7
「そう。ずっと前にはぐれてしまった人を探してるの……」
肘置きに身体を委ねたカルレイナが囁いた。
その纏った薄生地がしどけなくはだけ、隙間から透き通るような肌色まで露わになっていることに気づいて、サリュは自分のことのような気恥ずかしさを覚えた。
砂地に生きる者は滅多に肌を晒さない。
それは慎み深い性格に拠るというよりは、もっと直接的な事由だった。昼間の日射、夜間の冷え込み。そうした時や場所と関わりなく全身を蝕んでくる砂の浸食に対するためにも、多くの人々は防砂具を巻き付けて日々を過ごす。異相の瞳を持つサリュなどは、その上からさらに大外套を目深に被って人目を避けることが常だった。東方の遊牧民にはそうした趣とまるで異なる風習を持つ人々がいるという話も聞いたことはあったが、目の前の相手とは関係がないように思われた。
「素敵ね。物語みたいだわ」
「物語?」
「ええ。詩人が甘色で歌い上げるような。……遠く離れた場所の貴女。貴女は今、なにを思っているでしょう。私はただ、ひたすらに貴女のことを思い続けています。こんな風に」
しっとりと奏でられた文句に込められた情感に、サリュは顔をしかめる。以前にも似たようなことを言われた覚えがあった。タニルの食堂で若い女性が、探し人のことを訊ねたサリュに対して漏らした感想。
サリュの表情を見たカルレイナがくすりと笑う。
「そんなことで羨ましがられても、あなたには迷惑よね。でも、そういうものよ。他人も、他人の不幸も。なんて、退屈を紛らわすために話を聞かせてもらおうとしている私に言えたことではないけれど」
それで、と首を傾げた。
「この町に、その探してる相手の行方を知っている男がいたのね。名前、なんて言ったかしら」
「……パデライです」
「パデライ。パデライね……」
舌の上で吟味するようにしてから、華奢な肩をすくめる。
「もしかしたら、私が会ったことのある相手かしらと思ったけれど。やっぱりそんな人のことは覚えてないわ。――誰か?」
ほとんど変わらない声量で彼女が呼ぶと、すぐに音もなく部屋の扉が開いて、黒地の布で顔を覆った女中が姿を見せた。
「パデライという人を知っている? この町の商人らしいのだけれど」
女中は眉をひそめて考えこみ、頭を振った。
「申し訳ありません。わたしには覚えがありませんが……」
「そう。なら、他の人にも聞いてみてちょうだい」
「かしこまりました」
「すぐにお願いね」
女中は深く頭を下げて退出する。サリュが女中の消えた扉を見つめていると、不思議そうにカルレイナが訊ねてきた。
「どうかしたの?」
「声が届くところには、誰かが控えているんですね」
これでは会話は全て筒抜けだと思っておいたほうがいい。それを聞いた女中達から領主に報告が上がることを考えれば、口にする内容には気をつけるべきだった。
ああ、とカルレイナは頷く。
「そういう心配ならいらないわ。大丈夫。この部屋での会話はこの部屋だけのもの。それがどんな――例えば、この館の主人に対するひどい中傷でも、それが他に伝わることなんてないわ。そういうことになってるの」
女性の言い回しにはどこか他人事のような響きがあって、サリュは眉をひそめた。
「……信用、しているんですね」
「信用?」
不思議そうにカルレイナは睫毛を瞬かせる。そして、やんわりと微笑んだ。
「そうではないわ。これは、そういうものとはまるで関わりのないお話よ。ただ、そうであるというだけ」
――この違和感は、いったいなんだろう。
目の前の女性と会話をする度に覚える奇妙なずれ。サリュは正体の曖昧な感覚に戸惑った。不快感ではないが、それにも近い。はっきりとしていることは、この妖艶な美女が全身から発する得体の知れない気配が、どうしてかひどく警戒心に障るということだった。そっと腕をさすると僅かに粟立っている。
隣では、クアルが大きな瞳をじっと女性に注視して動かない。心持ち低めの姿勢だった。獲物に飛び掛かろうとするそれではないが、油断のならない何事かを感じているようではある。
「それで? そのパデライという人から話を聞こうとしていたところで、クァガイの商館で意識を失って――気づいたら、この屋敷にいたというわけね」
カルレイナが息を吐いた。
「クァガイのことなら知ってるわ。この河川沿いではそれなりに有名な商会のはずよね」
「はい。リスールでクァガイの人達と知り合う機会があって。彼らの紹介で、この町にパデライさんを訪ねに来たんです」
必要以上の簡潔さを心掛けながら、サリュは説明を試みた。道中であった様々な出来事について端折るだけでなく、クライストフ家やそれに関わる人々のことも伏せているのは、目の前の女性をどこまで信用できるか不透明だったからだが、他の理由もある。メッチから受けた忠告が頭に残っていた。
「クァガイに手を回したのは、間違いなくあの男でしょうね。いかがわしい薬を使って攫うだなんて、本当、卑怯なことしか出来ない男」
「……この町の領主が、どうして私をこの館に連れ込んだりしたんでしょう。なにか思い当たることはありませんか?」
慎重に相手の表情の変化を探りながら、サリュは訊ねた。
カルレイナは首を傾げる。
「どうかしら。さっき言ったとおり、てっきり私を楽しませようとして連れてこられたのだとばかり思っていたの。風変わりな旅芸人とか、吟遊詩人の類を招くことなら今までにもよくあったから。でも、今回はそういうのとは違うわよね。招くだけなら薬なんて使う必要なんてないわけだし。……ああ、でも町のなかを砂虎が闊歩していると危ないから、なんて理由なら、一応はそれらしくなってしまうのかもしれないわ」
手入れの行き届いた漆黒の毛先を弄びながら、女性は独り言のように続けた。宙に視線を飛ばしてそこに自身の思考を綴るようにしながら、
「考えられるのは、そのパデライという男が余程、アズバドルにとって不味い秘密でも握っているとかかしらね」
「アズバドル?」
「あなたも会ったでしょ? ここで偉そうにしている、太った男のこと」
女性は肩をすくめてみせた。
「でも、それだっておかしな話だわ。もしもそんな大層な秘密を抱えている相手なら、さっさと殺してしまえばいいのだから。秘密を握っている相手が大商会の番頭とかならともかく、個人で商っている程度の相手なら、口を封じる方法なんていくらでもあるはずよ。あんな見た目でも河川町を治める領主だもの。それくらいの権力は持ってるわ」
「……私もそう思います」
サリュは静かに同意する。
なるほど、と女性が口元を綻ばせた。
「あなたもそれを心配しているのね。もしもアズバドルがパデライって男を抑えてるなら、あなたが下手な動きをしたら殺されてしまいかねない。それで、大人しく捕まってみせているわけ。逃げようとすればいつでも逃げられるわよね。その猫ちゃんが一緒なんだもの」
サリュは沈黙で応えた。
からかうような眼差しになって、カルレイナが口を開く。
「でも、とっくに殺されているかもしれないわよ」
「かもしれません。けど、そうじゃないかもしれません」
「そう思える根拠はあるの?」
訊ねた女性の瞳が笑んだ。
「もしかして、まだわたしに話してもらっていないことがあるのかしら」
「……あります」
「正直ね」
カルレイナは軽やかに笑う。
「そう。そうよね。いきなり自分の手札をぜんぶ開いてみせる必要なんかないもの。いいわ、私もそっちの方が面白いと思うから」
相手が見せる屈託のない表情に無邪気なだけではない透過した異物の存在を疑ってしまうのは、自分が警戒しすぎているだけなのだろうか。訝りながら、サリュは息を吐いた。いずれにしても、先に進むためには一歩を進まなければならない。
「――この屋敷のどこかに、パデライが匿われている可能性はあると思いますか?」
「あるんじゃないかしら。少なくとも、誰かを匿う場所ならいくらでもあるわね。馬鹿みたいに広い屋敷だもの」
答えてから、女性はくすりと笑む。
「聞き方はそれでいいのかしら?」
サリュは渋面をつくった。聞き返す。
「……パデライさんがここに匿われているかどうか、わかりますか」
「調べることは出来るわ」
あっさりとカルレイナは頷いた。
「今、パデライという商人を知っている相手がいないか聞いてまわってもらっているから。もしもこの屋敷のどこかにいるなら、それもわかるでしょう」
「もし彼がいたら、教えてもらえませんか」
「そうね……」
細長い人差し指を唇にあてて思案するようにしたカルレイナが、にこりと微笑んだ。
「わかったわ。教えてあげる」
「ありがとうございます」
「でも、ちょっと待って」
「なんでしょうか」
無償で情報が得られるとは思っていない。贅を尽くして日々を過ごしているだろう女性が、多少の金銭で満足してくれるとも思えなかった。どんな対価を突きつけられるか、サリュは身構えたが、女性から告げられた言葉に眉をひそめた。
「よかったら、ちょっとしたお遊びをしましょうよ」
「お遊び?」
「そう。ただ、聞いて、答えて、じゃつまらないもの。それに一回だけで終わってしまうなんて寂しいわ。私とあなたは明日もまた、ここで話しましょう。その時には、パデライという男がここにいるかどうかわかっていると思うわ。そこで、お互いに、相手に質問を一つずつするの。――ただし、自分が本当に知りたいことではなくて、二番目に知りたいことについて」
「……どういうことですか?」
「だから、遊びよ。一番知りたいことは聞けないけど、それ以外はなんでも答えなきゃいけないの」
「意味がわかりません」
サリュは頭を振った。
「それじゃ、パデライさんのことについて聞けません」
「そうかしら?」
カルレイナが妖艶に笑った。
「あなたにとって一番に知りたいことはそれ? 本当は、もっと他に聞きたいことがあるんじゃなくて?」
サリュは黙って相手を見つめる。女性の言葉が意味するところを考えて、厳しい眼差しで相手を睨みつけた。
「いやだ。そんな顔しないで」
「……そんな遊びは、始めからルールが機能しません」
「あら、どうして?」
「嘘をつけば済むことですから。本当に聞きたいことを、二番目に知りたいことだと言って聞けばいい」
「そうね。人の心の中は見えないものね。悲しいけれど、そういうことだってあるでしょう」
でも、と女性は続けた。
「だからこそ、面白いんじゃないかしら? 人は本心を隠す生き物だし、自分で自分の本音に気づいていないことだってあるわ。それも含めて――だから、“お遊び”よ。ああ、もちろん嘘を答えたりするのは駄目。お互い、そこだけははっきりしておかないとね」
「意味がわかりません」
苛立ちを含めて、サリュは繰り返した。
「そんなことをやって、なんになるんですか」
「言ったじゃない。私、退屈なのよ。それにあなたのことを気に入ったから、長くお話がしたいの。それだけじゃ、理由が足りない?」
覗き込むようにして囁かれ、いつのまにか女性の顔がひどく近い距離にあることに気づいて、サリュは慌てて相手から顔を離した。絡みつくような甘い香りが残る。
口元に手をあててくすくすと笑ったカルレイナが、
「そんなに警戒しないで欲しいわ。本当に、話したいだけなんだから。私、あなたのことをもっと知りたいの」
「何故です」
「だって。とっても可愛いもの」
ますます警戒を強めて、サリュは隣のクアルに身を寄せた。気配を察したクアルがのそりと立ち上がる。それに対して怯えようともせず、カルレイナは笑む。
「もちろん、あなたも可愛いわよ?」
手を差し伸ばす。
それを避けるように、クアルが飛び退いた。砂地の猛獣がそうした動作を見せることは極めて珍しい。サリュはクアルを隠すように自分の背中に庇った。
「どう? もちろん、無理には誘わないけれど。でも、やっていることは変わらないわよ? ただ、そういう遊びだってことを前提に、さっきまでの会話を続けましょうってだけ。なにも問題ないと思わない?」
……確かにそうだ。サリュは考えた。
女性の言う通り、行為そのものは変わらない。相手に自分の本心を隠して、知りたいことを迂遠に聞き出すだけ。異なるのは一点、“一番聞きたいことを聞けない”という制約がかかること。それを互いに共通の認識とすることだけだった。
それが果たしてどのような影響を与えるのか、わからない。わからないからこそ不気味だった。ここに至って、サリュははっきりと相手へ抱く感情の正体を自覚した。――この女性が、怖い。
「なんなら、少し試してみましょうか。パデライって相手のことは、明日にならないとわからないけれど……それ以外に聞いてみたいことだってあるでしょう? その二番目に聞きたいことを言ってみて? なんでも答えてあげる」
カルレイナが言った。
サリュは口を閉ざしたまま、相手の表情を見つめた。肯定にしろ、否定にしろ、なにか口を開くだけで物事が不利な方に流れそうな予感があった。
沈黙を貫くサリュに困ったような吐息を漏らして、カルレイナが首を傾げた。
「それじゃあ、私から聞いてみてもいいかしら?」
可も不可もない。女性の艶めかしい唇が言葉を紡ぐのを止める手段もなかった。一瞬、その場から逃げ出そうかという考えさえ頭に浮かんで、それをサリュが実行する前に、部屋の扉が小さく叩かれた。
「なあに?」
現れたのは先程の女中だった。眉をしかめた視線がサリュを撫でてから、
「お客様のお連れが戻られましたので、ご報告にあがりました」
「ここに連れてきていいわ」
「それが……至急にそちらの方と話したいことがあると。いかがいたしましょう」
「あら、そうなの」
つまらなそうにカルレイナが肩をすくめた。にこりとサリュに微笑んで、
「残念。まだまだ話し足りないくらいだけれど――続きは、また今度にしましょう?」
サリュは黙って立ち上がった。頭を下げ、部屋の扉へと足を向ける。背中に声がかかった。
「また明日ね。――サリュ」
振り返らずに部屋を出る。
何人もの女中達が控えている間を通り過ぎながら、サリュは薄く息を吐いた。背中にぞくりとした心地が残っている。――昨日の毒がまだ残っているのだろうか。そう考えるのが気休めでしかないことは、自分でもよくわかっていた。
宛がわれた部屋に戻ると、ユルヴがいた。なにやら深刻な顔をしたメッチも一緒だった。
「どうしたの?」
訊ねると、メッチはますます顔をしかめる。ユルヴが答えた。
「クァガイに行ってきた」
「クァガイに?」
まさか、とサリュは眉をひそめて、
「手荒なことをしたんじゃ……」
「安心しろ。大したことはしていない」
サリュは黙ってメッチの顔を見て、その苦み走った表情から十分な答えを得た。ため息をつく。
「……なにかわかった?」
「ああ。色々とな。それで、お前にもすぐ話すべきだと思ったから連れてきた」
「重要なこと?」
「多分な。わたしにはよくわからん。だが、こいつはその話を知ってから、ずっとこうだ」
見るからに重苦しい雰囲気を纏って項垂れているメッチに視線を移して、サリュは訊ねた。
「メッチ、なにがあったの?」
若い商人は苦悶に満ちた表情で、
「……師匠が、この町でなんの商売をやってたかわかったんだ」
「ええ」
「それがまあ、ちょっと問題があるネタでさ」
「それは、なに?」
焦れながら先を促す。
メッチは憂鬱そうにサリュを見つめ、それから深い息を吐いて、言った。
「――塩だよ」