42 青碧の海 2 (ミカ)
アランが待つ部屋に連れられたものの、お針子さんのノックで扉を開いて出迎えてくれたのは店主のシエラ・リリィさんだった。
私の青碧のドレスの姿にさっと目を通したシエラさんは、優しく微笑んでくれたので、なんとなくほっとする。
「先ほどの夜会用も良くお似合いでしたが、今のミカ様の表情にはこのドレスが一番よく合っているようですね」
「そ、そうですか」
「えぇ、衣装はその人の心がともなうと輝きも増すのです。さあ、アラン様のところへ」
中性的で魅惑的な笑みをたたえたシエラさんは、私を部屋の奥にあるゆったりした椅子の方へと促す。その奥の椅子に、アランが座っているのが見えた。
アランは私の方へ顔を向けているけれど、距離があるのと窓からの光りの加減もあって、表情までははっきり見えない。
――アランは、私の姿を見てどんな表情を浮かべるんだろう……。
先ほどお針子さんが教えてくれた「瞳の色」を選ぶ意味をいまさら思い出し、アランの表情が気にかかってきて、なんだかすごく緊張してくる。
でも、隠れるわけにはいかないし……。
私が緊張しつつも彼の方に一歩足をすすめると、アランは私を迎えるように椅子から立ち上がろうしてくれた。
その仕草にホッとしかけた、まさにそのとき――ガタンと椅子の音が鳴った。
「え?」
アランが立ちあがった拍子に座っていた椅子の足が鳴ったのだと気付いて、さらにびっくりする。優雅な貴族の振る舞いが身についたアランだったから、立ちあがるときに音を立てたのを聞いたのは初めてだった。
けれど、その驚きもアランの姿を目の当たりにして、すぐに消え去ってしまう。
アランが、先ほどの威厳のある騎士団長から、上品な貴族青年へと雰囲気に見事に変わっていたから――……。
アランは白の近衛騎士団の騎士服から漆黒の生地の上下に着替え、髪型も少し軽い感じにかわっていた。ブラウスは首元までかっちりとしたタイプになり、そこにストイックな感じの黒の上着。けれど、黒の上着の襟もとや袖口、釦周りには落ちついたオフホワイトの刺繍がほどこされていて、かっちりとしたラインの黒の上下なのにどこか柔らかな印象があるし、前髪をおろしたせいか年齢も少し若く見えるようになった。
ただ腰にある、あの近衛騎士団長の剣は装備されていて、それだけが騎士だと知らしめる唯一。
剣がなければ、本当に優雅な貴族青年の装い――それがよく似合ってる。私は自然と足が止まってしまった。
同時に、まだ全然近づいてないのに――表情も見えないのに、なんだか私のこの青碧のドレスの姿を晒すのがどんどん怖くなってきた。
今の自分の姿――さすがお針子さんとマーリの熱意が込められたドレスだけあって、変ではないと思う。
だけど、アランの瞳の色をまとうっていう意味をさっき知ったばかりの私は、アランがどう思っているのかすごく気になった。
前にこの衣装屋で青碧の布を選んだ時、アランはすごく照れたように嬉しそうな表情をしてくれて『…私の瞳の色を選んでくださって、ありがとう』って、たしか言われたはずで――……。つまり、アランの瞳の色の布に私が包まれること……いやじゃないってことだよね?大丈夫だよね?
くどいくらいに自分で自分を励まして、背筋をなんとかのばし続けていると、シエラさんが力づけるように私の背を軽く支えてくれた。そのあたたかな手に勇気をもらって、私はまた前へ一歩踏み出した。
すこしずつ近づいていくと、ちょうど窓の光が差し込むところに来て、アランの姿がよりいっそうはっきりと見えるようになった。
胸が痛いくらいにどきどきしてくるのがわかる。
さっきの騎士見習い寮で整列した中を歩いたときの緊張感とは、もっと違う感覚。恥ずかしいような、でも、このドレスを着たところを見て欲しいような、不安に期待が入り混じる感じ。この気持ちはなんなんだろう。
表情がわかりそうなところまで近づく。そして、思い切って顔をあげて、長身のアランの顔を見上げた。
目に飛び込む、彼の表情――アランは少し驚いたように目を見開いて私を見つめていた。
――え、あの。その一直線の驚いたような視線は、どう捉えたらいいの……?
私は緊張しつつも、勇気をもってアランに微笑みかけた。声をかけたら、アランなら何らかのリアクションをしてくれるはず、そう願いながら。
「お待たせしました、アラン」
「……」
思い切って声をかけたのに――アランは無言だった。
日差しがアランの金の髪を輝かせている。騎士服の時は後ろになでつけていたアランの髪は、湯を通したのか、今は洗いざらしのようにサラサラと窓からの風になびいていた。
その髪の下の双眸――アランの青碧の瞳。
それは、さきほどと同じく、少し開かれて……固まったまま。唇は閉じられたままで。
「あの……。アラン?」
二度目に呼びかけたものの、アランはやはり黙ったままだった。しかも先ほどが引き続き、ぴくりとも動かない。
――正直、ここで黙られると……困る。
私はアランと見つめあう形で、戸惑ったまま立ちつくした。
そう……考えてみると今まで、アランは私をいつもエスコートしてくれていて、声をかけて傍に寄ってきてくれていたんだ。私より先に、導くように、促すように。
それが今、無かった。
アランは私をじっと見つめるばかりで、何も言わない。
私が「アラン?」と声をかけたというのに――返事もなくて。
――アランの瞳の色を着たんだよ?
――何か……言ってよ。
ついそんな風な気持ちが心の中に湧くものの、口にするだけの勇気がない。
「……」
「……」
互いに見つめ合ったまま沈黙の時が過ぎて、その微妙な空気を破ってくれたのはシエラ・リリィさんだった。
「アラン様、見つめ合う時も素晴らしいとは思いますが、せっかくのお時間がそれだけで過ぎてしまうのも勿体なくはありませんか」
呆れるでもなく、あくまで優しく響くシエラさんの声で、目の前のアランがはっとしたように表情を動かした。
それを確認したのか、シエラさんがちょっと笑いを滲ませた声でいった。
「お茶を用意いたしますので、私もしばし退室させていただきます。ごゆるりと」
――え、行っちゃうのシエラさんっ。
私はアランから何も言ってもらえていないというのに、頼りのシエラさんが退室してしうということで、心細くなって咄嗟にシエラさんの方へと顔を向けた。
するとシエラさんは軽く会釈して、小さく「大丈夫ですよ」と言った。
――大丈夫って、何がですか、シエラ・リリィさん!
内心思いつつも、彼の優雅な足取りを止めることもできず、パタンと扉を見届けるしかなかった。
私がアランに背を向ける形でしばしシエラさんの消えた扉を見つめていると、
「美香」
と、この部屋に入って初めてアランの声が聞こえた。
やっと聞けた声に振り返ると、こちらを見つめるアランとまた目があった。
けれど今度は、なんとアランはあからさまに私から目をそらした。
――あ、あの。そこで目をそらすんですか、アラン!
私がどうしようもなくて、目でアランの表情を追うと、アランはさらに顔をそむけて呟いた。
「美香……すみません。ちょっと動揺してしまって」
「動揺って、それ似合ってないと言いたいの?」
つい目をそらされた苛立ちもあって、ちょっとすねるように言い返してしまった。
すると一瞬、間があいて、アランが目をそらしたまま言った。
「そうではなくて。似合っているからです……」
「……」
本当は、似合うとか似合わないとかは、もうどうでもよくなっていた。もちろん似合ってるって言われたい気持ちはあるけど、それは重要じゃなくて。
――目をそらされたのが寂しい。
そんな思いがよぎって、私はあえて自分からアランの顔をのぞきこむようして話しかけた。
「アラン、こっちを見て。せっかく、アランの瞳の色のドレスなのに」
するとアランは目線をちらっとこちらにむけて、ちょっと困ったように言った。
「直球ですね」
「直球って――」
「美香は、女性が異性の瞳の色を選んで身を包む意味を、もう知っているんでしょう?」
青碧の瞳が少し煌めいた。
「瞳の色をまとうように、貴方のそばにいつもいたい――という意味を」
アランのたしかめるような言葉が、ひとことひとことがストンと心に落ちて来て、自然と顔に熱があつまってきた。
――『アランの瞳の色のドレス』を着て、しかもそれを『見て』って、私はねだったわけで……私、もしかしてすごく情熱的な催促をしたってこと?
頬が火照るのを感じて、今度は私がアランの視線からそれたくてうつむいた。こんな態度では、私が瞳の色を着る意味を知っていると言っているようなものだと思うのに、どんどん火照ってきて顔をあげることができない。
そんな俯いた私に、今度はアランの方が一歩近づいてきた。
そして黒い上着の袖につつまれたアランの右腕がわたしに伸びてきて、大きな手が私の頬にそっと触れる。
指先が撫でるように頬を伝い、私の耳の縁をゆっくりなぞった。
アランは無言のまま、私の耳に触れていた指を髪にうつし指先でその髪を梳くようにしながら髪先まで通し、長く伸びた私の黒髪の先を軽く指にからめた。
うつむく私の視線のちょうど鎖骨あたりでアランの剣で鍛えられた節のある指が髪をなんどもくるくると揺する。
私は恥ずかしさに耐えきれず、ぎゅっと目をつむった。
すると、アランはさっきとは違ってすこし笑いの混じった柔らかな声で私に話しかけた。
「前にここで美香が青碧の布を選んだときは、瞳の色を身につける意味を知らなかったんでしょう?」
「……うん」
たしかに前に来た時は何も知らずに選んだ。
懐かしい想い出の色に目が釘付けになったから。
青碧――青というより緑に近い色。
昔、父がいたころ母と三人で言った離島の海の色を思い出し、そして、アランの瞳の色に近いと気付いた色だった。父と母とのあたたかな思い出と重なって、アランの瞳だなぁと思いながら手を取られずにいられなかった。
あの時はまさか、「いつでもそばにいたい」なんて愛情を表現することにつながるなんて思いもしなかった。
私の頷きを確認すると、アランは言葉を続けた。
「今は、意味を知ってるんですね」
「……うん、さっき教えてもらったばかりだけど」
「ならば……意味を知った上で身につけて、今、私の前に立ってくれていると、そう思っていいんですね?」
あらためて尋ねられると緊張した。
――「アランのそばにいたい」と思っているのかと、本人から問われたように思えて、一瞬息をつめてしまう。
するとアランは、そんな私の思いを見透かすように、言葉をかさねた。
「込められた意味そのものまで……美香が思っていなくてもいいのです」
まるで、私に逃げ道を与えてくれるような、やさしい声音だった。
「ただ、この後、私は美香と外を歩くつもりです。この私の瞳の色のドレスを着て出かければ、おそらく城下の人の目を引きます……それでもいいですか」
「……」
「婚約者だと、はっきりと知らしめて、しかもその上、想い合っていると……美香が私のそばにいたいと思っていると、皆に思われます。それでも?」
確認する最後のアランの言葉だけはどこか強張っていた。その響きがなぜか、私の胸をきゅっと痛ませた。
今、アランは、さっきの私の『そんな不器用なところ――……好きだよ』という言葉の真意を問い詰めて聞くことだってできるのに、それをしない。むしろ、逃げ道を用意してくれながら、私の意志をたずねてくれた。
それは、彼の誠意なのだと思う。
夜のテラスでアランの手をとったこと。騎士見習いの人たちが整列する前で「アランの婚約者」として挨拶したこと。青碧のドレスを着て、その色の意味を知ってなお、身に包んでアランの前に立ったこと。
私は――『ミカ』は、アランの婚約者としてここに立ってる。
きっかけや状況は強制的なものだったとしても、今は私はその道の上で生きて行こうとしてる。成り行きだけじゃなくて、私の気持ちと決心がたしかにここにあるということを、アランに伝えなきゃいけない。
私はうつむいたまま、アランがわかるように、はっきりと頷いた。
「思われて……いいよ。この色を着る意味をわかって、私はアランの前に立ったの」
そう言ったとき、アランは一瞬身体をびくりとこわばらせた。次いで、アランはまるで安心するかのように深い息をついた。
「美香――あなたも顔をあげて、私を見てくれませんか」
かすれているように聞こえる、熱を帯びたアランの声。胸がきゅっとなって、私は咄嗟に首を横にふってしまった。
なのに、そんな私にまるでもっと距離を縮めるようにアランが上体を近くまで寄せて、口を開いた。
「顔をあげるのは、恥ずかしい?では、うつむいたままでも見えるでしょう、私の今着ている服は何色ですか」
「……見るからに、黒でしょう?」
戸惑いつつ答えると、アランが囁いた。
「えぇ、黒です。美香の――瞳と髪の色ですよ」
まるで重大な秘密を打ち明けるかのようなアランの囁き声が、私の耳に流れこんだ。
その意味を理解できた途端、私はさらにめまいがしてくるくらいに頬が熱くなってくる。
――アランの身を包むその色が、私の瞳の色。つまり、それは……その意味は。
甘くて心地の良い思考が私の頭を回り始める。
でも、私はそんな自分を落ちつけたくて、すこし強がるように言った。
「ド、ドレスに恋人の瞳の色を選ぶのは、女性だけでしょう?男性が女性の瞳の色の衣服を身につけ始めたら、城下の男性服はもっと色とりどりでしょうけれど、前に行ったときも今日も、そんなことなかったもの」
私の言葉に、アランはあっさりと頷いた。
「えぇ、ドレスなどの衣服に恋人の瞳の色を選ぶのはもっぱら女性のようです。男性の衣服は色が濃いものが主流ですから、フレア王国の人間の淡い瞳の色を選ぶのは実質的に難しいでしょう」
そこでいったん言葉を切ってから、アランが軽やかな声で私の耳元まで腰をかがめてささやいた。
「ですから、私は本当に幸運な男ですね」
「え?」
アランの言葉が不思議で私は、俯いていた顔をあげてアランを見上げた。
優しいのに何処か艶やかさをもって煌めく青碧の瞳が私をとらえる。
そのまままるで吸い寄せられるように目をそらせないままでいる私に、つぎは甘さがにじむ声が春のやさしい雨のように降り注いだ。
「『いつもそばにいたい』と思う女性が、黒い瞳だったおかげで、男の私でも違和感なく……好きな人の瞳の色を選ぶことができる」
「……っ」
「あなたが……美香が黒い瞳で、黒い髪で良かった」
私は息をのんだ。
アランの言葉と眼差しは、とろりと私を溶かしてしまうかのようだった。
――『美香が黒い瞳で、黒い髪で良かった』
髪の色を目の色を隠す必要がないだけじゃなく、これで「良かった」と言われたことは……私が私のままでいいと言われているかのようだった。
この黒眼黒髪が、アランの足を引っ張るのではないかとすら思っていたのに――。
アランの眼差しと言葉が私の心の堅い門を溶かしていく。
奥底に秘めていた気持ちが唇から零れでてくる。
「……ち、ちがうせかいから来た私でいいの?」
「もちろん。その不思議な到来を含めて、美香でしょう」
「私の身は、フレア王国でこれからどうなるのかわからないのに」
「これからのことは、私の妻になる、それだけで十分です」
アランの言葉はゆるぎなかった。
私は瞳が潤んでくるのをこらえたくて、隠すようにうつむいて何度も瞬きした。そんな心が開いて涙腺がゆるんだ自分をすこし取り繕うように、ちょっとすねた声をだした。
「もうっ、アランの方が直球だよ。さっきは返事もしてくれないし、目も合わせてくれなかったのに」
「さっき言ったように戸惑ったんです」
「……ね、本当に私の黒眼黒髪で……おかしくないよね?」
私の言葉に、アランは笑いの滲んだ声でこたえた。
「おかしいところなんて一つもありませんよ。ドレスももちろん似合っています。それに黒髪もすごく綺麗です」
「……そ、そうかな。こちらでは、まだ黒眼黒髪の人ってキースしか知らないか…ら…んっ」
私の言葉をさえぎるように、アランは少し首を傾けて、立てた人さし指を「静かに」というように私の唇にあてた。アランの堅い鍛えた指が私の唇にわずかに触れる。
「あ、アラン?」
「――今は、他の男の名を口にしないでください」
「え?」
「今は私との時間でしょう?」
戸惑って聞き返した私にアランは、無言で耳に口づけてきた。耳に与えられた熱い感触に、私がびくりと肩をゆらす。
するとアランは今度はふざけるようにふうっと私の耳に息を吹き込んだ。
くすぐったさが耳からぞわりと身体に突き抜ける。
「っ、あ、アラン!くすぐったい」
抗議を示して私が声をあげると、アランはそっと包むように私の身体に腕を回した。
「くすぐってこっちに意識を向けないと、美香はすぐに他のことを考え始めてしまうでしょう」
すこしすねたような声音が私の耳に届いた。
私は困って、そして――アランの胸元に額を軽く押しつけた。
だって……今、少しわかったから。
――もしかして、それって……やきもち?
心にうかんだ言葉は、甘くてそして少しドキドキした。
私は自分の身をあずけるように、強張る身体から力を抜いて、おそるおそるアランに寄りそってみた。
するとアランは私にまわす腕に少し力を込めてくれた。まるで大きな翼で包んで守るように。
私のうつむきかげんの視界の中で、青碧のドレスと私を抱きしめるアランの黒い上着が交差している。
――黒い瞳、黒い髪。このフレア王国では目立つ色。
でも、今私の目の前に広がるドレスの青碧の色に交差するアランの上着の黒色は、なぜかとてもやさしい色に見え、思い描いた以上にその二色は馴染みあい綺麗に見えた。
――『美香が黒い瞳で、黒い髪で良かった』
アランのさっきの優しい声が私の中にまだ残ってる。
甘く優しい響き。私を内から生かすような。祝福してくれるような――。
アランの腕の中でそれを思い出していると、フレア王国にトリップして来て初めて、自分が黒眼黒髪であることも案外悪くないと、思えてきたのだった。




