっと楽の音が止まった。
つ、疲れた……。
習ったステップのフルコースを何度も食らって、もうヘトヘトだ。
ついつい踊り終えたとたん、音の止まった広間に響くくらいに、大きく息をついてしまう。
するとすぐに、「ミカ様」と呼ばれた。
「どんなにお疲れでも、人前で大きく息をついてはなりません」
と、いつもの指導。
あわてて背筋を伸ばすして、先生の顔を見つめた。
次の指摘は何かとドキドキしているまっていると、先生はめずらしく目元をほんの少し和ませた。
「ミカ様。ずいぶんと体の動きがなめらかになりました。それでいて、気品を失っておりません。ずいぶんと上達なさいましたね」
思わぬ言葉に、私は目を瞬いた。
厳しく凛とした態度を崩さない先生に、めずらしく褒められ焦る。
「ありがとうございます」
何秒も遅れて返事したけれど、先生はそれに対しても注意せず、ただ頷いた。
どうしたんだろう?
いつもと違う態度に違和感を覚え、私は先生の顔をじっと見つめた。
背後では、楽師たちが楽器をかかえて退室していく気配を感じた。
何曲も踊って汗ばんでいたはずの肌がすっと冷えてくる。
妙な沈黙に、思わず、
「先生?」
と呼びかけると、先生が口を開いた。
「今日が、ひとまず最終の稽古となります」
「え……」
突然の言葉に、さっきの褒められた嬉しさも吹っ飛ぶ。目の前の先生をただただ見つめる私に、先生は続けた。
「もちろん、まだまだミカ様のステップは一流とはいえません。けれども、宴に集まる貴族と社交辞令の踊りをかわすくらいならば、応じるに十分といえるでしょう。よく励みました」
今日が最後のレッスンというのが初耳だ。私は驚きのあまり、先生の顔をただ茫然として見返した。
すると、先生がきゅっと眉を寄せて厳しい表情になった。
「ミカ様。そういう隙のある表情はいけません。貴婦人として常に意識を保っていてください」
今は先生の指導を聞いていられなかった。先生に詰めるよる。
「先生! 本当に今日が最後なんですか!」
「そうですね。ミカ様はこれから、婚約披露のための準備でお忙しくなりますからね」
その言葉にはっとした。この館の調度品が新しくなっていくように……私の立場も変わるっていうこと?
「こ、婚約しても、ダンスは必要なのに……」
「婚約は結婚の前段階。ミカ様は、いずれアラン様の妻となられるのですから。ダンス以外に学び準備することが山積みでございます」
先生の言葉に私は首を横に振った。
「私、まだ、そんな……まだまだ教えていただくことがあるのに!」
「なんです? ミカ様、弱気になられてるんですか」
「婚約披露だって、ソーネット家の本家のお屋敷で開かれるって聞きました。きっと大きくて立派なお屋敷……先生みたいに、まだ踊れないのに……教えていただくこと、まだたくさん……せめて、ソーネット家の夜会に……」
「……私は貴族の末端にかろうじて名を連ねているものの、本来、年もとり、夫も失くした身、社交に関わることはございません。ダンスの師としてこちらに来るのは最後になりますでしょう。次にお会いするときは……あなたはソーネット夫人となっていらっしゃいますことでしょう」
「そんな……」
先生が私の手を取った。
しわの寄った年齢を重ねた手が、私の手を握る。
「ミカ様。顔をお上げなさい。師として、最後の指導ですよ」
”最後”という言葉に胸が締め付けられる。
息がつまるような気持ちで先生と目を合わせると、先生は真剣な目でこちらを見ていた。
「あなたは立ち姿からして、姿勢が良い。踊っているときもしなやかでありながら軸ができている。それは長所です。あと、注意されてもすねない。粘り強いところがある。それも長所」
先生の言葉に私は瞬きを繰り返す。
「あなたには長所がたくさんある。けれど、よく聞きなさい。短所もある。それは、物分かり良い女になってしまっているところです」
「……先生」
「この国は、まだまだ男性がほとんどを決める国です。ここで生きていくには、女はしたたかでなければ」
「したたか……?」
思わず聞き返すと、先生は一度深くうなづいた。握る手にも力が入ったように感じる。
「そうです。あなたはもっと主張しなさい。ほしい物を欲しいと、したいことをしたい、と望んだ方がいい。アラン様を利用するくらいになるといいんです。婚約者になられたのなら、その立場をあなた自身がちゃんとお使いにならねば」
私が先生の言葉に驚いて固まっていると、先生はもっとぎゅっと手を握るようにして、一度私に理解を促すように手を上下させた。
「あなたは私の弟子なのですよ。しっかりなさい」
「先生」
「貴族に消費される事でしかない”踊り”。貴族の教養程度と思われているダンス。けれど私はこれで夫を亡くした後の人生を支えてきたのです。誇りがある。アラン様や弟のリード様は私の教え子ですが、あなたは私の弟子。踊りに自信をもちなさい。女は、ステップの美しさで人を引きこむことできますし、また密着して踊ることで、相手の男性のその仕草や動きから、真意や性格だって読み取れることも多々あるのです」
先生のいくつもの言葉に私はどんどんのまれていく。
そんな私を諭すように先生が言った。
「利用されて、使い捨てされる女性にならぬよう、ステップを教えてきたつもりですよ。ミカ様は、もう誰と踊っても大丈夫です。そして、あなたさえ、気持ちを強く持てるならば、リードしてくる男性に踊らされているようにみせかけて……あなたが相手を踊らせることができるはず」
先生の言葉に私は今度こそ心底驚いて、返事どころか息もできなかった。
踊らせる……?
「アラン様にからかわれたくらいでステップを揺るがしてはならぬと、姿勢を崩してはならぬとお教えしたでしょう? 他の殿方にちょっかいかけられようと、政治的駆け引きに巻き込まれそうになろうと動じてはなりません。あなた自身が、一人の人として、姿勢を保って……この世を踊り抜けられますように」
先生がもう片方の手でも私の手を包みこむ。
先生の細くしわがれた手が、熱い。そして強い。
熱さを伝えてくるみたいに、一度ぎゅうっって握ってくれたと思ったら、先生はすうっと私の手を放した。
いっきに放されて、空気がひんやりと感じる。
離されるのがすごく寂しい。
厳しい先生だと思ってた。
マナーもダンスも、フレア王国で学ばないといけないことそのものが、嫌だったことも何度もあって、私は全然良い生徒じゃなかったはずなのに。
「先生……」
私が呼ぶと、先生が姿勢を正した。その凛とした立ち姿を前に、私もいつもの習いで貴婦人の立ち方として習った基本姿勢をとる。
「ソーネット伯の本家宅であろうが、今後、王城に招かれようが、動じる必要はないのです。踊らされるものでなく、自らの意思で踊るものになりなさい」
先生はそういうと、優雅に一礼したかと思うと、そのままいつものレッスンのように広間を出て行く。
「……ありがとうございました」
先生の背に精いっぱいそう言った。
アランが帰宅してきて、夜のお茶の時間になってすぐ、
「ダンスの先生が、今日が最終だったよ」
と告げた。
私の言葉にアランが明らかに驚いた顔をした。その顔の変化から私はアランも知らなかったのかと驚く。
「アランが先生となるよう頼んでくれてたんでしょ? 今日が最後ってアランも知らなかったの?」
「師といっても、私やリードが世話になった方で、無理やり頼んだようなものだったので……。終了の時期は彼女が美香の上達を見て決めてくださるよう言っていたのです。でも、本当に急ですね」
「私が婚約したから……準備もあるだろうからって、忙しくなるからって……」
「あの人らしい身の引き方です。もちろんミカが上達しているからでもあるんだと思います。妥協はしないでしょうから」
アランの言葉に、潔いのはあの先生らしいとは思いつつ、今日言われた熱くてあたたかい言葉を思い出すと、なんだかすごく寂しくなった。
「……ダンスは難しいけど……嫌いじゃなかったのに。先生も……厳しいけど……すごく良い先生で……」
もどかしい気持ち、寂しい気持ちをうまく形にできなくて、とぎれとぎれの言葉だけが浮かぶ。
そんな私をアランがのぞきこんだ。
「寂しい?」
言い当てられて、私はうなづくかわりに俯いた。
ふっとほほがあたたかくなる。アランの大きな両手が私の両ほほを包んでいた。ゆるい力で顔を上げるように向けられる。
「泣きそうな顔だ」
「そんなことないよ……ただ、こんなに急だと思わなかったし。私、そんなに良い生徒じゃなかったし……今更だけど、もっといろんなこと質問して積極的にしとけばよかったとか考えちゃって」
ほほを包まれたままで話す。
じんわりとぬくもりが与えられる頬が熱い。
「もうすこし来てもらえるように頼みましょうか?」
アランが言った言葉に私は黙る。
昼間の先生との会話が思い出される。
先生はきっと社交から身を引いた身。しかもおそらくはソーネット家よりも身分の低い貴族なんだろう。
アランにそういうつもりがなくても、ソーネット家から依頼されれば断りづらい関係というものもあるだろう。
「ううん、いい。慣れ親しんだ人と会う機会がぐんと減っちゃうのって、寂しいなって思っただけ。ずっと会えなくなるわけじゃないんだし……。先生の生活を邪魔したくないし、頼んだりしないで」
私がそう声をかけると、アランは「はい」と返事した。
それからそっとほほを包んだ手を動かして、私の横髪をそっと耳にかける。
耳もとからたどるようにしてアランの手が離れていった。
夏が近づき、夜になってもあたたかい空気がただようテラス。
肩掛けもいらない季節になっている。
私はしぼんでしまった気持ちを奮い立たせるみたいにして、ぐっと腕を伸ばした。
きっと先生には、「貴婦人らしからぬ動き」とたしなめられることだろう。
「今日が最後だからかね、先生ってば、本当に一から全部の総復習って言いだして。おかげで体はくたくた」
私はちょっと明るい声をだしてそういうと、アランがお茶をいれなおしてくれながら話した。
「兄が住まうソーネット本家で夜会が開かれると話しましたが……おそらくそこには数日前から本邸に滞在するよう兄から要請が来ると思います。それを見越して、先生は早めに総復習したんでしょう。あの人らしいというか」
アランの言葉に私は伸びをしていた腕を止めた。
「え、待って……。今の話だと、数日まえからディール様のお屋敷にいかなきゃいけないの? 当日じゃダメなの?」
「そうですね、招く側になりますから主要な使用人の顔も覚えておく必要はあるでしょう。そもそも、ディールは、『まず本邸に慣れておかねばならない』と理由をつけて、あなたは呼ぶでしょう」
アランが苦笑いを浮かべた。たしかにあの人なら、早く私を呼び出してきそう。
……ちょっとディール様はいい人のような裏がありそうな、予想つかないところあるから不安だなぁ。
ついそう思っていたら、アランが私の顔をのぞきこんだ。
「もちろん美香があちらに行くときはマーリも一緒に行くように手配しますし、私もあちらに滞在しますから一人にはなりません」
アランはフォローするようにそういったけど、不安は山積みだなって思う。
……とはいえ、仕方ないよね。不安だから止めておこうって考えてたら、何にもできなくなっちゃうし、そもそもアランの婚約者として顔を上げられていられなくなってしまう。
頑張らないと。
でも、頑張れるかなぁ……。
気持ちが揺れて。
ふと口から、
「アラン……」
と意味なく呼んでしまってた。
しまったと思ったときには、アランは私を見つめてくれていた。
「どうしました?」
理由なく呼んでしまったことに気付かれたくなくって、私は目についたお皿をちょっと指さした。
「ん……その焼き菓子おかわり」
「どうぞ」
私の言葉に笑顔でこたえてくれ、いそいそとお皿にお土産のお菓子をのせてくれるアラン。
そのうれしそうな表情を見ていると、『婚約者ってやっぱり大変だよ』って言いたくなる気持ちも、『頑張れるのかな』って不安もちょっと小さくなった。
「……お茶もおかわりしたい」
私がそういうとアランはさらにうれしそうに茶器にお茶を注いでくれる。
「美香の好みにあったようで良かった」
そんな風に言って差し出されるあたたかなお茶。甘いお菓子。
甘やかそうと彼なりにいろいろ頑張ってくれてる……アラン。
そんな彼を見ていると。
たしかに、ダンスの稽古が終わってしまったのは寂しいけれど。お屋敷に滞在するっていうのも不安だけど……。
「アラン、このお菓子、私、好き」
そう言える幸せがここにあるってことで、頑張れる気がした。




