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砂の星、響く声  作者: 理祭
 二章 河境の港町
88/107

 少し前に出会い、剣を交え、そしていつの間にか姿を消していた男。

 自分の探している人物のことを知る相手が再び目の前に現れたことに困惑と、激しい不快さを覚えた後、サリュの内面にそれを凌駕する感情が湧き起こった。

 この相手とは、いつかそのうちに再会するだろうという確信はあった。だが、その機会がこんなにも早く訪れるとは思ってもいなかった。――今度は絶対に逃がさない。狂気と歓喜が入り混じった異相の瞳が、獲物を視界に捉えた砂虎に似た輝きを宿した。

「いつかそのうち、とは思っていたが」

 ヨウが呟くように囁いた。

「まさかこんなところで再会することになるとはな。なんの手がかりも持っていないというのはやはり嘘か。しかも、砂虎まで町に入れるとは恐れ入った」

「隠していたのはそちらも同じでしょう。――このお店の人を、どこにやったの」

 剣呑さを舌にのせ、サリュは唸った。油断なく短剣を構えながら相手の状態を確認する。ヨウの姿勢に不自然さはなかったが、左の足裏には彼女が切りつけた裂傷が残っているはずだった。たった数日でそれが完治するはずもない。利き手が使えない自分でも、十分に勝算はあると彼女は見立てた。

 ヨウの眉がわずかに持ち上がり、

「では、お前達の仕業ではないんだな?」

 いったい何を言っているのかわからない。サリュが声を荒らげる前に、背後の階段が軋んだ音をたてた。


「サリュ、ユルヴ。いったいなにが――って、うわ、誰だそいつ」

 メッチとラディが二階にやってくる。ちらりとそちらに視線を流したヨウの冷ややかな表情が、大きく跳ね上がった。

 その不可解な相手の反応の意味を考える前に、サリュは動いていた。

 相手の注意がそれた瞬間、滑るように相手へと距離を近づいて、両手で握り込んだ短剣を振りおろす。渾身の力が込められた刃が男の左太腿に突き立った。

「っ……!」

 激痛に顔を歪める相手の太腿を蹴りつけて、バランスを倒したところを押し倒す。そのまま俯せに倒れた男の背中を、全体重をかけた膝で押し込んだ。

「これで、もう逃がさない――」

 密着した体勢で男の耳元に囁く。心境はまさに獲物を手中に収めた獣のそれだったが、

「サリュさん!」

 鋭い声が、サリュの意識の中でほとんど脇に追いやられていた理性に刺さった。

「……落ち着いてください。話を聞くのに、それ以上痛めつける必要はありませんよ」

 いつになく厳しい表情でサリュの行為を制止したラディが、表情を穏やかなそれへと変えて柔らかく微笑む。

 サリュは詩人を睨み上げ、それから自分の組み伏せた男へと目線を落とした。ぼそりと訊ねる。

「ユルヴは」

「あ? ああ、――大丈夫だ。気を失ってるだけだよ」

 慌てて部族の少女のもとに身を屈めたメッチがどこか怯えた様子で答えた。自分が凶行に狂う理由を失い、ようやくサリュは全身から力を解いた。


 それまで抵抗する素振りを見せなかったヨウが皮肉げに呻いた。

「……喉を噛み切られるのかと思った」

「黙って。立って」

 サリュは険悪に唸り、相手の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

「話して。リトのこと、知ってることを全て。ここで何をやろうとしていたの」

 ヨウはなにか考え込むように沈黙した。

 男の太腿にはサリュの刺した短剣がそのままだった。相手の態度に、容赦なくそれを捻り上げようとサリュが手を伸ばしたところで、ヨウが口を開く。

「わかった。話す。話すが少し待て」

「待たない」

「そうじゃない。――お前達、尾行されていたんじゃないのか」

 相手の指摘でそれを思い出して、サリュは階段の元に駆けた。階下の様子を窺うと、今まさに扉を開いて、何者かが部屋にやってこようとする場面だった。

 顔を上げて二階の造りを確認する。逃げ道どころか窓さえないことを確認してから、サリュはすぐ近くの棚に手をかけた。

「メッチ、手伝って!」

「へ? お、おうっ」

 若い商人の力を借りて、障害物になるようそれを階段の手前に倒す。

呆れたようにヨウが言った。

「戦うつもりか? やめておけ。俺が話す」

「話す?」

「俺が、下の連中に話す。……一階にいた相手は、殺したか」

 サリュは黙って首を振った。

 薄く息を吐いたヨウが、

「なら、いい。条件だ。一階のそいつを解放する代わり、下の連中にここから出て行かせる。俺は残る。話はそれからでいいだろう」

「信用できるとでも?」

 サリュは言った。少し前、彼女は男と剣を交えたばかりだった。相手の言い分を易々と呑み込める理由はない。

「なら好きにしろ。状況もろくに判断できないような獣を相手に、元々話すこともないだろうさ」

 うんざりと男が吐き捨てる。


 拭い難い反発心を抑えて、サリュは考えた。ヨウの怪我は、少なくともたった今つけられたものは重傷だった。まともに走ることもできないに違いない。それで逃げられる算段がつくだろうか。つくとしたら、

「……いいわ。下の人達への交渉は、階段の上から。私が傍についてるから、それでやって」

「まあ、妥当な判断だ」

 ヨウが唇の端を持ち上げた。

 顔をしかめながら、短剣が刺さったままの左足を庇うようにゆっくりと立ち上がろうとする。サリュは眉をひそめ、

「抜かないの」

「血が出るだけだ。俺はこんなところで死にたくないからな」

 憮然とした表情で、ヨウは階段の元まで歩いていく。サリュは鞭剣を抜き、その背後を油断なくついていった。少しでも不審な動きをしたら、もう片方の脚を切りつけるつもりだった。

 階段手前の障害物に顔を歪め、苦労してそれを乗り越えるようにヨウが顔だけを出すと、一階から声がかかった。

「ヨウ! 無事かっ」

「……ああ。なんとかな」

 ヨウは自分の太腿に視線を落としてから、

「チェイダがやられてる。例の相手はいたか」

「いや、逃げたらしい。一足遅かった。急いで町の出入り口と河川橋の確認だ。外には逃がすな、面倒になる」

「お前はどうする。おい、大丈夫か、顔色が悪いぞ」

「俺は後から行く。ニクラス様の残した酔狂が、今ここにやってきていてな。少しそいつらと話をして戻る」

「……例の、クァガイに向かったという相手か。大丈夫なのか」

「いいさ。チェイダを連れていってやれ」

「わかった」


 やりとりが終わる。ヨウが振り返った。

「もういいぞ」

 サリュは応えず、目を閉じて耳を澄ませた。わずかな足音が気配と共に建物から去っていくのを感じ、目を開ける。

「耳の良さは砂虎並みか?」

 男の揶揄に応えず、サリュは黙って鞭剣で自分の防砂衣を引き裂いた。細長いそれを乱暴にヨウの太腿に巻いて、きつく縛り上げる。

「何の真似だ」

「なにも話さないうちに、死なれたら困るもの」

 突き放したように言う。ヨウが顔中を苦笑に歪めた。

「なに」

「いや。ここ数年の内で、味わった冗談のなかでも面白い方だと思ってな」

「ちゃんと、あんまり血がでないところを刺したわ」

「やれやれ。クリスティナ様仕込みか。ニクラス様といい、お二人して面倒なことをなさるものだ」

 その名前を相手が口にしたところで、サリュは自分の本懐を思い出し、男への手荒な治療を終わらせた。

「これでいいわ。さあ、話して」


「――あの二人には聞かせていいのか」

 ちらりと背後を窺ったヨウが言った。

 サリュは少し考えてから、

「メッチ、ラディさん。離れていてください。ユルヴをお願い」

「懸命だ」

 ヨウが頷く。

 そういえば、とサリュは思い出した。さっきのヨウの動揺はなんだったのだろう。すぐに思い直した。それは後でいい。

「答えて。ここになにをしにきたの。パデライさんとあなた達の関係は?」

「……お前達と同じだろう。ニクラス様との繋がりを辿ってやってきた」

「逃げた、って。言ってたわね。パデライさんは、あなた達から逃げ出したからいないの?」

「それはどうだろうな」

 ヨウが唇を歪めた。

「我々は確かにここの店主に注目していた。俺がこの町に着いたのはつい昨日だが、監視は極めて慎重に行われていたと聞いている。本人への接触さえ控えるほどにな。それで店主が急な行動に出るというのは考えづらい。――むしろ、理由はそっちなんじゃないか?」

「私達のせいって言うの?」

「違うのか? この店主は、さっき、クァガイの商館に出向いていただろう。こちらに入っている情報が正しければ、そこにお前達もいたはずだ。いったいそこで何を話した」

 鋭い眼差しで問い返され、サリュは渋面をつくった。

「……なにも聞けなかったわ。聞く前に、怒って帰ってしまったもの」

「怒る? それこそ、何をしでかした」

「なにも。ただ、アルスタの短剣を見せたら――」

「ああ、なるほど」

 サリュの言葉を遮って、ヨウがため息をついた。

「それで血相を変えて出ていったわけだ。そのまま慌てて、取る物も取らずに失踪か。わかりやすいな」

「どういう意味?」

 男が肩をすくめて、

「言っただろう。アルスタの短剣を持たされたということは、アルスタの人間だと思われることだと」

「ええ、覚えてる。私が聞いているのは、何故アルスタの人間と思われると、逃げ出す羽目になるのかってことよ」

 ヨウは答えようとしない。サリュはさらに続けた。

「答えて。あなたは前、こうも言ったわ。アルスタ家がクライストフ家の味方とは限らない、って。リトのことを知っている相手に、アルスタに関わる人間が話を聞こうとすることのなにが問題なの。……答えて!」

 一旦は平静を取り戻しかけていた感情が再び波立ち始めていた。激昂寸前のサリュを冷ややかに見るようにしていたヨウが、


「――お前、ニクラス様とクリスティナ様のことをどう思う」

 ぽつりと訊ねた。

 不意をつかれ、サリュは二重の環を描く異相の瞳を瞬かせた。

「なに? なにを言ってるの」

「ニクラス様とクリスティナ様のことは好きか、と聞いている」

「そんなの、」

 唐突な質問を重ねる男の表情は真剣だった。サリュは戸惑い、からかわれているのかと思って相手を睨みつける。

「……好きよ。二人とも、私の恩人だもの。当たり前でしょう」

「……そうか」

 重々しく息を吐いたヨウが、

「なら、忠告してやる。これ以上この話には関わるな。ニクラス様の情報は渡してやる。我々で掴めている範囲の経緯や足取りについてまで、全部だ。だから、この町からは手をひけ」

 サリュは眉をひそめた。

「どういうこと?」

「お前には荷が勝ちすぎると言っているんだ。個人的な感傷で動くだけなら、それでしか“動けない”なら、余計なことには関わるな。その方が身のためだ。ンジのことを忘れてはいないだろう」


 もちろん、サリュは覚えていた。

 砂の海に生きる部族の一つ、ウディアの聖地ンジ。そこにやってきた調査隊と部族の人々との間で起こった諍い。少なくない血が流れ、人の命が失われたその騒動において、サリュという個人はその解決に際してまったく寄与することがなかった。

 最終的にそれを成し遂げたのは神子と呼ばれ、部族の標としてそれまで流されるように生きていた一人の女性だった。砂に流されるのではなく、砂を取り込んだ女性は――まるで狙ったかのような突発的な超常現象があったとはいえ――たった一人で両者の争いを収めてしまった。


 なにもできなかった。

 ――少し前に訪れた、あの寂れた黄金の集落、イスム・クのように。


 サリュは強く噛み締めた歯を軋らせる。

 なにもできなかった。それは確かな事実だった。

 一面が赤く染まった世界。その場に倒れた男性。それを呆然と見つめた少年が、こちらを見上げる――そこに僅かな、しかしはっきりとした憎悪の炎が芽生えて燃え上がっていく。そして、そこから逃げ出した。


 私は無力だ。


 卑下するわけではなく、サリュはそれを認めた。“死の砂”などとつけられた意味を履き違えて、世界中の不幸を一身に集めたなどと悲劇ぶるよりは、そちらの方がマシだった。私はただの、おかしな目をした女。それがどうしたというのだ。

 無力でも、私は生きている。彼が、私に生きろと言ってくれたのだから。


「嫌よ」

 サリュは答えた。

 相手への反発だけで感情的に答えたのではなかった。返答までの間に、相手の言葉をゆっくり咀嚼して考え込んでいる。リトの情報を流す。それ自体は歓迎するべきことだったが、その理由が気になった。まさか、目の前にいるこの相手が感傷的にしか動けない小娘に、憐れみから施しを与えるような真似をするはずがない。

「何故だ? お前が欲しくてたまらなかった、ニクラス様の情報だぞ」

「リトの話はもちろん聞かせてもらうわ。だけど、それ以外のことだって聞かせて」

「まったく欲深いことだ。水天の教えを知らないのか? 曰く、強欲は身を滅ぼすらしいぞ」

「あなたがリトの話をして、それで私を遠ざけようとしているものはなに」

 相手の言葉を無視して、サリュは言った。

「私が、個人的なことでしか動けないなら。あなたが私に関わるべきではないという、個人的ではないことっていったいなに? ……それは多分、貴族とか、家とかの話ってことでしょう。リトはずっと前に家をでたって聞いたわ。でも、クリスティナさんはそうじゃない」

 サリュの指摘にヨウは反論しなかった。目を細めて沈黙する相手にサリュは続けた。

「言ったはずよ。リトも、クリスティナさんも、私にはどちちも大切な人なの」

「強欲だな。そして傲慢だ。どちらも大切だと? 何もかもを選ばなくてすむなら、それ以上の幸福はこの世にはない」

 嘲笑うようにヨウが言った。

 頭を振り、

「……まあいい。勝手にしろ。どうせ後悔するのは自分なんだからな」

「ええ、そうするわ。話して。パデライという人と、リトの関係。そして、それがどうしてクリスティナさんの家と関わってくるのか」

 ヨウが口を閉ざす。

 サリュは相手の意識の混濁を恐れたが、男の出血は決して多くはなかった。止血も上手くいっている。部屋の向こう側で、呻きながらユルヴが意識を取り戻すのが視界に入り、ほっと安堵の息を漏らした。


「――河川だ」

 ヨウが呟いた。

 話を聞き流してしまっていたかと、サリュは聞き返した。

「河川?」

「……河川こそが、ツヴァイだ。水陸各地の水源を繋ぐ水の道。古の魔術師が世に残した、稀代の傑作構築物。それは帝国の骨格であり、血流だ」

 帝都ヴァルガードとトマスを繋いだ一本の道に端を発し、そこからさらに広がって今や水陸各域にまで至った河川水路。その重要性については、サリュもトマスにいた頃にほんのわずかな期間だけとはいえ学んでいた。――それは物流、交通、生活そのものの根本を、それまでの常識から覆した。

「数ある水源の一つを至高に置き、そこから下流へと繋ぎ至る。その構造こそがツヴァイという大国を成り立たせている。支配者と被支配者。貴族と平民。富者と貧者。だからこそ、それは決して覆してはならない。水の流れを支配するものこそが、この国の支配者だからだ」

 ヨウの口調からは抑揚が抜け落ちていた。そうすることで、なにかの感情が表出するのを防いでいるかのような態度だった。

「水を支配する権利。人を支配する権利。貴族としての特権。つまり――治水権。それをおびやかすことは、この国でもっとも罪が深い。それこそが支配の根幹なのだから当然だな」

「話が見えないわ」

 サリュは頭を振った。

「パデライは、それを破っていた」

 ヨウが言った。

「破る?」

「治水権を無視して、奴は不当な利益を儲けていた疑惑がある。我々は、というより俺の同僚達は、しばらく前からそのことで奴の周辺を探っていた」

「法律を破って、商売を? それであなた達が?」

 その為に、わざわざ遠く帝都からやってきたというのか。


 治水権の侵犯という事態は、確かに大事なのだろう。彼女が以前関わったイスム・クで長年、自分達だけで水源を秘匿していた集落の人々についてタニルの領主ケッセルトが言っていた。自分達の水と信仰をもつことは、一個の“国”だと。

 しかし、その為にヨウやその仲間達がやってくることにサリュはわずかな引っ掛かりを覚えた。ヨウが頷いてみせる。

「……治水権絡みは重罪だが、同時にもっともありふれた類のものでもある。個人単位なら引水や盗飲、その秘匿。国になれば戦争までな。領内のことならそれを裁くのは領主の務めだ。領主の務めとはつまりそれに尽きる。本来なら、まったく関わりのない土地の事柄について、例え宰相家といえど口を出すことではない」

 やはりそうだ、とサリュはトマスで学んだ知識を思い出した。為政者にとってまず大切なことは水場の管理だとされている。だからこそ、それに関わる法律が存在する。帝国法。あるいは領内法。

 領内法とは文字通り、それぞれの領内のみで効果を及ぼす法律をいう。広大な水源を支配するツヴァイにとって、画一的な法内容をそのまま徹底させることはほとんど不可能だった。水源とそこに集う人々、それらの習慣と価値観はそれぞれで異なり、そもそも水源の湧き方さえ異なる。土地柄には土地柄の、水源には水源なりの決め事が必要だった(もちろん大前提となる根本法は必要であり、それが帝国法と呼ばれる)。

 治水権についても、帝国法と領内法ではそれぞれで扱う範囲が異なる。その詳細は細々とあるが、一般的にはその問題が関わってくる程度によってどちらの法が扱われるかと考えてよかった。

 領内の施政や慣習に収まるなら領内法、そうではない国家的問題であれば帝国法。そしてここは帝国宰相クライストフ家の領内ではないはずだった。

 そのクライストフの人間がやってきたということは、ここで起こっている治水権絡みの問題が、領内法に留まらない可能性を示していた。帝国の根本、帝国法に関わる。いや――サリュはもう一つの可能性に気づいた。

「まさか、」

 不意に脳裏に浮かんだ可能性を、サリュは言葉にしなかった。できなかったという方が正しい。


 彼女の心中を正確に量ったように、ヨウは表情を歪めた。

「お前はクリスティナ様の為人を知っているな。それならわかるだろう。あの清廉な方が、この国の根幹を成す事柄についてそれをお破りになることを許されると思うか?」

 サリュは答えられない。

 男は続けた。ひどく暗い表情で、

「なら、逆はどうだ。お前がリトと呼ぶあのお方。あの方が、万が一にでもこの国を裏切っておられないという確信を、お前は持てるか」


 クライストフ家の人間が遠く帝都からはるばるこの地までやってくる理由。

 帝国法、領内法などという区分に関わりなく。そこに自分の身内が関わっているから、という可能性がそれだった。


 ◆


 国境の砦タニルは地平の先から押し寄せた軍勢に囲まれている。

 ツヴァイと水陸の覇を争う東の大国ボノクス。数年ぶりとなる仇敵との戦争を前に、砂海に突き出した巨大な岩山に張り付くように発展した町中は緊張と奇妙な喧騒に包まれていた。

 町の至る所に哨戒が立ち、城壁には大勢の兵が武装して並んでいる。彼らは防衛上の死角を作らぬよう配置されていたが、町の全てを均等に埋めることは当然不可能だった。


 その一つ、視界は開けているが攻めあがるには不向きな高台に腰を落として、一人の若い男が軍勢の動きを眺めている。

 近辺に湧く水島の確保とそれを基準においた陣地の構築。物資の集積、その分散。統制のとれた行動で粛々と準備を整える様相を遠くに、目を細める。一方の瞳は閉ざされたままだった。

 伝令旗が上がり、次々に伝播する。それによって何かの意思が浸透したように集団が色を変える。

「始まるな……」

 砂海の旅人リトはぽつりと呟いた。



「――始めるぞ」

 ボノクスが陣を構えた水島、そこに張られた天幕内でボノクスの司令官が告げた。

 数年ぶりにツヴァイ領に侵攻したボノクス軍は二軍に分かれている。一方は南、ツヴァイとボノクスが兵を常駐させて睨み合う、河川水路の“国境”へ向けられていた。数年前、ラタルク地方一帯の水源が大規模に枯渇した結果、その土地における戦線はひどく単純化している。現在も有益な水源である河川を押し合いすることがそれだった。


 そしてもう一つ。河川水路の北方にある国境の砦タニルもまた戦略的な価値を有していた。

 そのタニルへ向けられた戦力をまとめあげる人物は女性だった。

 まだ若く、二十半ば程度の美貌は静かだが野性的な気配に溢れている。女性はそのまま、砂から身を護る防砂衣の類も羽織らず外へ出た。よく日に焼けた褐色の肌を露わに、真っ直ぐに足を進める。

 それを見た周囲の人間は諌めることなく、また彼らの習慣からすれば奇異なことである戦場に女性の姿を見ることに眉をひそめることもせず、ただ敬意をもってその姿を見送った。彼女はボノクスを主導する四氏族の一つの出身であり、それ以上の存在だった。


「やはり、打って出る気配はないようですね」

 女性に近づいた男が言った。

「らしいな。情報通り、あの男は不在ということか」

「残念です」

 ちらりと目線を流し、女性は冷ややかに応えた。

「なにがだ。ここにいなければ、次にいる。次にいなければその次だ」

「はっ」

 恐縮して頭を下げる相手から興味をなくしたように視線を外し、女性は陣卓に辿りつく。そこには彼女に従う参謀達が集まり、彼女の指示を待っていた。

 すでに必要な準備は終えている。指示がなければ戦争の準備ができないような人間はこの場に存在しなかった。

 それを当然のように受け取って、女性は宣言した。

「旗を揚げろ。スムクライの戦を始める。挨拶代わりに、奴らに恵みの雨をくれてやれ」


 彼女の一族に伝わる深紅の戦旗が掲げられる。

 砦町を囲む軍勢から一斉に、空も埋めよという勢いで無数の弓矢が放たれた。



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