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砂の星、響く声  作者: 理祭
 一章 国境の砦町
84/107

 高台を下りた男は、近くに括りつけたこぶつき馬の紐をほどくと、そのままどこかに去っていこうとした。そこまで自分を連れてきた相手には一言もない。先ほどの説明で必要なことは全て語ったといわんばかりの態度に、セスクは慌ててその後ろを追いかけた。

「待って。……待ってくれよ!」

 男がちらりと肩越しに振り返る。足は止めないまま、

「何か用かい」

「なにか、って――」

 静かな眼差しに射すくめられたセスクが口ごもる。顔を俯かせる少年を見て、男――リトは懐から何かを取り出して、セスクの足元に放り投げた。一枚の硬貨が転がる。

「……こんなもの!」

 日光を反射して鈍く光る硬貨を、セスクは思いきり蹴り飛ばした。


 立ち止まった男が小さく首を振る。

「悪いが、言いたいことがあるなら言ってもらわないとわからない」

 淡々とした口調が、セスクの記憶に深く刻まれた誰かの言動を思い出させた。口調だけではない。砂の熱さを遮断するかのような眼差しやその佇まいの全てが、少年には一人の人物に重なって見えた。そのどちらが元で、どちらが影響を受けたのかなどということは彼には瑣末に過ぎない。


「――サリュ!」


 体内に渦巻く黒々とした感情に唾をまぶして、吠えた。

 事情がわからずとも、少なくともその一端は理解し得るはずの単語を持ち出した結果に少年は戸惑った。

 切りつける響きでそれを聞いた、目の前の男にまったく反応がなかった。驚愕のあまり声を失っている様子でもない。長くかかった前髪の、その左眼は睫毛すら震わせることなく、それまでと変わらない眼差しを投射している。

「え、」

 セスクは困惑した。もしかして、自分はとてつもない勘違いをしてしまっているのかと不安になる。

「あんた――リト。なんだろ? サリュ姉ちゃんが探してた。……そうじゃないの?」


「ああ、そうだ」

 あっさりと男は認めた。

「そうだ、って」

 セスクは絶句してしまう。


 相手の反応は、彼にとって予想し得ないものだった。

 セスクが一瞬で頭に描いた未来では、男はもっと驚くはずだった。サリュが生きていることを知り、そのサリュがやったことを知らされて、顔をしかめる。父を殺された相手を前にして、男はなんと声をかけるだろうか。謝罪か、同情か。

 それが何であるかはどうでもよかった。何かさえあれば、それで感情を滾らせるのには十分だった。しかし、目の前にいる男の態度は、まるでそのことを聞かされてもたった一言で終わってしまいそうだった。

 少年は拳を固めた。わなわなと全身を震わせる。

「ふざ、けるな……。ふざけるなっ」

 伝播して増幅された怒りを叩きつけた。

「なにがそうだ、だよ! ――父ちゃんを、殺したくせに!」

 男は一拍の間をおき、


「そうか」


「っ……!」

 思考が灼熱して、気がつくと目の前の相手に向かってセスクは駆け出していた。

 手に武器も持たず、ただ握りこんだ拳を叩きつけてやろうと振り上げる。その直前で男の姿が揺れた。

 視界が空転する。交わし際に足をひっかけられてセスクは盛大に転がった。顔面から砂地に突っ伏して、鼻と口に入った砂塵に盛大に咳込む。

 顔を上げる。静かな眼差しが彼を見下ろしていた。

「ちくしょう!」

 セスクは跳ね起きて男へ飛びかかった。今度は避けられないよう、まず脚にしがみつく。防砂具に爪をたて、そのまま這い上がって噛みついてしまえと顔をあげて――自分を見下ろす瞳に、唐突にセスクは気づいた。


 ――違う。


 彼が男に激しい怒りを向けているのは、もちろん身内の死があってこそだった。彼の父親を手にかけた、不可思議な瞳をした旅の女性。その人物が砂海を彷徨って探し求める相手に復讐心を向けることは、少なくとも彼の心情としては正当だった。

 その男が、記憶に残る人物と同じ言動をとることは少年にとってむしろ望ましい。目の前の相手と記憶の人物が違和感なく重なり合えば合う程、彼の怒りも純化するはずだった。

 しかし今、縋りつくようにして見上げるその眼差しは彼の知るものと近しくはあっても、ひどく異なっていた。


 あの人とは違う。

 瞳の中に二重の環を描いた、奇怪な眼差し。


 確かに似ている。周囲の注目を避けるような視線の伏せ方も、いざ目を合わせればこちらの奥を覗き込んでくるような強い力も。目の前の物事を冷静に捉えようとする姿勢も、セスクの脳裏には確かにあった。

 けれど、少年は覚えていた。

 黄金色に塗りつぶされたあの時、あの場所で、あの女性の瞳は歪んでいた。無言のまま、その瞳からはなにかが溢れようとしていた。涙、謝罪、言い訳。あるいはもっと他のものかもしれない感情の欠片、その何かしらが垣間見えた。


 目の前の、この相手は違う。


 ――砂だ。

 全てを覆い尽くす砂。どれだけ水を零しても瞬く間に吸収して、乾いたまま変わらない砂の海。

 どこまでも平坦に凪いだ大海が、男の眼差しの向こうに広がっていた。


 男は動じない。

 まとわりつく少年を疎うのでもなく、顔を歪めることすらなく、冷ややかさというには熱のなさすぎる眼差しを下向けている。

「……ちくしょう!」

 まるで自分が石ころにでもなったような気にさせられて、セスクは防砂具に包まれた男の腕に噛みついた。砂の味がした。そのまま防砂具ごと食い破って、血肉まで届かせてやろうとさらに強く歯を突き立てる。

 頭の上でかすかな嘆息が漏れた。

 首筋に指圧。すぐに視界が暗くなるのを感じたが、セスクは噛みつくのを止めなかった。殺されたって、殺してやる――その気概をすぐに身体が裏切って腰が砕け、次いで全身から呆気なく力が抜けた。


 遠ざかる意識の中で、セスクは必死になって視界に憎い相手の姿を探した。せめてもの思いで睨みつける。

 ちくしょう、と思った。

 自分を殺そうとする間際にさえ、相手の眼差しにはなんの変化もなかった。自分が殺されつつあることより、そのことのほうが彼には悔しかった。



 気がつくと、顔見知りがすぐ近くからセスクを覗き込んでいた。

「うわあ!」

「うわあ、じゃない!」

 ぱこんと頭を叩かれる。セスクが日頃からよく通う飯屋の若い女性が腰に手をあてて彼を叱りつけた。

「いきなり外に飛び出して何事かと思えば! あんまり心配させないでちょうだい」

 大きな瞳に覗き込まれてセスクは視線をそらした。自分がよく知る場所にいるのだということに気づく。目の前の女性が働く職場、昼時を終えても人の絶えない店内の奥、厨房横の広くない隙間に彼は寝かされていた。


「俺――」

「あのお客さんが連れてきてくれたのよ。殴りかかったんですって? 馬鹿ねえ」

 殴りかかったんじゃなくて、噛みついたんだ。彼が記憶にある直前の行動を訂正しなかったのは、開きかけた口の中に違和感をおぼえたからだった。痛みはないが、歯が抜けてしまったかのような具合の悪さがある。それほど必死に噛みついていたらしい。

「……あいつは?」

「行っちゃったわ。宿を探すって言ってた」

 なら、まだこの町にいるということだ――起き上がりかけたセスクはその頭を掴まれて、無理やりに姿勢を戻された。弱くない勢いで押し倒され、勢い後頭部を打ちつける。頭を抱えて悶絶する少年に、半眼の女性が告げた。

「寝てなさい。あんたのとこの隊長さんには、ひどい熱が出たってあたしから言っとく。余りものの差し入れも持ってって、そのことで明日イジめられたりはしないようにしてあげるから安心していいわ」

「病気じゃないし、怪我だってしてないよ!」

「いいから、黙って言う通りにしときなさい」

 抗おうとする少年を全身の力で抑え込みながら、女中は迫力ある笑顔を浮かべた。ふとその笑みを収めて、

「……さっき会って気づいたのよ。あの男の人、あなたが前にこの町に来た時、一緒だった女の人が探してた人でしょう」

 セスクは言葉を呑んだ。全身を強張らせて目をそらす。

「そう」

 それを見て息を吐いた女性が、物憂げに宙を見た。


「そのあたりの事情は聴いてないし、よくわからないわ。だけど、とりあえず今は寝てなさい。いいわね、あたしは今からあんたの職場に行くの。迷惑かけてごめんなさいってしおらしく頭を下げにいくのよ。なのに、ひどい熱で倒れてるはずのあんたが外をうろついて、それを誰かに見られたらあたしの信用問題なの」

 そんなこと頼んでいやしない、とセスクは言いかけた。彼はこんなところで休んでいるつもりはなかったし、馬の世話だってサボるつもりはなかった。

 口を開きかけた眼前に人差し指を突きつけられる。

「信用はとっても大事なのよ。わかるわよね?」

 毎日の客商売で身につけた仮面のような笑みを浮かべて、女性はゆっくりと繰り返した。

 この町にやってきてほとんど毎日、セスクはこの店で食事を世話になっていた。それ以外にも色々と気にかけてもらっているこの相手には感謝しているし、それ以上に苦手にも思っている。真正面からの反抗は不可能だった。

「……わかった」

「よろしい」

 仮面を外してにこりと微笑んだ女性が、ああ、と思いついた顔で人差し指を立てた。

「あたしがいないあいだ、看病はマスターに任せてあるわ。なにかあったら声をかけて。もっとも、仕事の邪魔なんかしたらどんな目に遭わされるかわからないけど。包丁持って追いかけまわされたりしないように気をつけてね。よろしくね、マスター」

 女性の言葉に応えるように、厨房でなにかの仕込みをしている中年の男が音高く包丁を振りおろした。元兵士上がりの寡黙な主人は二人の方を一瞥もしない。

 女性の強引さと同じ程度、店主の頑固さもセスクにはわかっていた。目の前の相手がいなくなってから抜け出す道も封じられてしまい、少年はこの場からの脱走を諦めた。

「……ちゃんと大人しくしてる」

「そうしなさい」


 得意げに笑った女性が立ち上がる。ぽんと胸を叩かれたセスクは、女性の手が離れたあともそこにかすかな重みがあることに気づいて、胸元を覗き込んだ。見慣れないものが光っている。

 金貨だった。

「あの男の人が、あんたにって。迷惑料のつもりかしらね? 殴りかかられて、その相手を運んできてくれた挙句、金貨までくれるなんて凄い話――」

 からかうように言いかけた途中で、女性は口を閉じた。

 セスクの目に涙が浮かんでいる。帝国金貨がどれ程の価値を持っているか彼は知っていたが、その涙はもちろん喜びに由来するものではなかった。

「――なにか、言ってた?」

 胸に込みあがるものを必死に堪えながら、少年は訊ねた。

「あいつ。サリュ姉ちゃんのこと、なにか聞いた?」

「……ううん」

 女性は正直に答えた。


 その答えをセスクは予想していた。

 もし男に聞くつもりがあれば、自分を気絶させる前に聞いているだろう。サリュはどこだ。なにがあった。今あいつはなにをしている。聞くことはいくらでもあったはずだ。

 それに対して嘘をつくなり、もったいぶってみせるなりできたのに。できるはずだったのに。男の反応は一言だった。――そうか。

 その言葉を固めて端的に象った代物が、少年の胸元で白々と光り輝いている。


 ツヴァイを中心とする水陸経済において、貨幣は必ずしも末端まで行き渡っているとは言い難い。河川水路を中心とする交易圏では既にその存在は不可欠なものとなっていたが、そこから離れた辺境ではいまだ水や塩に比べて不安定な価値に留まっていた。

 水路からやや遠くにあるタニルだが、その地理的条件から商人の往来は多い。タニルの存在はツヴァイの国防上の意味合いが強かったから当然ではあった。その為、貨幣の価値が極端に低いということはない。

 真っ当な帝国金貨が一枚あれば、一つの家族が一月以上は楽に生きていける。金貨というものには概ねその程度の価値があった。

 道案内の対価としては破格に過ぎるのは当然、迷惑料云々でというのも意味がわからない。ならばこの一枚はどういった意味を持つのかと考えれば、彼にも容易に想像がついた。それが感謝なら知人の生存を知らせてくれたことへ。謝罪としてなら、彼の父親が殺されたことについて。


 ……ふざけるな。

 怒りに打ち震えて、セスクは奥歯を噛み込んだ。

 経済的価値など彼には知ったことではなかった。たとえ山ほどの金貨を積まれたところで天秤の片側に釣り合うことのない、彼の抱く怒りはそうした類のものだった。

 黄金の価値など他人に教えてもらうまでもない。彼はイスム・クの出だった。黄金の在処。集落の人々が誇って、あるいは卑下するように名乗ったその小さな集落は、乾いた一帯に航路を引き戻す水場として急速に在り方を変化させようとしていた。言葉通り、莫大な黄金を招くオアシスとして。


 人の生きる業欲の象徴。しかし、今、彼の胸元に光るその物体は彼の知らない輝きを発していた。それはひどく寒々しく、無機質で薄っぺらい固まりだった。


 まるで自分が抱く感情そのものを根底から否定されたように思えて、それが少年には許せなかった。それは彼が仇として心に抱く相手へ向ける感情とはまったく別種の怒りだった。

 違う。こんなんじゃない。黄金っていうのは、こんなものじゃない。

 目を瞑り、必死に脳裏へと描き出す。――短い旅の途中、夕焼けへ落ちる地平に見たあの黄金の平原と微かに微笑む誰か。それとは異なる夕焼け頃、誰かの血を浴びて立ち尽くす誰か。そうだろう、サリュ姉ちゃん。黄金ってそういうものだろう。


 だからこそ。姉ちゃんは俺の親父を殺したはずなんだから。


 昏い瞳で、彼に会うまでは誰かの血を啜ってでも生きてみせると言った。その決意には、その決意に基づく行動にはそれだけの価値があるはずだった。その対象にも、そうあって欲しかった。

 それなのに。

「あんまりだよ……。あんまりじゃないか。姉ちゃん――」

 堪えきれない涙が溢れ、くしゃくしゃに崩れる顔面を両手で覆ってセスクは泣いた。ひどく虚しかった。

 なんの為に怒っているのか、誰の為に泣いているのか自分でもよくわからなかった。



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