10 その味の名は。(ミカ)
ミカ視点です。
ノックの音で目が覚めた。
「ミカさま? 朝のお支度の時間です」
「う……ん、はぁい、今起きるよ」
マーリの声がして、伸びをしながら返事すると、マーリが入室してきた。
その途端。
「きゃぁっ! ミ、ミカさま、お目が!」
……え?
小さな悲鳴をあげたマーリが手鏡を渡してくれる。
見ると……見事に泣き腫らした眼をした私が、鏡の中にいた。
昨晩、アランと別れたあと、ベッドにこもり泣いたまま寝ちゃったせいだ。
……あまりに酷い顔。
まぶたがはれて黒眼がみえないくらいになっていたのだった。
****
はああ。なんで泣いちゃったんだろう。
用意してもらった氷で目を冷やしながら、私はためいきをついた。
昨晩は、頭の中がぐるぐるしていた。もう全部が嫌だった。
何も考えたくなくてベッドにもぐりこんだ。
……アラン、何か怒ってた。
……皇太子からの厄介払いされてきた押しつけ婚約者とはいえ、さすがに夜に散歩してるのははしたないと怒ったのか。
……品行方正、生粋の貴族、思春期からは厳しい規律の騎士団の叩き上げのアランだし、あまりのはしたなさに幻滅したとか。
……でも、館内から出たわけじゃないし、そこまで怒って……しかもあぁいうことするのって、どうなのっ……。
いろいろ悶々と思いながら、「キス」についてはできるだけ思い出さないようにして、でも悲しいのを抑えきれなくて……枕に顔を押し付けて泣いたまま……寝てしまってた。
そしたら、こんな顔が出来上がってたわけだ。
着替えや、顔を洗う水を持って渡してくれながら、マーリが気遣うように聞く。
「朝食はどちらで召しあがりますか? アラン様にお伝えして、この部屋にミカ様の分をお運びしましょうか?」
マーリの提案の中の「アラン様」の言葉に、胸が跳ね上がる。
ばっと昨夜の一件、アランの体温を思い出して、頬がカっとなった。
う、う……ん、どうしよう。
この泣き腫らしたとわかる目で会うのも、避けたかのように朝食を別にとるのも、どちらも気まずい。
もし私が腫れた目を気にして、朝食を一緒にとるのを避けたら……アランは昨晩の自分が私にしたことのせいで、私がアランを避けてるって思うだろう。
この腫れた目を見てもいろいろ思うのかもしれないけれど、泣いてたことはすでに昨晩気付いているだろうし。
いろいろ思うけど、気まずいままでいるのだけは、嫌だなって思う。
それは、この館に間借りしている立場として……。
この館以外をまだ知らない私は、結局アランを頼らざるをえないのに、避けとおすのも無理だろうし。
……ここは頑張りどころなのかもしれない。
そう!
明るく!
何事も気まずいことがないように!
……何も、なかったことのように……振舞えるかな。
私は濡らしたハンカチで目を押さえた。
……うん、頑張ろう。
「マーリ、私、いつものように食堂でアランと食べるよ。もうちょっと目を冷やすから、すこし遅れるとだけ、伝えておいて」
「いいのですか?」
こちらをうかがうように聞き返してくるマーリに、「いいの、いいの!」と元気に答えた。
キスとかあまりに唐突で、いろんな不安と共に昨晩は涙がでちゃったんだ、それだけだよって、自分に言い聞かせる。
くよくよしてるのは、このフレア国での私には、合わない。
――……現状打破。
だって、生きぬいていかないと、ね。
*****
冷やしたおかげで幾分か腫れがひき、見られる顔にはなった。
気合いをいれて食堂に向かう。
中に入ると、大きなテーブルにはすでにアランの姿があって、すでに食事が並べられていた。執事グールドがアランの脇に控え、マーリは私の斜め後ろで控えてくれている。
こちらに落ちてきてからの、「いつもの朝の風景」だ。
私はおなかにぎゅっと力を入れた。気合を入れて背筋を伸ばして、声をだす。
「アラン、おはようございます!」
アランが何かを言い出すまえに、私は膝をちょっとおり女性の挨拶の形式をしてから、アランに笑いかけた。
気まずいときは自分から切り出すに限る。後回しは、きっとだめだ。
だって、避けて逃げようとしたって、今の私に、いったいどこに逃げる先があるっていうんだろう。
ここしかないんだもの。
私が笑顔で元気に声をかけたからか、アランはすこし戸惑うような視線をこちらに向けた。
いつもの朝なら、それは優雅に「おはようございます、ミカ」と言ってくれるのに。
……そりゃ、あんなことしたんだからね。困った顔くらいしてもらわないと。
心の中でアランが戸惑ったように視線を迷わせたことに、ちょっとほっとしている自分がいた。ここでアランの方が何もなかったみたいな顔していたら、その方が都合はいいんだけど、きっと腹が立った。
少しくらい困ってよ。こちらは泣いて目を腫らすまで困ったんだから。
とはいえ、昨晩みたいにわけもわからず苛立った様子をぶつけられても嫌だな……。
複雑な気持ちはもちろん言葉にせず、私は微笑みを浮かべたまま、アランの様子を窺った。
そんな私を見つめていたアランは少しの間をおいてから、
「……おはよう、ございます、ミカ。……眠れましたか?」
と、いつもの穏やかな口調で聞いてきた。
その声音に、昨晩のような苛立ちは感じない。
もう怒ってないみたいだ。
というより、やっぱり、自分がしたこと……キスについては何かおもうところがあるのか、どこか遠慮がちな感じがする。
私はホッとしながら返事した。
さっき、何度も頭の中で用意して練習した言葉だ。
「眠れたよ」
「よかったです」
「うん、でも、眠れたけど……眠れるまで、すごく困ったんだからね!」
私の返事に、アランはちょっと眉根をよせた。
「……困った?」
予測していた通りのアランの反応に、私はちょっと安心して言葉をつづけた。
「そう、困ったの!」
「何を困ったんです?」
アランに、ニッと笑いかける。
私は心の中に勇気を奮いたたせて、息を吸う。
「だって、ファーストキスだったんだもの!」
古語がわかるマーリが、背後でビクッとしたのが伝わった。
アランの脇のグールドさんは、さすが表情をかえなかったんだけど、瞳が私の方に向いたようだ。
私の前でアランは……目を見開いた。
そうよ、驚いて。動揺してよ。
アランにとってたいしたことがないキスであっても……私には。
私にとっては初めてだったのだ。
アランにとっては怒りや苛立ちの結果の、意地悪に過ぎないものであったとしても。
私には……初めてで……。
でも、そういう悲しさは全部封じ込める。
同じキスを受け入れるにしても、このフレア王国の私は、そんなの平気なふりして、明るくするんだ。
そう思って、私は口を開いた。
「……次からは、もうちょっと場所と雰囲気を選んでください、婚約者さま。……そうじゃないと、照れちゃって寝つけなくて、私、困ってしまうんだよ?」
最後に微笑んで締めくくる。
困るのは本当。だけど、困ってる内容は全然違う。
照れて寝付けないんだったら、どんなにドキドキ幸せだっただろう……。でも、そういう夜じゃなかった。
だけど、それは秘密。……受け入れるしかないものがあるんだったら、気まずい関係はダメだもの。
言い終えた私は、アランの横を離れ自分の席についた。
ファーストキスって言葉も照れて寝付けないっていう小さなウソも、私にはなれない言葉で、心臓がバクバクいってる。
テーブル越しのアランは、ものすごく何か言いたそうな顔をしてるけど、無視して食事に視線を向けた。
さっき食堂に来る前に目を冷やしながら、必死に考えたのは、アランと気まずくならない方法だった。
もちろん、「昨日の態度はなんだったのか?」とか、「何か怒ってたの?」とかたずねたい気持ちはある。
もっと言えば、なんでキスしたのって、怒りたい……よ。
けれど、たとえば昨日のことを追及したとして。
『あなたがあまりに、はしたなくて品の無い行動をしていたからです』
と言われて、結局私が悪いことになって……それで今後どうしたらいいんだろう。
なんといってもアランは私の保護者のような立場だし、婚約者と言い渡されたくらいだから、今後もずっと顔を合わさないといけない相手。
ご機嫌をそこねた形をつづけるのは、私の立場も危ういってことじゃないのかって思う。
昨晩夕食では普通だったアランだから、私が夜に出歩いたのが気に障ったのに違いだないだろう。それなら、これから出歩きは控えるとして、あとはもう全部、そこにある真意も追及しないことに決めた。
「あいまい上等!」な日本文化炸裂な態度で今を乗り切ろうと私は決めたのだ。
アランの苛立ちの原因も、私の気持ちも……真実なんて、明るみに出なくていい。
それで、インパクトある発言として『ファーストキス』って言って、場を凍らせた。さらに、キスも受け入れているみたいな態度もした。
こちらを見つめつつも、何か言いたそうにしながらも口を開かないアランを前に、私は何かいいだされるまえに、さきに口をひらく。
「アラン、朝食はじめるの待っててくれたんだね? ありがとう」
「……いえ」
「そうそう、お願いがあるの」
私のことばに、アランはこちらをじっと見る。
私は、先ほどより練っていた「話題をかえるネタ」をふってみる。
「お願い?」
「あのね、レモン…っていっても分かりづらいと思うんだけど、このジュースに使ってるみたいな酸っぱい果物をね、5個くらい欲しいんだ」
私はグラスに注がれた、グレープフルーツよりも酸味のある柑橘のジュースを指さした。
「クオレ、ですか?」
「うん、この酸っぱい果実」
「もちろんいいですよ、マーリ、ミカにクオレを」
アランがマーリに声をかけると、一礼してマーリは厨房の方に出て行った。
話題が転換したタイミングを失わないように、私はすぐにアランに話しかけた。
いつものとおりに、全然気まずさが含まれないように細心の注意を払う。
「あ、この果物ってクオレっていうんだっけ。去年、こちらに落ちてきたときにもこのジュース飲んだ気がするけど、夏以降はお目にかからなかったなぁ」
「クオレは春から初夏にとれるのです」
「そうなんだ。レモンと収穫時期は違うんだなぁ。でも、このクオレは味もレモンに近いし、この酸味なら大丈夫だと思うんだ」
アランは私の言葉に首をかしげる。
「何が『大丈夫』なんです?」
「内緒だよ」
私がにんまりと笑ってそういうと、アランは少し首を横に傾けた。
ちょっと私は安心した。私とアランの間にある雰囲気が、気まずい感じではなくなってる。
ただ、いつものアランなら、私が「内緒」なんて言ったら、追及したりからかってくる気がしたけれど、今日の彼はそんなことしなかった。
「ないしょ、ですか」
とつぶやいただけ。
そのつぶやきに、私はドキッとする。
微笑んでいるのに、青碧のアランの瞳がちょっと寂しげに陰った気がしたから。
……どうして、そんな顔するの。昨日は苛立ったっと思ったら、キスしたり。今は寂しそうな顔したり……どうして。
そう思いかけたとき、ちょうどマーリがクオレという果物を籠にいれて持ってきた。
色はレモンのような黄色なんだけど、形は楕円ではなく丸い実で、なんとなくユズを思わせる。
「グラスに注いでいるジュースは、このクオレを絞ったものに蜜を混ぜているのです。これだけだとかなり酸味があります」
マーリは説明してくれる。
籠には五個以上…どっさりと入っている。
アランが、
「ひとつ、切って味をみてみますか?」
と促してくれたので頷くと、アランが籠から小型ナイフとクオレをとる。
アランは長い指先でクオレを支えながら二つに切り、さらに薄い輪切りにしてくれた。
切り口をみても、レモンティに浮かべるレモンって雰囲気だ。
マーリがさしだした小皿にのせ、アランはわざわざ立ち上がって私の方に持ってきてくれる。
私が受け取ると、アランは私の隣の誰もすわっていない椅子を引き、そこに腰かけた。
「どうぞ」
「ありがとう」
青碧のまなざしに見つめられ、私は自分の目のやりばにこまり、結局、小皿に向き直った。
「いただきます」と言って、その小さな輪切りをつまむ。
「んっ、酸っぱ…」
口に広がる酸味はまさにレモン。
うん、これならレモンのかわりとしてバラジャムに使えるはず……と頭の中で算段していると、
「味は、いかがですか?」
とアランの声がかかった。
「……甘酸っぱい」
「そうでしょう」
私の答えに、アランが微笑んだ。
キラキラと金髪が窓からの光を受けきらめき、碧い瞳はとても優しげで、アランの姿は私をまるで見守ってくれている天使のよう。
白いブラウスが窓からの風に少し揺らめいて、金の髪がふわりとなびく。
私はついついその姿に見入った。
さっきの寂しげなまなざしがなくなって、ただ穏やかにうれしそうな笑みを私に向けてくれているアランは、長い指を伸ばしクオレの輪切りをつまんだ。彼の手がつまむと、その輪切りが小さく見えた。
……あぁ、アランの手って私に比べてすごく大きいんだな。
当たり前のことに気付く。
つられるようにして、そのままその輪切りの行きつく先を目で追う。
クオレの輪切りは、アランの形の良い唇に運ばれ、すこし開いたそこに音もなく綺麗に吸いこまれた。
果汁でほんのり濡れた、唇。
その唇が動いて、
「本当ですね、酸っぱい」
と、言葉を鳴らした。
唇を追っていたはずの私の瞳が、いつのまにかアランの目に引き寄せられる。
碧い眼が、私を見つめている。
あぁ、アランの目って海の色だったんだ。
初めて気づいた。青い空のようだと思っていたのに、よく見ると、綺麗な綺麗な懐かしい海の色なんだ。
……小さな頃、まだ家族がそろっていたころに旅行した、どこか離島の海。
……「アオだけど、ミドリにもみえるねぇ、きれいねぇ」
……と言って隣の大きな父を見上げた。
……「あぁ、しあわせな色だなぁ」
……と答えてくれた、あの…。
あの、海の色。
……あ……
私の心がキュっと詰まったようになった。
なんだか、突然、泣きそうになって。
どうしてかわからなくて。
何かつぶやかなきゃ……と焦って、深く考えずに思いついたことを口にした。
「あ、あのレモンって……ああ、このクオレに似た果実で、そのレモンの味を私の元いた世界でね……」
「元の世界で、どうしたのですか?」
促されて、何気なく答えていた。
「初恋の味…って」
「……え?」
「あ、だから、この甘酸っぱい味が『初めての恋の味』っていう……」
そこまで言って、私も言葉を止めた。
あ……。
こちらのアランのちょっと驚いたような目とかち合って。
たったいま、自分が言葉にしたことの内容に気付く。
「初恋の味」なんて、言葉。
いっきに頬が火照てりだす。
「い、いや、なんでもなくってね! ただの戯言だからっ!」
いたたまれなくなって、うつむいた。
「……ミカ」
アランが呼んだ。
顔をあげたいのに、自分の顔がほてってるのがわかるから、顔を上げられない。
……見られたくない。
どうして、気まずくなりたくなくて、いっぱい言葉を並べたのに、初恋の味だなんて恥ずかしい言葉を自分から言っちゃってるんだろう。
自分の言葉選びの恥ずかしさにうつむく私に、すっと何かが伸ばされた。
……え?
戸惑った瞬間、アランの長い指が、私の唇の端をすっと軽くなぞった。そうして、また指は去っていく。
「?」
意味がわからず、顔をすこしあげてアランを窺うと、そこには、柔らかな日差しに金の髪を照らしたアランの、日だまりのような微笑みがあった。
「口の端に果汁がついてましたよ……子どもみたいに」
最後の言葉を言うときだけ、アランはニヤっとちょっと意地悪く口元をあげた。
強調される「子どもみたいに」のフレーズ。
……むっ!
「子供みたいって! 私、もうすぐ二十歳! 元の世界でも大人になる年齢!」
いつのまにか、私は反射的に言い返していた。
そんな私に、アランは目を細めて笑った。
「そうですね、おとな、ですね」
そう言ってクスクスと笑うから、何か言い返そうとしたところ、背後からグールドさんの言葉が響いた。
「失礼ながら……もうそろそろ朝食を始められたほうが? 給仕のものも、スープをお出しするタイミングに困っております」
「あ……」
振り返って、私は赤面した。
そんな私の横で、アランといえば、まったくうろたえることなく、
「そうだな、すまなかったね。運んでおくれ」
と言い、私の隣の席から立ち上がる。
そうして向かいの自分の席へと戻って行った。
私は離れていく背中を見上げた。
そこで初めて私は、日差しを浴びたアランの白のブラウスの映える背中が、とても大きくて広いことに気付いたのだった。
――……瞬間、なぜだか私の心にクオレの果汁の甘酸っぱさが広がった気がした。




