45 恋の風味 (アラン)
アラン視点です。
海の風になびく黒髪が視界に入る。
「アランが私を守りたいって思ってくれるように……私も、アランを傷つけたくないの」
抱きしめた美香は、小さく細く頼りなげなのに、そこから紡ぎだされる言葉は力強くて、ひたむきで、胸が痛くなった。
「……こんなに小さな身体で、騎士団長の私を『傷つけたくない』と?私に守られるのではなくて、守ろうとするのですか」
私が抱きしめる腕に力を込めながらそう囁くと、美香が私を受け止めるように、おずおずと腕を私の背に回し、その肢体を添わせてきた。
彼女の額がこつんと私の胸に当たり、うつむきかげんの美香がくぐもった声で言う。
「私がアランを守れるとは思わないよ。でも、傷つけたくない」
「私は少々のことで、傷つかない」
「……うん。アランは強いのも知ってる――だけど」
――だけど、
と、美香は続けた。
私の腕の中で、小さくなりながら。私のまわす腕から零れ落ちた黒髪だけが海からの風に揺れてなびく。
「今は大丈夫だけど……。この先、フレア王国が私の扱いを変えてくる時が来たら、私を守ろうとすればするほど、いろんなものを手放さなければならい時がきてしまうかもしれないよ?」
「……」
「騎士団長としての地位、ユージンみたいな友達や、殿下やディール様、リード様からの信頼。ロイからの尊敬のまなざし。グールドやマーリ、アランの館の人たちにとって、アランは誇りでもある――それらを、手放さないで欲しいって思う」
ぽつぽつと美香が言った。
「アランが私を……好きでいてくれるのは、わかった。たくさん伝わってくるの。守ってくれようとしてくれることも嬉しい」
「美香」
「すごく……嬉しい」
美香の言葉が途切れがちになる。こらえるように震える肩は。
「でもね――……でもね。友達や家族、信頼のおける使用人や子供の頃から時を共にしてきた学友だって……きっとかけがえのない存在だよ。その人たちと築いたものを、一時の突然あらわれた私のせいで吹き消したら駄目」
「――み、か」
「絶対駄目だよ……それらを失った私が言うんだから……本当だよ?そばにあって当たり前だった信頼関係とか、通じる気持ちとか、あたたかな間柄って、絶対簡単に手放しちゃ駄目だと思う。目に見える形でないからこそ――深く悲しい傷になる」
「……」
「アランに、そういう道を選んで欲しくない」
美香の零れるような言葉は、私の胸に直接に沁み込んで行く。
その震える肩や悲しみを含んだ声音が、私を包んだ。
甘く柔らかな存在である美香。
恋しくて、どんな風につないでおけばいいのかわからなくて、囲うように家庭教師をつけてみたり、婚約者の立場をつきつけてみたり――私のしたことは、彼女を守るという名目でありながら、それは、それは――……きっと。
「美香は、傷ついたままなんですか」
「――私は……幸せになったよ」
「美香」
「アランが手をとってくれて、一生懸命、私を守ろうとしてくれたから。居場所をつくってくれたから」
「で……も、美香が失ったものは――……」
私の言いかけた言葉を遮るかのように、突然、勢いよく美香が顔をあげて私の方を見た。
黒い瞳、その一途な眼差しが私を捕えて、私は次の言葉を紡げなくなった。
「さっきのお願い、叶えてね」
すべてを追いやるように、美香はまるで今までを断ち切るようにはっきりと言った。
「もし来るべき時がきてしまったなら。騎士団長としての使命をまっとうしてね」
私の腕の中で、美香が笑みを浮かべた。
無理をした明るさではなかった。
美しく芳しい香りを放つ花のような――綺麗で華のある微笑み。
まさに美しく香る――『美香』
「アラン……好きだよ」
言葉が紡げなかった。
胸が、痛い。
私が動けずにいる間に、美香の唇が小さく言葉を紡いだ。
「好きになる気持ちを、ここで与えてくれて――ありがとう」
――「ここ」……フレア、で。
美香の言葉が、胸に刺さる。
私は腕の中の美香を抱きしめた。
抱きしめるほか、私にできることはなかった。
彼女は――19年間を生きてきた地から突然に引き離されて、私のそばにいる。
******
二人で海をしばらく眺めた後、また聖域の前に待たせていた貸し馬車まで戻り、再び城下を通り館に帰ることになった。
夕暮れ近くになってきた城下は、帰路につく者やら、店じまい前の最後の大売り出しの店主の声など、せわしい声に溢れていた。
馬車の中で、私と美香は言葉少なに、けれど片手同士はしっかりと握ったまま、二人で窓から賑わう街を見ていた。
その時、隣の美香が小さい声をあげた。ちょうど、込み合う往来で馬車がいったん停車したのだ。
「あ……あのお菓子」
美香の声は私に語りかけたというより、つい口にだしてしまったという風情だったが、私は気にかかった。
「お菓子ですか?」
「え……え、あ、うん」
美香の眼差しは窓の外の行き交う街娘たちに注がれている。
その街娘たちが手にしている菓子は、見覚えがあった。
「あれは、初めて外出したときの……?兄が買ってきていたものですか」
私がたずねると、美香が頷いた。
「たぶんそうだと思う。果物に飴がかかっていた、すごく綺麗なお菓子だったよね」
思い出すような、懐かしそうな顔をして美香が答えるのを聞いて、私はふいにその時に自分が言ったことを思い出した。
前の外出のとき――ディールが買ってきたあの菓子を、美香が私の口に運んでくれた。
甘酸っぱい味はクオレのもので、私はあの時。
美香が教えてくれた「初恋の味」というクオレの菓子を、「いつかまた食べさせてあげます」と言ったはずだった。
甘酸っぱい味は――それは、たしかに初恋の味。
あの頃の私のように、未熟な恋の味と香り。
美香を手に入れたくて仕方がなくて、近づきたいのに他の者が寄ってきてくやしくて。淡く酸っぱく、そして今思うと、恥ずかしい態度もたくさんとってしまった。
「美香、少し、馬車を止めて――……あのお菓子を、買ってきましょう。約束したでしょう?」
「え?」
「クオレの味があるといいのですが」
私は御者に知らせて馬車を街道の脇に停めて、少しの間待っていてもらうよう頼んだ。
美香の手を引いて、先ほど見かけた出店の方へと向かう。
人通りの多い街道で、私が手を引く青碧のドレスで黒髪の美香に、街の者たちは驚きや憧れ、興味を持つの眼差しを向けて行く。
ぎゅっと美香の手を握る。
添うように握り返してくれる、小さな手。
投げかけられる視線の中を、堂々と歩いて突き抜けた。
店の前に来て、綺麗にならぶ飴のかかった果物たちを見る。
店の主人が、男女2人で店先に並んだ私と美香を見比べながら、笑みを浮かべた。
「いらっしゃい!どれもおいしいが、好みはあるかい」
「クオレを使ったものは残っていますか」
「クオレ?――あぁ。お、あるぞ!しかも残り二つだけと来てる、幸運だね」
女性の客を意識してか、出店だが瀟洒な器に並べられた菓子のうちから二つが選ばれる。
数が少ないからか薄紙に包まれて手渡されるそれに、硬貨を払って受け取る。
「どうか、お幸せに!騎士団長さん!」
礼を行って、店先から離れるとき――突然、そう言われて見送られた。
――幸せに。
私と美香の幸せは――いったいどういうものなのだろうか。
一瞬、そう頭によぎって、私は振り払うようにして、美香とつなぐ手に力を込めて、馬車に戻った。
待ってくれていた御者に礼を言い、再び馬車に乗る。
街中をぬけて、館に続く丘陵地に通る道を走る馬車の中で、美香に声をかけた。
「先ほどの菓子、食べませんか」
「うん……あ、でも、馬車の中でなんて、行儀悪くない?」
小声で言う美香に私は笑いかける。
「美香から行儀の良しあしを気にかける言葉が聞けるようになるなんて……家庭教師達も喜びますね」
「……意地悪」
すねた調子の美香が可愛い。
そう、彼女はここに来たときに――長いドレスには慣れず、貴族的な身の振り方はまったくできず、食事の仕方も立ち振る舞いもすべて――習いなおさねばならなかった。
彼女の暮らしてきたところとの差異であったとしても、こちらの行儀見習いをしてもらうのが当然だと――思っていた。
けれど、今なら、思うことができる。
それは結局のところ、フレア式の押し付けであったことだろう。
こちらに馴染んで欲しいという私の願いは、結局彼女の過去の否定にもつながったのかもしれない。そこまで何も考えてこなかったけれど。
私は黙って、美香の手をとった。
「美香だけを行儀悪くさせたりしませんよ」
「え?」
「私も――共犯です」
美香が目を見開いた。
黒い瞳が煌めく。
私は彼女の手に先ほどの包みを開いて見せて言った。
「少し、口を開いてください」
「アラン」
困ったような美香の表情の前に、私は艶やかな飴のかかった菓子を差し出す。
戸惑いつつも、美香はそっと唇を開いた。マーリに化粧を施してもらったのか、薄紅色の口元。
そこに菓子を含ませる。
「ん……」
「クオレは、甘酸っぱいでしょう」
美香は頷く。
ゆっくりと食べ終えた美香は、こちらを見上げてきた。
私が黙って見つめかえしていると、小さく言った。
「アランは……自分で食べるつもりはないんだよね」
「もちろん」
「……」
私が笑みを交えて答えると、美香は息を吐いた。
そして、黙ったまま美香は、私が口にしたものと同じ色の菓子を受け取り、そっと私に言った。
「アラン、口を……」
言われて、少し開く。
美香がそっと運びいれてくれる。近づいた指が離れてゆく。
甘酸っぱさが口内に広がった。
「お行儀よくない近衛騎士団長なんて、ここだけの話だね」
美香がくすっと笑いながら見上げてきたので、私は美香を抱き寄せた。
「――っ」
「そうです。美香だけに見せます。行儀が悪い姿も、恋にじたばたするのも」
寄せて、彼女の顎にそっと指を添える。
その先のことを――美香は察知したのか、すこし揺れるような瞳を向けてきた。
私は見返す。
――美香は言う。『もしその剣を私に向けるように命令される時がきたら、迷わないで』と。
けれど――……。
「もうすこし、不作法をします」
車輪がガタガタと鳴る、揺れる馬車の中。
私はそっと顔を傾けながら美香に近づける。
吐息が触れるほどの距離で、美香は戸惑い揺れる黒い瞳を、みずからまぶたを閉じて隠し――私を受け入れるように少し首を傾けた。
――ほんのりと甘酸っぱいクオレの味は、どちらのものだったのか――。
触れあった唇が離れるとき、私はささやいた。
「美香となら、共犯でも同罪でも……本望です」
「アラン、前は行儀に口うるさかったのにね」
私の言葉に、美香は家庭教師をつけはじめた頃のことを思い出したようだった。美香の軽口に微笑みを返して、私はそっと彼女の黒髪を撫でた。
美香は静かに私の肩に寄りそってきた。
甘くて――そして、切ない。
今、二人で食べあった菓子は、以前の爽やかで甘酸っぱいと思っていたクオレの味よりも、どこかとろりとした飴の甘みが勝っていた。




