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28 星降る夜-2 (ミカ)

ミカ視点です。

 


 私がガウンから取り出してテーブルに置いたもの……。

 それは小さな木で出来た容器。

 中は、ミツロウと何かハーブのような香りをまぜたクリームが入っている。


 さっきの夕食後、自室までマーリと二人で廊下で歩いているときに、グールドさんに呼びとめられたんだよね――……。


 

 夕食後、グールドさんが、てのひらに何かをのせて私に見せて話しかけてきた。

「ミカ様……これを」

「なあに、これ……クリーム?薬?」

「そうです。唇用の軟膏なのです。唇の荒れや指先のかさつきにもよく効きます」


 私は、グールドさんの説明でピンと来た。


「あ、アランがさっき唇を噛んでたよね?」

「アラン様の癖なのですよ、唇をお噛みになるときがあるのです。もしよろしければ、ミカ様が持っていてくださいませんか」


 グールドさんの手にのるクリームの容器を見つめた。


「……どうして私に?」

「昔、アラン様が小さい頃、特にお母様を亡くされた頃によく唇を噛みしめられていましてな。腫らしたのが痛々しくて、私とアランさま付きの乳母はこの薬を持ち歩いて、よく塗ってさしあげたのです。その名残で……ついつい、私はこの薬を常備してしまうのですが、本来、もう必要ないものなのです」

「それで私に?アランじゃなくて?」

「アラン様も、もう唇を切ったくらいで薬が必要な年齢でもありませんし、もしよければミカ様がお使いくださればと思いましてな」


 薬用リップクリームみたいなもの……かな?

 私はあまり深く考えもせず受け取った。

 先ほどアランがミルクを持ってテラスに誘ってくれたとき、ガウンを着ようとして、ふと机に置いていたこのクリームが目に付き、さっとポケットに入れてきた。

 

 ころんと手のひらにのるサイズの容器は、可愛らしい。

 小さな子どものアランが、唇をかみしめて切るたびに、周囲の人たちにこれを塗ってもらってる姿を想像すると、すごく可愛らしかったんだろうなぁとほほえましく思った。アランの子どもの姿って、見たことないけど……ぜったい天使みたいな綺麗な子だったに違いない。


「唇を噛むの、癖なんだってね?」


 私がアランを見上げると、アランはちょっと困ったような顔をして頷いた。


「その容器は懐かしいです。……グールドがよく塗ってくれました」


 私はそっと容器のふたを開けてみた。

 少しバニラのような甘い匂いがする、乳白色のクリームが入っていた。ランプに照らされて、容器に影がゆらゆら差す。


「……すっかり、グールドにはめられてしまいましたね…」


 アランが苦笑いという雰囲気でぽつんとつぶやいた。


「はめられた?」


 状況がよめなくて私が問いかえすと、アランは軽く頷いた。


「私に軟膏を渡しても、私がこれを自分で塗るとは思えなかったでしょうし、ミカにわたせば確実ですから」

「……何で?」

 

 私はさらにわからずに、アランの顔を見返す。アランはくすっと笑った。

 ちょうど風が通り、アランと私の髪をさらさらとなびかせてゆく。木々がざわめき、ランプのジジッという燃える音がテラスに静かに響く。


「塗ってくれませんか?」

「え?」


 風で乱れた横髪を押さえようとしたときに、アランが呟き、私は思わず聞き返す。耳に入って来た言葉に、胸が高鳴る。


 アランは自分の唇に、その長い指先を当てた。そして、こちらをちらっと見て、すこしイタズラめいた光を込めて微笑む。


「傷が、痛むんです」

「……なっ!さっきは大丈夫って言ったじゃない!それに、もう唇の傷ほとんどみえないよ」

 

 私が咄嗟に言い返すと、アランは瞳を煌めかせたまま、少し首をかしげた。

 

「見えなくても、痛むとき、あるでしょう?」

「……もう、痛むなら自分で塗ってください!」

 

 私は開いていた軟膏の蓋をしめようと、テーブルの上に右手を伸ばした。

 

「!」


 伸ばした右手をアランに掴まれて、驚く。目線をうつすと、アランは「隙がありますよ」と微笑む。


「毎日鍛えている騎士様が、女相手に何を言ってるんですか……。それに、グールドさんだって、アランに必要がないから私にくれたんだと思いますけど……」


 私が口をすぼめて言い返すと、アランは引かずに言った。


「傷ついた騎士を癒してくれるのは、清き乙女だと相場が決まっていますよ?だからこそ、グールドはミカにその軟膏を託したんでしょう」

「なに!?そのご都合主義な解釈!」

「はい、私は『お坊ちゃん』ですので能天気なんです」


 にっこりと笑って、アランは掴んでいた私の手に軟膏の小さな容器をのせた。

 手のひらののせられ唇用クリーム……。

 ――……あぁ、私どうして持ってきちゃったんだろ、しかも、さっきこのタイミングでだしちゃったんだろ…。


「ねぇアラン、さっきは私の話を聞きたいって言ってくれてたんじゃなかったの……。もう、アランのペースに巻き込まれてるよ」


 私がため息まじりに言った。

 アランは少し微笑みをたたえたまま、私を見つめていた。

 急な沈黙に、また、胸がどきっとする。

 なんだか最近のアランはとらえどころがない。


「……たくさんの気持ちが、せめぎあってしまうんですよ」


 突然、雰囲気の違うことばに私は戸惑ってアランの目を見つめる。

 でも、アランの表情は相変わらず微笑みを湛えたままだ。


「美香を守りたいし、可愛がりたいし、甘やかせてあげたいと思ってるんですけどね」

「!」


 突然の甘い言葉に私は自分の肩が強張るのを自覚した。

 言葉の内容に、自然と頬に熱が集まる。

 

「でも、実際に話しはじめると、からかいたくなって、ちょっといじわるしてみたくなって……困らせたくなるんです」

「……」


 ――……な、なんなんですか、それ。

 私はアランを見つめる。

 どうしていいか、わからない。

 昨日みたいに、泣いた私をつつみこんでくれるアラン。

 今日のように噛みついたように、こどもっぽいアラン。

 そして、今のように、穏やかなのに、どこか……危うげなアラン。

 本当に捉えどころがなくて、翻弄してしまう。


 ……魅了されていく自分を感じて、私は内心、怖れを感じる。

 ……嫌だ、好きに……なりたくない。

 ここで、この世界で何かに強く惹かれてしまうのは、日本と距離が生まれてしまうような気がした。


 私はつかまれた腕を引こうとした。

 けれど、アランの腕は私を柔らかく掴んでいるのに、びくともしない。

 そんな私にアランは言葉をつづけた。


「不安定なんです、美香に関わると」

「……ふ、不安定にさせてるの?ごめんなさい?」


 不安定という言葉に反応して、私は一瞬あやまってしまった。

 そんな私にアランはくすっと小さな笑いをもらした。


「あなたがあやまるところなんて、どこにもありませんよ?……ただ、不安定だから、塗ってください」

「はい?」


 私はまた、アランの顔を見つめる。

 微笑んだまま、アランは私の手をつつむようにして、軟膏をにぎらせてゆく。


「塗って、癒して、美香の話を聞かせてください」

「……あ、の」

「はい」

「……どこの、わがまま坊主ですか?」

「ソーネット伯爵家次男坊ですが、なにか?」


 手のひらを握られながらにっこりと答えられてしまって、私はいっきに脱力した。

 

「アラン……本当に、よくわかりません。大人なんだか、こどもっぽいんだか、ふざけてるんだか、真面目なんだか、策士なんだか……ほんとに、ほんとに、わかりません」


 私はため息をまじえて呟いた。

 ――……なんなの、どうして、こんな捉えどころのない人に……惹かれるの?

 困る!本当に困る。

 『これ以上心を通わせ合うのは危険だ』そういう勘がはたらく。

 それなのにアランは、人の気も知らないで。


「美香……」


 こんな風に優しくよびかけてくるから。


「はい」


 私は無視することができない。

 からめとられるように、返事をしてしまう。


「美香もわかりませんか…。私にも、今の自分がよくわかりません」

「……」


 なんなの、この問答!?

 

「ただ……美香が可愛くて仕方ないです」

「……!」


 ビクッと肩を揺らした私に、アランは困ったようにちょっと眉をよせた。

 だけど掴む手をもちかるだけではなしてはくれない。

 私の手のひらに載せたクリームに、私の左手の人差し指をそっとつかみなおして……指にクリームをのせた。


 ひんやりとした感触が人差し指を包む。


 アランは身を少しのりだすようにして近づいた。カタンとテーブルがなり、ランプが揺れて影もゆらめく。

 私の左手が伸ばされて、掴まれた指先が――……アランの唇に触れた。

 ひんやりとしていた私のクリームののった人差し指に、熱っぽい感触。

 ぬらぬらと唇の上を滑らされて、私の人差し指がアランのしっとりとした唇の上で踊る。

 

 アランの唇が艶めいて、私はアランから目が離せなくなった。

 唇に続く、すっととがった顎、そして均整のとれた首筋から肩のライン、男らしい喉仏があって――……ドキッとした。


 見つめ続けられなくなって視線を彷徨わせると、まるで引きこまれるように掴む手に力を込められた。

 咄嗟に目線をあげると、揺らめく明かりに照らされた青碧の双眸に射抜かれる。こちらをみる眼差しは、もう微笑んでおらず、ただ私の戸惑いも怖れも見透かすかのようにまっすぐと注がれた。


 

「嫌ですか?こうされるのは」


 アランの言葉に、私はまた肩を揺らした。

 答えられなかった。


「美香……ね、答えて?」

「……」

「あなたはいつも……はっきりとは拒絶しない。拒絶……できないんでしょう?この世界で、私を拒むことができないと思ってるから」


 アランの言葉にハッとして私はアランの瞳をもう一度見直す。

 

「その立場を私は利用しているのかもしれない。あなたにたくさんのことを強いているのかもしれない……その自覚はあります。解放してあげられるとも思わない……ただ」

「……」

「ただ、あなたが嫌がることを……無理強いしたいとも思ってない」


 こちらを見つめてくるアランの目は、私の心の中を見つめるように揺らぎがなかった。

 捉えられた獲物のように、私はもう動けない。

 

「いや、ですか?」


 もう一度、ゆっくりとたずねられた。

 私は、逃げられず、耳を閉ざすことができない。

 嫌、いや、イヤ……そう思いきって、振り切りたいのに。

 今なら戻れるから。


 惹かれて、信じて、頼って……そして、裏切ることにも、裏切られることになるくらいなら……最初から踏み入れたくない。


 耳を閉じて、目を閉じて、逃げ切って。

 何も感じないふりをして、ただ微笑んで、笑って、軽口を言って――……。

 辛辣な言葉も苦しい現実も、うっとりするような甘い睦言すらも、真剣にとらえず、ただ乗り越えるすべにするために……聞き流して今を乗り切りたい。


 このフレア王国にいるという今を乗り切って……いつか。

 いつか……日本に……。



「美香……」


 請われるように、名を呼ばれた。

 指先をからめるように、掴まれた。


「……美香」


 名に込められた、バラの香りを封じ込めたみたいに、甘くやわらかく、大切にささやかれる名前。

 

 ――……振り切りたいのに。

 ――……ここでの生活すべてを、いつか終わりがくる『限られたもの』として割り切って接してしまいたいのに。

 ――……心をここで開ききりたくないのに。


「美香、いや、ですか?」


 あたたかな言葉が、指先のぬくもりが、私の視界を包む……青碧の煌めいた双眸が。

 


 ――……今、私を、つなぎとめてしまった。



 私は力無く、首を横に振った。

 

「それは……?」


 私の仕草にアランは問いかける。

 ごまかしきれなくて……私は、つぐんでいた口をとうとう開いた。


「……いやじゃ、ないよ」


 私の視線とアランの視線が絡み合う。

 アランの双眸に熱っぽい輝きが増す。

 

「美香……私はあなたに無理強いしてるわけじゃないと…思って…いい?」


 アランが小さく呟く。それがどこか震えるように聞こえた。

 こんな逞しい手をして、熱っぽく攻めてきて私の心をこじ開けて浸食してくる強さがあるのに……どうして、こんなに心細そうに聞くんだろうと、頭の片隅で思う。

 そして、そのアンバランスさが……私の心を揺らす。

 揺らされて、惹きつけられて、逃れられなくなってゆく。


 ――……私は、アランのその震えるような問いかけに、こくんと頷いた。


 その頷きを見て、アランはさらに私を握る手に力を込めた。痛いくらいに掴まれているのに、そこが熱っぽくて溶けてゆくようだった。


 いつもどこかで、執事や侍女や使用人の気配を感じていた。

 昨日の夕暮れの丘で口づけられたときですら、どこかで馬車の御者が少し離れたところに存在することを感じていた。

 それが常にこころのどこかで私を冷静にさせてくれていたのに……いま、私はアランが流しこむ熱に翻弄されるように、のみこまれてゆく。

 自分の感じ取れる他人が、アランだけになって、私の全身の神経が目の前のたった一人の人に集中して、惹きつけられてゆくのを、もう止められない。


「美香……」


 名を呼ばれて、今まで何度も口づけられた指先を、また口づけられる。

 アランの唇は、しっとりとしていて艶やかでどうしようもなく、心がざわついた。

 いやじゃなくて、そのことが居心地悪くて、私はせめて視界だけでもさえぎりたくて目を瞑った。

 するとすぐさまアランが「その黒い瞳を見せて」とねだってくる。

 私が首を振ると、ちょっと笑いをにじませた声で

「目を閉じたままなら、口づけますよ」

と、囁く。私は驚いて、ぱっと目を開けた。

 するとすでにアランの長いまつげが迫ってきていて――……一瞬の間に私の唇にあたたかな感触が降りた。


「んっ」

 

 テーブル越しに触れた口づけは一瞬で、すっと離れていく。

 

「目、開けてもしたじゃない!」

 

 私が抗議の声をあげると、アランはふふっと笑った。

 そして、口を開いた。


「――……美香」


 呼びかけに視線で答える。

 もう、この声を聞かないふりはできそうになかった。

 

 ――……踏み込みたくなかったのに。


 心で最後、未練のように、悔いるように、つぶやく。



「そんな……泣きそうな顔をしないで」


 アランがそういって、私の頬に手を伸ばしてきた。

 

「――……どうか、もう一人で声を殺して泣かないで」


 そう言って私の頬をなでるアランの指先に、私は自分からそっと指先をからめた。

 どこまで寄りそえるかわからない不確かな存在と未来に……私は自分の手を添えたのだった。



9/5、6 誤字脱字訂正。


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