3
◆
その日の目覚めはひどい気怠さと共にあった。
鉛を飲んだような重みの残る頭を持ち上げ、ぼんやりとサリュが視界を巡らせると、すぐそこに部族の少女が腰を下ろしていた。胡坐をかいてなにかを考え込み、ふとこちらの気配に気づいて上げた顔は、防砂衣を外して黒髪が露わになっている。
「起きたか」
「……おはよう。ユルヴ、今は、」
「もうすぐ昼だ。よく寝たな。――場所の説明も必要か?」
言われて、眠る前の記憶を思い出す。はっとした。
「クアル……!」
大柄な獣の姿を求めて立ち上がりかけたところに横からべろりと舌に舐め上げられ、サリュは悲鳴を上げかけた。大きな砂虎の顔を見て、息を吐く。
「クアル。――よかった」
「嫌な夢でも見たか」
黙って頭を振る。記憶が錯乱していたのだった。クアルが何者かに浚われたのではないかと思ったが、実際には間抜けをしたのは自分だった。クアルはそんな自分を見捨てず、護ってくれていたのだ。
「万全の体調、というわけではないらしいな。無理もない。なにか怪しげな薬を使われたようだからな。食欲はあるか」
手入れを中断したユルヴが立ち上がった。果実が盛られた長卓に向かう。
「あんまり、ない……」
「食べろ。まだ身体のなかに毒が残っているなら、無理やりにでも外に出すことが先決だ。ほとんど流れてはいるようだがな」
言われて、サリュは自分がひどく寝汗をかいていることに気づいた。大気の触れにひやりと身体を震わせる。心配するようにクアルが頬を擦らせてきたが、ユルヴの言う通り、この汗に毒素が含まれているというならそれをクアルの毛につけるわけにはいかないと思い、サリュは心優しい砂虎の鼻面を遠のけた。不満そうな顎先を優しく撫でる。
「ほら、使え」
乾いた布を投げられ、サリュは小さな声で感謝を呟きつつ、全身を拭った。汗を吸った肌着が気持ち悪い。顔をしかめていると、ユルヴが言った。
「風呂に入った方がよさそうだな。ついでだ、服も洗ってこい」
「でも、そんなこと」
許されないだろう、とサリュが口にする前に、ユルヴはさっさと扉に近づいて、ごんごんと乱暴に叩いている。少しして扉が開くと、恐る恐るといった様子の男が顔を見せた。表情は恐怖に怯え、頬が腫れ上がっている。それをやったのが誰かは考えるまでもなさそうだった。
「サリュが風呂に入る。すぐに用意させろ」
「ま、待て。そんな急に言われても――」
「早くしろ」
相手の返答を聞かず、扉を叩き閉める。あまりに強気な態度に、サリュでさえ唖然とした。振り返ったユルヴが平然と、
「なんだ。女を浚うような連中だぞ。あのくらい言ってやって当然だ。射かけなかっただけでも随分と我慢している」
「私が寝ている間、なにかあった?」
ユルヴは昨晩、この部屋に侵入してきたばかりのはずだった。ユルヴの存在が外の男達に認識されているのは、それ以降なにかの話し合いが行われたからなのだろう。話し合いだけで済んだとも思えない。
「わたしがここに居座ることについて説明しておいただけだ」
「説明?」
「説明だ。極めて理性的なやりとりだった。わたしも大人になったものだ」
ユルヴは嘯いたが、先程の一幕を見る限り、とても言葉通りには受け取れなかった。サリュは遊牧民の少女の傍らに置かれた皮矢筒の、その矢数の本数を数えてみようとするが、それが昨晩より減っているかどうかまでは覚えていなかった。
ユルヴに同意するように、ぐわう、とクアルが吠える。堂々と胸を張る二人の表情がどこか似通っていることに、サリュは思わずくすりとした。
「ありがとう」
礼を言うと、ふん、とそっぽを向いてしまう。頬がわずかに赤らんでいた。
「それより、風呂の前になにか食べておけよ。空腹でのぼせて、なかで倒れても知らないぞ」
「ユルヴは入らないの?」
「なんで十五にもなって誰かと一緒に風呂に入らなければならないんだ!」
憤慨したように言うが、部族の風習に疎いサリュは相手が怒る理由がわからなかった。ため息をついたユルヴが、
「わたしは外に出てくる。メッチが心配しているだろうしな。あんなのでも、一応は無事を伝えておいた方がいいだろう」
「あ、そうね。ラディさんにも。それに、」
――ヨウ、という名前を口にしかけて躊躇う。あの怜悧な眼差しをした男が味方とは限らない。サリュの内心を測ったように、ユルヴが鼻を鳴らした。卓上の果物を掴み、懐から取り出した小刀でその皮を剥き始めながら、
「ヨウか。こっちからなにか伝えてやる義理はないが、向こうから接触してくるかもな。パデライとかいう商人のこともある」
「……気をつけてね」
「誰に言っている」
部族の牙巫女にして次代の族長でもある少女は、小柄な体躯に自信と自負を漲らせている。サリュは頷いて、
「わかってる。でも、気をつけて」
「お前もな。まあ、クアルがいるから大丈夫だろうが。メッチの奴が十人いるより、クアルだけのほうがよほど信用できる」
事あるごとにその名前が出される相手のことを、ユルヴは嫌ってなどいないのだろう。くすくすと笑みを噛み殺していると、ぎろりとした半眼に睨まれた。
「なんだ」
「なんでもない」
「ふん」
ユルヴが立ち上がった。手に持ったものを放り投げてくる。反射的にそれを受け取って、サリュは手の中のものを見下ろした。果実だった。白い果肉が露わになっているが、小刀で歪に削り取られた形がひどく不格好だった。
隣からそれを見たクアルが、なにかを哀れむように小さく声を漏らした。
「なんだ、クアル。言いたいことがあるなら言ってみろ」
険のある声で言うユルヴに、クアルは素知らぬ顔で欠伸を打っている。そんな二人の様子を好ましく思いながら、サリュは渡された果実を頬張った。たちまち濃い甘味が口のなかに広がる。
――私は恵まれている。
自分の境遇を思って、改めてそのことを痛感するサリュだった。ユルヴやメッチ。その他たくさんの人に助けられて、今の自分はある。私を拾い、送り出してくれたアルスタ家の人々。クリスティナさん。そして、
最後の、そして自分にとってもっとも大切な相手を脳裏に思い浮かべたその瞬間、背中にぞくりとした悪寒を覚えた。
乾いた気配。
その瞳の奥に砂色を映し込んだ眼差しが頭に浮かんだ。
男はなにも言わず、黙って背中を向けると一人で歩き去ってしまう。その姿の向こうに薙いだ海原が広がっていた。誰一人、何一つない砂の大海。
違う。絶対に、違う。
脳裏に描き出された想像を拭い捨てるように頭を振り、サリュは残った果肉にかぶりついた。顔をしかめる。今さらのように、甘さに隠れた苦みが彼女の舌に触れていた。
二つ目の果実を食べ終わった頃、風呂の用意が出来たと声がかかった。
ユルヴと別れ、クアルを伴って案内役の兵士の後ろをついていく。連れていかれた先の室内にあった光景に、サリュは目を見開いた。
そこにあったのは一面の水。湿気た重い空気に包まれた、百人も入れそうな程に巨大な水風呂場だった。磨き抜かれた白石作りの浴場には誰一人の姿もなく、あたりには奇妙な静謐さが備わっている。これほどまでに巨大な風呂は、以前、少しのあいだ世話になっていたトマスのアルスタ邸にもなかった。
「大勢用のお風呂、なのかしら」
呟いた声が奇妙に響くことに薄気味悪さを覚え、サリュは隣のクアルを見やった。いつもは水場を見つければ喜んでそこに飛び込んでいく砂虎も、まったく植物の緑が生えてないことに不自然さを感じているのか、どこか尻込みしている様子だった。
ともあれ、風呂には違いない。サリュは持ってきた衣服を擦り洗い、そこに染み込んだ砂を落とすのに懸命になった。利き手の傷をかばいながらの洗濯は手間がいった。ユルヴの洗い物も預かっておけばよかったとそんなことを考えながら、全ての作業を終わらせる。
近くの壁に横掛けされた洗濯紐を見つけ、洗ったばかりの衣服を並べて干してから、湯船に向かった。波紋一つない水面に、そっと足の先を浸ける。冷たい感触が背筋を駆け上がるのに合わせるようにして、サリュはそのなかにとぷん、と身体を滑り込ませた。
緩やかな抵抗に包まりながら、丸まって四肢を抱き、息を吐く。
旅ではなにより水が貴重で、そうなると当然、お湯を沸かすことより水風呂の方が頻度は高くなる。とはいえ、ここまで綺麗で潤沢な水風呂というのも記憶になかった。
「……クアル、来ないの?」
湯船の淵の相手に腕を伸ばして呼びかけるが、若い砂虎は腰を持ち上げようとはしなかった。クアルにはお気に召さなかったらしい。確かに、広すぎて一心地つける雰囲気ではなかった。
これが領主の権力というものなのだろうか。サリュは考えた。――治水権。知識としてはあるが、馴染みのない単語を口の中に呟く。
今まで、彼女が見知る領主と言えば二人だった。
一人はクリスティナ・アルスタ。探し人の古い友人であり、彼女にとっての恩人でもある金髪の騎士は帝国女爵という身分を持ち、その実家は遠く北方に水源を治めていると教えられていたが、本人は今もトマスに駐在しているはずだ。
もう一人はケッセルト・カザロだった。国防の砦街タニルを預かる、獣のような気配を身に纏った危険な男。確か、男爵とか名乗っていたか。その男を思い出すのと同時に連想されるものに、サリュは顔をしかめた。
二人の領主は、どちらともサリュに対して鮮烈な印象を残した人物ではあったが、ここまで派手な生活はしていなかった。無論、それは彼女達の人格に加えて、それぞれの置かれた環境というものもあるはずだった。誠実な女騎士が館を構えていたトマスは彼女の領地ではなく、野生的な男爵が治めるタニルは国防の最前線であり、そもそも水源豊かなことで選ばれた場所ではない。
トマス。領主と富、その両方を端的に兼ね揃えた印象として思い浮かべるのなら、むしろそちらの方が適しているかもしれなかった。もちろん直接の面識はないが、トマス水源を治めている大貴族はベラウスギ公爵家であると習った記憶がある。
街一つを囲む巨大な水海と、そこから水陸四方に伸びた河川の水路。水陸経済の要とされる商業都市トマス。
その河川の一つで町を治めているのに過ぎない一介の下流領主が、この水風呂場のような贅沢を許されていることを思えば、トマスのような大水源と四つの河川をも領するベラウスギ家の権勢とはいったいどれ程のものか。サリュには想像もつかなかった。
領主や貴族と呼ばれる人々がどれだけ贅沢に日々を過ごしていようが、サリュには関わりのないことではある。重要なのは、その一人であるワームの領主が、リトについてなにか知っているかもしれないということだった。
いや、そうとは言えないだろう。サリュは湯船のなかで深く考え込んだ。
確実に、リトのことを知っているはずなのはパデライだ。アルスタの家紋を見せられ、慌てて席を立ち、そのまま姿を消してしまった元行商人の老人。彼が姿を消した理由について、ヨウは気になることを言っていた。治水権。ツヴァイという大国がこの水陸を支配する根本にあるものについて、パデライはなにか法を犯すことをしていたらしい。そのことにリトが関わっている可能性をヨウは示唆していた。
――もしかすると。今、この瞬間にも、リトは“それ”をやろうとしているのかもしれない。あるいはリトという存在そのものが深く関わっているのか。
だとすれば、領主が自分を浚った理由もそこに繋がってくるのだろうか。パデライが消えたこととこの町の領主に直接の関係があるかどうかは、わからないが。
いつの間にか水面が波を落ち着かせ、透明な鏡面を作り出していた。そこに映り込んだ自分自身の相貌が彼女を見つめている。二重に輪を描いた瞳。少し前に出会った砂の部族、ウディアの老婆が、この瞳を見て月が見えると言っていたことを思い出した。月についてリトもなにかを言っていた。……真実。確か、そんな風に言われることもあると。
真実などと呼ばれる類のものについて、サリュはその何一つとして欲していなかった。ただリトと会うことが叶うのなら無知でいい。だが、逆にリトに会うために必要だというなら、どんなことでも知ってみせる。
パデライやこの町の領主、あるいはヨウ達がなにを企み、なにを隠そうとしているかはわからない。だが決して逃しはしない。覚悟も新たに決意して、サリュは不意に全身を震わせた。考え事をしているうちに身体が冷え切ってしまっていたらしかった。
心配そうにこちらを見ているクアルに笑いかけ、湯船から出ようと立ち上がりかける。ふと、なにかの物音を聞いた。
「……ユルヴ?」
一瞬、友人の存在を思ったが、目の前で警戒心も露わに身を屈めるクアルの様子を見て、サリュはすぐにその可能性を捨てた。相手が見知った誰かではないことはクアルが教えてくれている。ならば、暴漢の類か。それともあの領主本人か。昨夜、面会した際に視界に入り込んだ淫蕩に絡み合う複数の男女の姿を思い出し、生理的な嫌悪感を覚えた。
長く旅をしていれば、暴漢に襲われかけるような経験は幾度となくある。無論、その度に相手に相応の報いをくれてやってきたサリュだった。短剣は手元にないが、そんなことは構わない。いざとなれば喉首を噛み切ってやるまでだ。それに、クアルもいてくれる。
彼女を護るようにのそりと前に出る頼もしい砂虎の、その背中に裸体を隠すようにして、サリュは狼藉者が姿を現すのを待ち構えた。――ちょうどいい。いくらか物騒な発想が頭に浮かぶ。もしもやってきたのが領主なら、そのままリトの話を聞き出してしまおう。少しクアルに頭を撫でてもらえば、さぞ調子よく口を滑らせてくれるに違いない。剣呑な思考が、ここ最近、旅に同行してくれている相手の影響かどうかは微妙なところだった。リトのことになると自分が過激な行動に出がちだという自覚はあった。
脱衣所から足音が響いてくる。軽い。子ども、あるいは女性かもしれない。一瞬、全身に張り詰めさせていた警戒を解きかけ、すぐに引き締め直したところで相手が姿を現した。
「あら、お客様?」
問いかけられた言葉はひどく透き通っていて、その奇妙な落ち着きにサリュは困惑した。
緩やかに波打った長い黒髪をほとんど腰近くまで伸ばし、どこか重たげな眼差しでこちらを眺めている人物は、凶暴な砂虎の姿を捉えて悲鳴の一つも上げないだけで異様ではあった。サリュが内心で思った声を聞いたわけではないだろうが、相手はどこか現実離れした目線をちらと傾けてクアルを見やり、
「随分と大きな猫ちゃんね」
感心したように呟いてみせた人物は一糸纏わぬ恰好の、まだ若い少女のような相手だった。
◇
居並ぶ兵士達の苦々しい表情を横目に、ユルヴは堂々と領主の館から外へ出た。
メッチとラディの泊まっている宿へ足を向ける。少しもしないうちに、彼女は自分の後をつける尾行者の存在に気づいた。唇を歪めて近くの雑踏に紛れる。
多くの露店市が開かれた広場は多くの人に溢れていた。護身の小刀を抜く代わり、彼女は腰から下げた皮矢筒から一本の矢を取り出した。矢柄を折り、鏃だけを残して拳のなかに握り込む。即席の暗器を手にして彼女はそのまま歩いた。
土地勘のない場所で安易に道を選べば袋小路に追い込まれかねない。だからと言って、無関係な他の人間を巻き込むのも彼女の好みではなかった。たとえそれが河川などという不愉快極まりない存在の下で享楽に生きる連中だろうと、だった。
とはいえ、このまま宿まで案内するのもさほどよい考えには思えなかった。場所が悟られるのを恐れたからではない。そんなものはとうに知られていると見るべきだった。宿に連れ帰ったところで、そこにいる男共が物の役に立つとも思えない。
あるいは宿の方もとっくに襲撃されているかもしれなかったが、その時はその時だ、と冷ややかに考える。その場合、あの二人は逃げ出したか、捕まりでもしたか。どちらにしても、自分の身も満足に守れないような輩の心配をするほど彼女もお人好しではなかった。
すでに宿が敵方に落ちている可能性を考えても、やはりそこで対処するのは不測の恐れがある。即断して、ユルヴはすぐ近くにあった露店裏に姿を隠した。
「なんだい、部族の嬢ちゃん。かくれんぼでもやってんのかい」
気のいい店主が声をかけてくるのを無視して、息を潜める。すぐに人ごみを掻き分けて目つきの鋭い男がやってくる。それにほとんど身を合わせるように接近して、ユルヴは相手の喉元に拳を突きつけた。指と指の合間に鏃を覗かせ、それを相手の首筋に抑え込むようにしながら、
「動くと殺す。叫んでも殺す」
淡々とした脅迫に、男がひゅっと息を呑んだ。恐怖に身を竦ませる相手の顔を見て、特に覚えがないことを確認してから訊ねる。
「どこの者だ」
「ま、待て――。俺は、」
「部族の人間が全て短気というわけでないが、わたしに限ってはとても気が短い。さっさと話さないと、二度と喋れなくなるぞ」
「……わかった! 話す、話すから、」
悲鳴じみた声を聞きながら、ユルヴは注意深く周囲の様子を窺った。先ほど感じた気配は一つではなかった。まだ相手の仲間が残っていることを確信して頭を巡らせ、その途中で唖然としている店主と目が合う。
「お、おい。あんた、なにやってんだ」
「黙れ。死にたくないなら、大人しく身体を丸めていろ」
背後で殺気が閃いた。
ユルヴは目の前の店主を蹴飛ばし、その反動を利用して背後に飛んだ。短剣の軌跡が宙に走る。新たに現れた髭面の男が殺気に満ちた眼差しでユルヴを睨みつけていた。その隣では、喉から鮮血を飛ばした男が膝から力なく崩れ落ちようとしている。
相手から先に刃物を抜いてきた以上、否応はない。ユルヴは小刀を抜き払い、無言の殺意を込めて突撃してくる男に対して身構えて、
「――やれやれ。こんなことだろうとは思っていたが」
ふらりと現れた襤褸を纏った男が髭面の男に足をかけた。あっけなく転ぶ。だが、足を仕掛けた男も体勢を崩していた。
ユルヴは髭面の男に近寄り、ナイフを掴んだままの手に容赦なく踵で踏み潰した上で、相手の後頭部に膝を落とした。
「殺すな」
制止の声がかかる。両手で尻餅をついた格好の男を見やって、ユルヴは唇を歪めた。
「サリュにやられた傷か。無様だな」
「本当なら、しばらく療養していたいところなんだがな」
憮然とした顔で応えたのはヨウだった。それに対して口を開きかけ、自分の背後に二つ、息を殺した気配があることにユルヴは気づいた。肩越しに見ると、古い防砂衣を纏った男が二人、いつの間にか左右を囲むようにして立っていた。襟口からわずかに除く内服は、ヨウが着ているそれと似通っている。
三人同時にかかられてはさすがに分が悪い。だが、その中の一人は手傷を負い、戦力どころか足手まといにさえなりかねない有様のはずだった。
もちろん、相手もそれがわかっていないはずがなかった。いざという時はすかさずヨウに飛び掛かれるよう脚部に力を込めながら、ユルヴは口を開いた。
「なんの用だ」
「お前達を張っていれば、引っかかる輩がいると思っただけだ」
肩をすくめてヨウが答える。
「わたしやサリュは餌か。どうせ宿の方も見張っているのだろう」
「ああ。あちらの方は、残念ながら不発だったようだが」
ということはあの二人は無事か。ユルヴは油断なく背後に気をつけながら、
「それで、獲物を横から掻っ攫おうという訳か」
「もう少し穏便に事が済んでくれるなら、出しゃばるつもりもなかった。だが、全員を殺されてはこちらも困る。死者はなにも喋らないからな」
すぐそこで、少なくない血溜まりに倒れ伏した男を見やり、改めて目の前の男を睨みつけて吐き捨てる。
「汚い連中だ」
「なんとでも。我々は表立って動くわけにはいかないからな」
さて、とヨウは怜悧な眼差しを細めて、
「そこの男を渡してもらおう。言っておくが、俺は員数外としても分が悪いと思うぞ。腕利きの二人を連れて来たからな」
握りしめた小刀に力が入る。ヨウを人質にして背後の二人に対することもユルヴは考えたが、すぐに諦めた。その程度の可能性を目の前の男が考えていないはずがない。死を受容した人間は盾にも質にもならない。
「……好きにしろ」
小刀をしまい、憮然としてユルヴは言った。背後の男が音もなく横を過ぎ、地面に倒れた男を起こそうと腕を伸ばす。もう一人は油断なく自分の後ろをとって動かない。その慎重さに忌々しさを覚えながら、さっさとこの場を去ることに決めた。
だが、部族の者として、自分の矜持を傷つけた相手の顔を覚えることを彼女は忘れなかった。ヨウと、もう二人の防砂衣に半ば隠れた顔かたちを刻み込みながら、考える。
――残しておかなければならなくなった矢数が増えた。彼女にとっては、つまりはその程度のことではあった。