6
どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐって、サリュは目を覚ました。
乾いた砂の熱さでも、そこに生きた猛る獣の香りでもない。もちろん擦り切れるように想う相手のものでもなかった。どこか現実から浮いた懐かしさと共に数名の知人達の顔がよぎり、意識を戻す。それと同時、全身を包む不可解な気分に顔をしかめた。
吐き気と頭痛。胃をひっくり返すような不快さがたちまちに喉元をせり上がり、嘔吐を堪える。口元を抑える自分の手が震えていることに彼女は気づいた。
――なに。なにが起きたの。
一瞬、混乱する記憶を掻き集め、事態の把握に努めようとする。
周囲は暗かった。目隠しをされている可能性を思い、それを確かめようとした手のひらをざらついた舌先で舐められたサリュはぎょっとして、すぐにその緊張を解いた。
「クアルっ」
くあう、と砂虎が鳴いた。息をつき、すぐそばに温かい誰かを探してそれを抱きしめる。嗅ぎ慣れた獣臭さを胸一杯に吸い込み、サリュはほっと安堵した。
「……傍にいてくれたのね」
誇らしげに鳴る喉音に幾分か心地を落ち着かせて、改めて周囲の確認を始める。
周囲には僅かにも日の光が存在しない。夜。それとも地下。地下だ、とサリュは見当をつけた。肌に触れる限り、まるで空気の流れが存在しないことがそう断定した理由だった。締め切られた空間。物置や保管庫の用途だろう。もっとも、と胸中に付け加える。夜の地下、ということも考えられるけれど。
数回、瞬きして闇に眼を慣れさせる。いつもならそれだけで多少は陰影を見通せるようになるが、不思議となんの輪郭も浮かび上がって来なかった。サリュは自分の目の前に右手を持ってきた。それでもなにも見えない。思い出したようにやってくる吐き気を抑えながら、これも体調の悪さのせいだろうかと訝しんだ。
じわりと嫌なものが背中に触れて、サリュはどきりとした。汗だった。
日頃、乾いた砂地に生きる彼女にとって、全身に浴びるような汗をかくということはあまり経験のあることではなかった。そしてその少ない経験は、大抵がひどく良くない体験と同時に訪れている。
それ以前に、肌着が張り付く感覚は気持ちのよいものではない。身じろぎして、ふとサリュは自分のいる場所の異質さに気づいた。手に触れると柔らかな布地と、確かな感触が戻ってくる。
どうやらそこは寝台らしかった。ただし、虫の湧いているような藁床でも、ボロボロに朽ちかけた布敷でもない。身体を沈めるには滑らかすぎる手触りは、彼女が以前、ほんの数日だけ滞在した大都市の邸宅、そこで宛がわれていた高級な寝台を思い出させる心地だった。
「――トマス?」
まさか、寝て覚めたらあの居心地のよい場所に戻っていたというのだろうか。あるいは、今までの全てが夢だった? ――そんな馬鹿な。ほとんど怒りにも似た思いで、サリュは自分の思い付きを否定した。夢であるはずがない。あってはならない。ようやく、彼の影を捉えたのだから。
明らかに本調子ではない身体を想い人への執着で動かして、サリュは寝台から滑り降りた。靴は脱がされていなかった。気怠さのある関節で屈み込み、床に触れてみる。硬いが冷たくはない感触。立ち上がり、自分が横になっていた寝台から手にした布地を鼻に当ててみる。現実感のない匂いはそこから漂っていた。
相変わらず、視界は暗いままだった。サリュは少し前、イ・スムクと呼ばれる孤立した集落で地下の水脈窟に放り込まれた経験を脳裏に浮かべた。あの時も砂漠を強行して渡った無理がたたって、体調は非常に悪かった。だからかもしれないが、今、目の前にある暗闇はその時と同じように不安な気持ちに彼女をさせた。
隣から擦りつけるような無言の圧力を受けて頬を緩める。あの時とは違い、クアルがいる。それだけでなにより心強くはあった。
彼女は自分の手荷物を探したが、護身用に片時も離すことのない二本とも手の届く範囲に見つけることは出来なかった。他は全て宿に、と思いかけて、ユルヴ達のことを思い出す。自分が戻らず、心配しているかもしれない。クァガイに連絡をとってくれただろうか。
――そう、クァガイだ。唐突に彼女はそれまでの経緯を思い出した。
ヨウと思いがけない遭遇があった後、気絶したユルヴを連れて宿に戻った。ユルヴが目を覚ましてから、ヨウが戻ってくるまでの間にとクアルの様子を見にクァガイの商館へ向かった。若い砂虎が押し込められている小屋に通され、そこで商会の人間から差し入れされた水を飲んで。記憶はそこで途切れている。
疲れかもしれない。リトの生存を聞いて随分と泣いてしまった。町に着いたばかりで体力も消耗していた。それでふと寝入ってしまったのかもしれないが、それだけではこの気分の悪さまでは説明のしようがない。長旅の疲れが容易に体調を崩す理由になりえることを彼女は承知していたが、今の自分の症状には奇妙に納得がいかなかった。イスム・クの時と違い、この町までは強行軍でやって来たわけでもない。実際、意識を失うまではまるで不調など感じてはいなかった。サリュは自分の唇に触れ、その乾き具合から自分が意識を失っていた時間を推測すると、自分の中の疑惑を確信に変えた。やはり普通の疲労ではない。となれば。
……飲み水になにか入れられた。そう考えれば、先程から続く身体の不調にもむしろ得心がいく。だが、誰が、何故、という理由にまでは思い至らなかった。クァガイの商会員から手渡された飲み水に毒が含まれていたのなら、もちろん彼らの犯行を疑うしかないが、彼女はユルヴと違い、いくらかの事情を経て知人になったメッチを信頼していたから、今さら彼が自分に害を及ぼすとは考えにくかったが。
「そう。そうよね。メッチ以外はわからない、か」
サリュは苦く自分の結論を受け入れた。メッチは信用できても、クァガイという商会そのものについてはわからない。多くの人が、思惑が存在する。集団というものに彼女は不慣れだったが、だからこそその底知れない恐ろしさは身に染みていた。なにより、ここはリスールではない。ここの商館を預かる人間や、そこに所属する人間が自分に友好的である理由はなかった。
だとするなら、ここは彼らの所有するどこかの倉庫なのだろう。倉庫に寝台、というのもおかしな組み合わせだと彼女は思ったが、それ以上の推測をする材料がなかった。
ユルヴ達とも連絡がついていないと考えるべきだろうか。彼女の見立てでは、意識を失ってから半日も経っていないはずだった。夜になっても自分が戻って来ないようならば、彼女達は自分を探してくれるはずだ。だが、同じ商会員のメッチがいても話を通してくれない可能性を考えないといけない。つまり自分は隠されている。攫われ、閉じ込められている。
「……人質」
いったい誰に対しての――と思いかけたところで、サリュの耳にかすかな音が届いた。息を止めて音源を探る。闇の一方から、誰かの会話らしい断片が漏れて来ていた。
サリュは足音を殺してそちらに向かい、伸ばした手の先に扉らしきものが触れてそれに耳をあてた。男達の話し声に向かって、
「誰かいるの?」
それまであった声がぴたりと止み、慌ただしく気配が去っていくのを感じて息を吐く。――クアルに蹴り破ってもらおうか。どうやら木製らしい扉の感触を確かめてから、サリュはそう頼みかけたが、すぐに思い直した。それは最後の手段にとっておくべきだ。
今は事情がわからなさすぎる。自分の体調も芳しくない状態で、強行突破は最善の手とは思えなかった。クアルは並みの兵隊なら束になっても敵わないくらいに強靭ではあるが、絶対に血を流さないわけでもない。ただでさえ室内という密閉された環境は砂虎にとって不利に働くはずだった。
不用意に扉の向こうへ声をかけたのは失敗だったかもしれない。彼女は自分の判断を悔いた。まずは体調の回復を優先すべきだったかも。だが、多少の時間をかけたところで体調が上向くとも限らなかった。むしろ悪化するかもしれない可能性を考えれば、やはり強行すべきだろうか。
サリュはとっさの判断に迷った。そのことが彼女自身の不調さを証明してもいた。
彼女が今後の行動に移る前に、外で動きがあった。扉の傍からいなくなっていた気配が再び戻ってきたことを察して、サリュは息を潜めた。
扉が叩かれ、光が差した。日の光ではなく蝋燭の灯りだったが、異常にその光明が視界に突き刺さってサリュは思わず目を細めた。庇うように広げた手のひらの向こうから、平坦な声が届く。
「お目覚めかな」
男の声だった。聞き覚えはない。
「誰」
ぼんやりとした黒い人影にしか見えない相手に向かってサリュは訊ねた。相手が答えず、一歩彼女に近づこうとしたところで、サリュを護るように彼女の砂虎が唸りを上げた。狼狽した様子で影が後ずさる。
「……ここはどこ。私はどうして、ここにいるの」
一旦言葉を区切り、サリュは低く付け加えた。
「この子を暴れさせたくないのなら、下手なことはしないで」
牽制の一言に影は大いに動揺したようだった。若干の沈黙の後、取り繕うような咳払いの後に言葉が続く。
「無理はしない方がいい。まだ本調子ではないだろう?」
「……なにを飲ませたの」
「砂虎を連れた女か。獣同様に育てられたとかいう噂だが、さすがに無味無臭の毒までは見破れなかったらしい。いや、砂虎の方は結局、最後まで手を出さなかったのだから、飼い主が間抜けということだな」
サリュは顔をしかめた。やはり薬。リトのことで頭が一杯だったとはいえ、疑うことすらなく飲み水を口にしてこれなのだから、相手の揶揄は甘んじて受け入れるしかなかったが、彼女はせめての反撃も忘れなかった。
「そうね。その獣のような女だから、考えなしに噛みつかれるかもしれないとは考えないの? あなたが一歩、後ろに下がるより早くにクアルはあなたを引き裂けるのに」
相手が押し黙る。
サリュは目を眇めて相手の輪郭を捉えようとした。辛うじて神経質そうな細面の男の姿が捉えられたが、薬の影響かどうしても焦点がぼやけてしまう。
「……ふん。一丁前に牙を剥いてみせるものだ。――お前に会いたいと仰られている方がいる。ついてこい」
「クアルも一緒に?」
「クアル? ああ、その砂虎の名前か。冗談ではない! お前だけだ」
「ならお断りよ。話がしたいなら、その相手をここに連れてくればいいでしょう」
サリュは相手の提案を拒否した。この状況で離れ離れになるなどというのは、それこそ冗談ではなかった。
「獣風情が。何様のつもりだ」
「相手に毒を盛るような人間が、何様のつもり」
刺々しく言葉をかわしあう。険悪な雰囲気を感じ取った砂虎がのそりと立ち上がり、男の気配がたじろいだ。憎々しげに、
「……少し待て」
逃げ出すように去っていき、扉が閉まる。
闇に閉ざされた空間に戻って、サリュは部屋のなかに武器になりそうなものがないか探した。彼女がまだ完全に調べ終わらないうちに再び扉が開いた。
「お許しが出た、そこの砂虎も一緒でかまわん」
サリュは黙って隣の砂虎を促し、外に出た。
廊下には先程の男と、ずらりと槍を並べた兵士達の姿があった。視界がぼやけているせいで遠い表情まではわからないが、いかにも緊張している雰囲気が見て取れる。サリュは顔をしかめた。兵士と思ったのは武装や身なりが均一だったからだが、そうした兵を雇っているという時点で自分を呼び出した相手が何者か、ある程度は推測できてしまう。
「ついてこい。領主様がお会いになる」
彼女の推測が正しかったことを男の台詞が告げた。
すぐにクァガイの商館を訪れたユルヴとメッチだったが、そこで告げられたのはサリュ達の不在だけだった。食って掛かろうとするユルヴを押し留め、メッチが事情の説明を求めて商館長イェルモンドと面会して結果を持ち帰ってきたのは、その日の夜半も近くになってからだった。
防砂具もとらずに待っていた部族の少女は、消沈した様子の若い商人から話を聞いて柳眉を逆立てた。
「領主? この町のか。それがいったいどうしてサリュを攫ったりする」
「知るもんか! 俺だってビックリしてんだ!」
ほとんど噛みつくような勢いで胸ぐらを掴まれたメッチが悲鳴じみた声で応えた。舌打ちと共に手を放し、ユルヴは踵を返して部屋の出口に向かいかけた。
「おい、どこ行くんだよ」
「決まっている」
「まさか領主様んとこに? やめとけって! あんたが一人でいくら射かけたところで、館には大勢の兵士がいるんだぜ! たった一人でなにをやろうってんだよ!」
ユルヴは立ち止まり、肩越しに振り返った。告げる。
「ならば一族を連れて来るだけだ」
「戦争でもするつもりかよ!」
「サリュは同輩だ。それを拐かしておいて、無事に済む道理がないことを教えてやる」
「どうしてそう短気なんだよ! あんたらも黙って見てないで止めてくれよ、こいつは本気でやるぞ! 俺の町でも、町の人間と部族連中とで一触即発だったんだ!」
泣きそうな顔でメッチから話を向けられた二人は、いずれも表情を変えなかった。詩人のラディは穏やかな顔のまま、クライストフ家のヨウは怜悧な表情を崩さず、どこか他人事のような距離感を保っている。
「ええと、そうですね。ユルヴさん、少し落ち着いた方がよろしいかと」
ラディが言った。のんびりとした声色が耳に障り、ユルヴは矢のような眼差しで相手を射抜いた。
「落ち着けだと? これで落ち着いていられるか」
「獲物を前に昂らない狩人はいないでしょうが、彼らは傍目にはまったくの冷静沈着だと言います。過度の興奮が手元を狂わせては、矢先は獲物を貫けません。しかと対象を見据え、時機を見計らう術こそが熟練の技だと聞きますが」
迂遠な言い回しに、ユルヴは渋面をつくった。少しして相手の言い分を察する。
「獲物だと? 諌めているのか、煽っているのかどちらだ」
「暴力は良くないと思います。何事も話し合いですませられるのなら、そうすべきでしょうね」
「ふざけたことを。その話し合いの結果とやらが、この男のザマだろう」
メッチに視線を移してユルヴは言った。口調に含まれた侮蔑の意図に、むっとした様子でメッチが口を開いた。
「ちょっと待てよ、結果だと? 誰が諦めただなんて言った? 話し合いなんていうのが一度や二度で終わってたまるもんか。商談ってのはな、相手に断られてからが始まりなんだぜ」
「ならばこれからどうする」
「それは。ええと、とりあえずセルジェイ館長に連絡とか。サリュはこっちの顧客扱いだから、不当な扱いにはリスール商館として抗議を――」
「話にならないな」
ユルヴは一言で切って捨てた。
「リスールとのやりとりに何日かかる? それまで手をこまねいていろと言うのか。それなら、その間に部族の者を呼び集めておく。喉元に刃が光らなければ、危機に気づかない輩もいるだろう」
「確かに、話し合いの為に必要な示威というのもあるかと思いますが」
苦笑のようなものを浮かべたラディが肩をすくめる。
「しかし、どうしても不穏な流れになってしまうのは否めません。少なくとも、表立ってはそのように見えない方がよいのではないかと思いますが」
そこで男は、それまで会話に参加せずにいたもう一人へと視線を向けた。
「ヨウ、貴方はどう思いますか?」
「どうと言われても。私になにをお求めですか」
「そんな言葉遣いは要りませんよ。既に私は身分を捨てていますからね。……率直に言って、助けて欲しいんです」
ヨウは奇妙に顔を歪めた。
「助ける? 俺が、あの砂虎女を?」
「ええ、そうです。利用する、と言い換えても構いませんよ。ヨウ、貴方がたもこの町で調べ物があったのでしょう。どうやら今度の件には、そちらも関わっているようには思えませんか?」
若い男は怜悧な眼差しをじっとラディに見据えた。右手は包帯が巻かれた左太腿をさすっている。その傷を与えた人物のことを思い出しているような様子だった。
「……確かにこちらも表立っては動けない。引っ掻き回してくれる誰かがいれば、その裏で色々と動きやすくはある。が――」
視線がユルヴに向かう。
「そちらには、こちらの思惑通りに動いてくれるつもりがあるのか?」
「あるわけがあるか」
「おいおい。それじゃ話が進まねえよ」
メッチが頭を振った。
ユルヴはまったく揺るがない眼差しで、
「当然だ。この男は信用できない。信頼の置けない相手に利用してみせろ、などと放言してみせるほど私は馬鹿じゃない。だから、勝手にしろ。私は私で勝手にする」
ヨウはその発言にむしろ満足げに頷いてみせた。
「了解した。疑心暗鬼のまま協調してみたところで、足の引っ張り合いにしかならないからな。こちらとしてもその方がやりやすくはある。あとで裏切られた、などと言われても面倒だ」
「話は終わりだな」
「まあ待て」
会話を打ち切ろうとしたユルヴにヨウが呼びかけた。
「まだなにかあるのか」
「好きにしろ、と言っただろう。こちらがお前達を勝手に利用するために話しておきたいことがある」
「そんなものを私が聞く理由があるか?」
「聞くも聞かないも自由だが、損はないと思うが。ご自慢のその弓腕で、いったい何人を射殺せる?精々、そのたった数人の獲物を誰にするか、正確に見定める必要があるだろう」
ユルヴは貫くような眼差しで相手を見て、唸るように言った。
「……話してみろ」
「長い話じゃない。ツヴァイには、幾つかの異なる“貴族”が存在するという話だ」
にこりともせず、男は語り始めた。