6
◇
その部屋には、まるで透明な帳が下ろされているようだった。
目の前にある硝子机には瑞々しい果実が山と盛られ、そのどれもがすぐに口にできるよう半分だけ綺麗に皮を剥かれている。その隣に置かれた浅い水皿には色とりどりの花弁が散らされていた。そこから立ち昇る香りが充満しているかのように、うっすらとした香気に満ちている。周囲を取り囲む調度品の数々はほとんどこちらを圧迫する気配さえあって、決して狭くないはずの部屋のなかでサリュは奇妙な息苦しさを覚えた。
彼女が感じる居心地の悪さは、明らかに砂海を旅していてはありえないその贅沢さに要因があったが、これまでにもそうした経験がまったくなかったわけではない。リトと訪れ、そして生き別れた場所であるトマス。そこで彼女がしばらく身を寄せていたアルスタ家の屋敷も、帝国貴族の上流として十分な水準にあった。清潔な敷布に、柔らかな絹生地で織られた衣服。そこで働く人々は誰もが親切で、花壇には見たこともないような色彩の花々が世話されていた。それまで寂れた集落で砂と風に塗れるように生きてきたサリュにとって、そうしたすべてが天上人の生活と言ってよかった。
短い間にトマスで経験したそれらと、今、目の前にあって自分が覚えている感覚の違いがサリュにはわからなかった。もとより家具や調度品の細かな差異などわかりようがないが、彼女が感じているものはそうしたことではなく、もっと曖昧で全体的なものだった。目に見えないが、確実に存在する違和感。透明な帳。
少し前にそれと似たような体感があることを思い出し、サリュはしばらく考えてからその詳細に思い至った。イスム・ク。黄金の在る村として、長らく水源を秘匿し続けてきた集落の地下にあった洞窟。周囲が枯渇する状況にあってもそこだけが湧き続けるその水場の根源と思われる広い地下空間で感じたものと、それはひどく似通っていた。
「砂が、」
呟きかけた言葉を呑み、胸の裡で続ける。
――砂の気配がない。
視界を黄土の一面が染めるこの地において、それは異常なことだった。
砂の気配が極端に薄いという場所なら存在する。たとえばそれはトマスという街だった。巨大な湖に浮かび上がるその商業都市は周囲を石と水に囲まれ、内縁部に向かうほどに砂の気配は薄れていった。大貴族や大商人の屋敷が立ち並ぶ中央部分ではほとんど砂が舞うこともない。屋敷から見上げる空は青く、静かだった。だが、そこに砂は決して皆無ではない。
この部屋にあるものは違った。まるで外界と隔絶しようとしているかのように、徹底して砂が排されている。
サリュはこの部屋に辿り着くまでに数度の扉をくぐらされたことを思い出した。どの部屋にも何人もの女中が控えていて、そこで念入りに全身の砂と塵を落とされた。風呂に入ったばかりとはいえ、そこから一歩でも外に出れば砂には触れる。一緒にいるクアルまで毛並みを梳かれようとしたが、一唸りをすると女性達は悲鳴を上げて近寄らなくなってしまった。すっかり怯えてしまい、結局はサリュが櫛を借りてクアルの砂を落としたが、何度も同じことをされるものだからクアルはすっかり不機嫌になってしまっている。
あまりのしつこさに、サリュも途中で宛がわれた部屋に引き返すことを考えたが、そういうわけにもいかなかった。水風呂場で会った女性から、自分の部屋に遊びに来るように誘われていたからだった。特に断る理由もなく、情報収集の機会を求めてサリュはそれに応じたのだが、その時はまさかこれほどの手間が待っているとは思ってもいなかった。
サリュを呼んだその人物は、部屋の中央で絨毛の敷布に腰を下ろしている。肘置きにしなだれるような恰好で、表情には笑みが浮かんでいた。まだ乾ききっていない黒髪の毛先をいじくりながら、ふと呟きを漏らしたサリュを見て妖艶に微笑する。
「埃っぽいのがね。嫌いなの」
どこか気怠げな雰囲気を全身に纏った女性は目を瞠る程の美貌の持ち主で、カルレイナと名乗った。
領主の屋敷でいかにも主人然とした振る舞いをしているので、領主の身内かと思われたが、周囲の態度を見る限りそれだけの存在ではないのかもしれなかった。浴場からこの部屋に至るまで、目の前の女性に接した女中達は決してその目をあわそうとしなかった。まるで、この女性を恐れているかのように。
その理由はわからないが、一端だけでも理解できるようにサリュには思えた。目の前の女性にはどこか直視できない雰囲気があった。常人離れした美しさだが、その容色を象る成分には見る者の胸を掻き立てるなにかが含まれている。
「あなたと、あなたの可愛い猫ちゃんのお名前を聞いてもいいかしら?」
毛先を弄ぶのに退屈したように、顔をあげたカルレイナが訊ねた。
「……サリュです。この子は、クアル」
「サリュとクアルね。どちらも可愛い名前」
相手の微笑に、サリュは頬が熱くなるのを感じた。子どものようでいて、同時にひどく大人びた笑み。サリュが生まれて初めて見る類の笑顔だった。
くすくすとカルレイナが手をあてて笑う。
「なぁに、照れてるの? ほんとに可愛いのね。――そっちの猫ちゃんも」
クアルに向かって恐れもせずに手を伸ばしてみせる女性に、サリュは不思議に思って訊ねた。
「怖く、ないんですか」
「どうして? だってこんなに可愛いじゃない」
女性の細い指先を眼前に差し出されたクアルがサリュを見る。砂海の王者である砂虎が戸惑っていた。クアルを初めて見た時には、あのユルヴでさえ恐怖に表情が引きつっていたことを思い出しながら、サリュは口を開きかけたが、
「――ねえ、この子はどれだけの値段で私に譲ってくれるのかしら」
という言葉を聞いた瞬間、目の前の相手に抱きかけていた好意とともにその口を閉ざした。厳しい眼差しを向ける。ああ、とカルレイナが頷いた。
「ごめんなさい。違ったのね。てっきり、あの男が私のご機嫌とりに呼んだ相手なのかと思ったものだから」
「あの男というのは、この町の領主のことですか」
「そう。もう会ったかしら。ひどい外見だったでしょう? 生まれついてのことなんて仕方ないけれど、肉付きまでだらしないのは自分のせいよね。昔はもう少しまともな見た目だったような気がしたけれど。まあ、どうでもいいことね」
表情にははっきりとした侮蔑が浮かんでいる。
「貴女は、ここの領主の妻。なんでしょうか」
相手の態度に戸惑いながらサリュが訊ねると、女性は大きく目を見開いてみせた。
「冗談でしょう。私があんな男のモノになるはずないじゃない」
「でも、貴女はとても、……偉そうです」
カルレイナが軽やかに笑った。
「面白いわね、あなた。私は偉くもなんともないわ。ただの女。この町を治めている領主に囲われているだけのね」
「捕まって、いるんですか?」
「さあ、どうかしら。そうとも言えるかもしれないけれど、でも私が外に出たいって言ったら、あの男はすぐにそれを叶えてくれるんじゃないかしら。だから、やっぱり捕まっているというのは違うわね」
サリュは頭を振った。
「貴女の立場が私にはよくわかりません」
「――あなた、男と寝た経験はある?」
唐突な質問に、サリュは今度こそ顔中が真っ赤になるのを感じた。それを見たカルレイナが目を丸くして、それから可笑しそうに肩を揺らす。
「いやだ。そんなに赤くならないで。――そう、それならわかるんじゃないかしら。男と女って、色々とあるわよね」
「あの男の人が、貴女を手に入れようとしたんですね」
机の上に置かれた果実の一つに手を伸ばしながら、肩をすくめた。
「そういうことね。まあ、贅沢をさせてくれるって言うし、他に行くところもないから、この屋敷にいてあげているのだけれど」
「でも、貴女はさっき、自分は領主のモノじゃないって言いました」
「そうよ? あんな男のモノになる気なんてないわ」
女性の言っていることが分からない。サリュは渋面になって息を吐いた。
「やっぱり、よくわかりません」
「別にわかる必要なんてないのよ。要は、私が自分の意志でここにいるってだけのことだもの」
「他に行くところがないから、ですか?」
「そう。ただ、ここってとっても退屈なのよね。だから、あなたみたいなお客様が来てくれるのは本当に嬉しいの」
小さな赤い果実を頬張り、にっこりと微笑んでみせる。
サリュは冷静に答えた。
「私は、貴女のためにここにいるわけじゃありません」
「もちろん、そんなことはわかってるわよ。けれど、なにか目的があってこの場所にいることは違わないでしょう? 私ならなにか手伝えるかもしれないじゃない?」
サリュは異相の目を細める。
「貴女が私に協力する理由があるんですか」
「さっき言ったじゃない。私、とっても退屈しているの」
サリュは黙って相手を見つめた。
目の前の相手が嘘をついているようには思えなかった。だからといって信頼できるわけでもない。女性が醸し出す怪しげな雰囲気に、サリュは警戒を緩めなかった。
しかし、これはありがたい申し出でもある。カルレイナが領主に対して優位な立場にいるのなら、その彼女が協力してくれれば色々と動きやすくなる。ここの領主がなにかを企んでいることは間違いないのだから。
「……長い話になります。それに、友人が向こうの部屋に戻ってくるかもしれません」
「かまわないわ。それなら、お友達が戻ってから改めて来てもらえればいいもの。そうね、よかったら今夜、ここで一緒にご飯をどうかしら。そこでなら、どれだけ長いお話になっても問題ないでしょう? 私も、外の世界の色々なことが聞きたいし」
「わかりました」
サリュが頷くと、カルレイナは嬉しそうに手を合わせた。微笑んでみせる。
「よかった。楽しみにしているわ。ああ、本当に楽しみ」
その華やかな表情はどこまでも澄んでいて、無垢な少女のようだった。
一旦、自分の部屋に戻ってサリュはユルヴの帰りを待った。
無音のままに砂が流れ、陽が傾く。赤色に差し込む光が弱まり、一日が輝きを失っていくのを見届けてもまだ友人が戻らないことに、サリュは不安を覚えた。
なにかあったのだろうか。
ユルヴの腕は信用している。自分などよりよほどしっかりしていることも重々承知はしていたが、その果断さに不安を覚えることがあるのも確かだった。
――無茶をしていなければいいけれど。そう祈るように思っているところに、部屋の外から扉を叩かれる。顔を隠すように頭布を被った女性が現れて、伏し目がちに用件を告げた。
「奥方様がお待ちです」
少なくとも、家の者達からはあの女性が妻という立場になっているらしいことを確認しながら、サリュはちらと窓の外を見やり、立ち上がった。
「わかりました。すぐに行きます」
クアルを連れてカルレイナの部屋に向かう。すでに話は通っているらしく、部屋の外に立つ兵士がなにか言ってくることはなかった。長い廊下を歩き、幾重の扉をくぐって、その度に砂を落とされることに辟易しながらようやく辿りついた部屋のなかでは、すでに晩餐の用意が整えられていた。
肉に野菜、米にパンなど一目で贅を尽くされたとわかる大皿が床中に並べられている。その中央で、食彩に取り囲まれるようにした女性が不思議そうに訊ねた。
「あら、お友達は一緒じゃないの?」
「まだ帰って来ていないんです」
「そう。それは心配ね……」
カルレイナがちらと視線を女中の一人に向けた。
「この子の知り合いが戻ったら、すぐにこの部屋に連れてきて。まさか、酷いことなんてしてないわよね」
「滅相もありません。お帰りになられたら、すぐにお知らせします」
「お願いね。他の人達にも伝えておいてもらえるかしら。くれぐれも、私のお客だということを忘れないように」
「かしこまりました」
恐縮した態で頭を下げ、女中が部屋を去る。
サリュの視線に気づいたカルレイナが小首を傾げてみせた。
「どうかした?」
「……貴女は、とても大事にされているんですね」
「そうね。それについては否定しないわ」
カルレイナは肩をすくめてみせた。
「せっかく手に入れたものだから、大切にしまっておきたいのね。本当、男って馬鹿な生き物だと思うわ。あなたもそう思わない?」
同意も否定もサリュはしなかった。あの領主に対しては決していい感情を抱いてはいないが、これだけの贅沢をさせてくれている相手に対してその言い様はあまり気分のよいものではなかった。
「私には、そういうことはよくわかりませんから」
「あら、でも誰かと寝たことはあるんでしょう? 私は経験がないから、そういう話も聞きたいわ」
サリュはぎょっとして相手を見た。
カルレイナが軽やかに笑う。
「そんなに意外? 本当よ。今まで近寄って来る男はたくさんいたけれど、でも何故か誰も私を手折ろうとはしなかった。ここの領主もそう。女一人、こんなにも金をかけて囲っておいて、いざ触れようとする意気地がないんだもの。情けないわよね」
そっと息を吐く。
「――いっそ、手折るついでに殺してでもくれたのなら、これ以上つまらない毎日を生きなくてすむのに」
遠くを見るように囁いた表情に、少し前に砂海で見た女性の姿が重なって見えて、サリュは目を見開いた。あるいはそれは彼女が探し求めている男性の面影のようにも思えて、じっと凝視する。それに気づいたカルレイナが振り返った。
「なぁに? どうかしたかしら」
「……いえ」
やはりそれは錯覚だった。少なくとも、今、目の前の女性の眼差しの奥には、どこまでも広がる砂の大海は見えない。澄んだようで濁った、あの目でもない。
むしろ、サリュが女性の切れ長の瞳に見たものはそれとはまったく異なるものだった。透徹した水のような気配。だが、まったく違うはずなのに似たような雰囲気を感じさせることが不気味だった。
そこでサリュは初めて気づいた。
砂の気配がない奇妙な部屋。だが、そのなかでもっとも砂の気配を感じられないのは、なにより目の前の女性そのものであることに。
浮世離れした気配を伴った女性が微笑んだ。万人を虜にするような妖しげな表情で、
「さあ、食事にしましょう。それから、あなたのお話を聞かせてちょうだい。大丈夫、夜は長いんだもの」
うっとりと目を細める。
なにか本能的な危険を感じてサリュは身体を強張らせた。自分が蜘蛛の巣に捉えられたかのような、そんな悪寒がしたのだった。