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砂の星、響く声  作者: 理祭
 一章 国境の砦町
83/107

 雑多な人混みに溢れた店内の一角で、テーブルに二杯の水が置かれている。

 店内の喧騒が床を振動させ、卓上まで伝わる揺れが細かな波となって椀の水に止むことなく浮き出ていた。テーブルについた旅人風の男が、しばらくその様子を眺めるようにしてから、一方の椀を手に取ってゆっくりと回し始める。

 注がれた水が縁から零れ落ちないよう、手慣れた動作でそれをしばらく行ってから、卓上に戻す。緩やかに波打ち、やがて落ち着いて再び微細な波紋へと戻るとまた手に取って、回転させる。


 奇妙な行いをとる旅の男を、その反対に座るもう一人が食い入る眼で見つめている。少年はほとんど睨んでいるような表情だった。

「……どうしたの?」

 炒め物を乗せた皿を持ってきた若い女中が怪訝そうに声をかけた。

 旅装の男も、顔馴染みの少年からも返事がない。暇と不安に飽かした客達の相手を一人で見なければならない女中は、特に気にも留めず目の前の不可解な光景を意識の外に追いやることにした。手品でもやっているのだろうか。旅芸人のようには見えなかったけれど。


 女中が去った後も運ばれた料理に手をつけず、男は同じ動作を繰り返した。息を詰めてそれを見つめる少年が、目の前で行われる奇怪な動作が何度目のことだったか自信がなくなってきた頃になって、ようやく別の行為に出る。

 それまで手のつけていなかった椀をそっと手にとると、男はそれを一口した。ただ一口で卓に戻して、今度はもう一つの椀に口をつける。

 ……呪いか何かだろうか。二つの椀を交互に飲み比べるような行いを見る、少年の内心の疑問を耳にしたように男はふと顔を上げて、素っ気ない声で訊ねた。

「飲むかい」

 少年が黙って首を横に振る。そうかい、とやはり素っ気なく頷いて、男は料理に取り掛かった。ありあわせの物を炒めただけの一皿はすでに熱を失いかけてしまっている。それを無言で平らげると、最後に二杯の水を一息に喉へ流し込んで席を立つ。

「――ごちそうさま」

「あ、はーい。またいらしてくださいねっ」

 数枚の硬貨を卓に置き払いして、男は店の外へと出て行った。


「変わったお客。ご飯だけ食べて、話もしないで行っちゃうなんて。戦争が始まる前にこの町を出ていこうとしてるのかしら? もう間に合わないと思うけどなぁ」

 片づけにやってきた女中を見上げて、少年は張り詰めた顔と声で訊ねた。

「……顔、見た?」

「顔? けっこういい男だったかもね。あんまり見えなかったけど」

「俺、行ってくる――」

 相手の言葉の途中で立ち上がり、少年は駆け出した。

「あっ、こら。なんなのよ、もう。いろんな人がピリピリしてるから、気をつけるのよ!」

 背中の声を無視して外に出る。

 町のすぐ近くにボノクスの兵が迫っているという状況で、町は混乱していた。店を出た大通りにはいつも以上の人の姿があり、会話が錯綜している。無数の気配に溺れるように、少年は周囲を見回して見覚えある旅装姿を探した。


 ――いた。いや、違う。別の人だ。

 近くに目当ての相手は見当たらなかった。すぐに後を追いかけなかったことを後悔して、それ以前に店の中で声をかけなかった自分自身を罵倒した。

 だが、それは彼にとってはひどく勇気の必要な行為だった。

 焦燥の募る胸中で呻く。今の相手はもしかしたら、きっとそうだ。そうに違いない。


 あれは、お姉ちゃんが探してた男の人だ。


 どくんと心臓の鼓動が高鳴る。少年の脳裏にいつかの光景が蘇り、鮮明な黄金色が世界を覆った。夕焼けの中に佇む異相の瞳を持つ女性。その全身が朱色の黄金に染め上げられている。その前に倒れている彼の父親。

「……ょう」

 誰かの声を遠くに聞き、我に返った。視界が滲んでいるのに気付いて乱暴に頬で拭う。拭った先からじわりと滲みだして際限のないそれに、少年はちくしょうと繰り返して毒づいた。

 ぽんとその頭に手を置かれる。

 少年が後ろを振り返ると、見失ったはずの相手がすぐ側にあった。目線を下げないまま、抑揚のない声が囁かれる。

「なあ、君。ちょっと案内を頼みたいんだが」



 こぶつき馬を連れたその若い男は、その事からわかるようにこの町に着いてきたばかりの様子で、荷を下ろす為の宿を探しているのかと少年は思った。

 しかし、男が案内を欲したのは一見の客にも信用のおける宿屋ではなかったらしく、

「この町で一番の高台はどこだろう」

 少年は黙って町の一画を指さした。土に汚れた指の先には、全体が砦の様相を固めるこの町の中心である領主の館がそびえている。頷いた男が、

「誰でも行ける場所だと? 東側に視界が拓けたところで」

 少年は腕を下ろして歩き出した。


 その後ろを男もついてくる。こぶつき馬を曳きながら後ろに続く相手の気配を感じながら、少年は自身の行動に疑問を抱いていた。いったいなにをやっているんだろう。案内なんてしてないで、聞かなければ。名前。そう、名前だ。それを確かめれば本人かどうかわかる。……その後、どうする。

 この町で少し前から兵役についている少年は、下っ端の雑用でしかない。ナイフさえ持たされていなかった。手持ちには、武器になりそうなものはない。

 ――武器。自分の発想が自然とそこに行き着いたことに少年は全身を強張らせた。この人が親父を殺したわけじゃない。けれど。この人は、その相手の知人かもしれないのだ。

 自分の感情を持て余すように、少年は握りしめた拳を開き、また固めた。その後ろを歩く男の眼差しが少年のせわしない所作を一瞥したが、男は口を開かなかった。


 国境の町タニルは、砂海に盛り上がる巨大な岩に張り付くように存在している。天然の要害に人の手を加えて砦としたその町の、見晴らしのよい幾つかの場所には既に多くの町の人間が詰めかけていた。

 遠く東の地平に蠢く集団を指さし、不安そうに顔を見合わせる人々の横を通り過ぎて、少年は自分だけが知る高台へと男を案内した。低い視線でなければ気づきにくい裏道の幾つかを潜り抜け、見晴らしのよい高台に出る。切り立った崖の裏側。そこは、この町に住むようになってまだ一月もない彼がつい先日見つけだしたばかりの秘密の場所だった。

「ああ、凄いな。一望できる」

 大人の体格では難儀な小道をさすがにこぶつき馬を連れてやってくるのを諦めた男が、近くに馬を繋いでからやってくる。砂に煙った空色を映して感嘆の声を洩らす相手に、少年は黙然と頷いた。

 男が手持ちの荷から何かを取り出す。布巾の中から取り出されたのは二つの半透明の石で、男は円状のそれを自分の目の前に持っていくと遠くを眺め始めた。両手の位置を近づけたり遠ざけたりするのを、さっきのとは違う呪いが始まったのかと少年は気味悪く思った。


「……それ、なに」

「レンズだ。遠くを見るのに使う。……けど、さすがに遠すぎるな」

 片目を閉じて石を覗き込むようにした男が、少年にちらりと目線をむけた。黙って片方を差し出される。少年はしばらく迷ってから、それを受け取った。

「足元を見てみるといい。太陽は駄目だ、目が灼ける」

 半透明な石。これが宝石というものだろうかと、恐る恐る少年はそれを手に取って、足元へと視線を落として。ぎょっと驚きに飛びすさった。

「なに、これ――」

 透明な石の向こうに砂地が拡大して写っている。上ずった声をあげ、少年が驚きのあまり手放してしまった凸レンズを拾って、男が肩をすくめた。

「そういう道具なんだ。小さいものを見たり、火を起こしたり」

「……魔法使い?」

 呆然とした少年の呟きに、男が視線を向ける。自分を見下ろす相手の、片方しかない眼差しがひどく乾いていることに少年は気づいた。

「いいや、ただの道具だ」

 それで口を閉じると、男は再びレンズを構えて遠方へと視線を投じた。


 男が気分を害したのかもしれないと、恐る恐る少年は相手の様子をうかがって、なんでそんなことをしなくちゃならないんだと頭を振った。

 目の前の背中を睨みつける。

 レンズとやらを掲げて覗き込む、男の意識はそちらにかかりきりになっていた。こちらなど見ていないし、注意すら払われていないように思える。

 少年は男の足元に目をやった。男は切り立った崖の縁に足をかけるような体勢でいる。後ろから軽く押してしまえばすぐに転げ落ちてしまうだろう。下は突き出した岩山と、硬い地盤。即死するとは限らないが――町にやって来たばかりの余所者を、いったいどこの誰が助けるというのだ?


 人知れず、少年の呼吸はひどく荒いものになっていた。その音が相手に聞こえてしまうのではないかと、慌てて息をひそめた。すぐに息が苦しくなる。まるで運動をしたわけでもないのに、彼の肉体は多くの呼吸を求めて喘いでいた。

 くらりと足元が揺れて、そのことにぞっとする。相手を突き落とすどころか、自分が真っ逆さまに転げ落ちかねない。落ち着け、落ち着け、と自分自身に言い聞かせて、少年は混乱した頭に思考を巡らせた。

 ――名前だ。まずはそのことを確認しないと。人違いで人殺しなんて、冗談じゃない。


「名前は?」

 もしかしたら、自分の考えていることは全て相手に伝わってしまっているのではないかと少年は戦慄した。

 珍妙な飲み方で水を飲み、物を大きくする石を持っていたりもする。この男は呪い師に違いないと少年は決めつけていた。呪いを使えるなら、心を読めるくらい不思議じゃない。なら、自分がなにを企んでいるのかもお見通しってことじゃないか!

 逃げ出したいが、足がすくんでそれもままならない。声を失って沈黙する少年を振り返らないまま、男は繰り返した。

「君の名前は? 俺はリト」


 ――やっぱり。

 そのごく短い音の響きを耳にした瞬間、少年のなかで萎えかけていた激情が燃え盛った。リト、リト、サリュの探すリト!


 意識が暗転しかけた。身体を自然と維持しようとする機能すら失いかけて激昂する、自分の殺意に少年は立ちくらみを覚えてよろめいた。

 いっそそのまま、目の前の男を突き落してしまおうか。胸中に囁きが誘う。もしかしたら自分も一緒に落ちてしまうが、かまうものか。

 少年の自棄は、しかし若い男が彼を振り返ったことであっさりと制されてしまう。機を逸したことに歯噛みして、少年は足元に目を落とすと唸るように応えた。

「……セスク」

「そうか。案内してくれてありがとう、セスク」

 それで、と乾いた声色で男は続けた。

「君は死にたいか? それとも生きたいのか」


 少年は顔を歪めた。

 前にも言われたことのある台詞だった。聞いた通りの風貌、名前。吐く言葉までそれだというなら、もはや勘違いのしようもない。自分の仇自身を目の前にしたように、少年は男を睨みつけた。

 少年の態度の急変に眉ひとつ動かさず、男は続けた。

「死にたいなら、好きにすればいい。――もう少し生きたいなら、どうにかして馬と水と食料をあるだけ用意してここから逃げ出した方がいいな」

 それが自分への忠告だとわかって、少年はさらに不快感を覚えた。どうして殺してやろうと思っている相手からそんなことを言われなければならないんだ。

「……知ってるよ。戦争、だからだろ」

 だからって。自分にはもう、どこにもいくところなんてない――少年が怒気のこもった激情を迸らせる前に、「そうじゃない」と男が否定した。

「普通の戦争なら、この町に籠っている方がいい。タニルは堅牢だ。率いる人間が平凡だろうと、倍以上の軍に囲まれたってそうそう落ちやしない」

 少年は眉をひそめた。

「じゃあ、なんで――逃げろなんて」


 抱いて当然の疑問に、そこで初めて男が表情を変化させた。苦々しく頷いて、

「相手が普通じゃない」

 手に持った石を二つとも投げて寄越す。慌ててそれを受け取って、こんなもので命乞いされても許してやらないぞ、と少年は内心で息巻いた。しかしもちろん、男はそんなことをするつもりではなかった。

「見てみろ。左手の石を手前、右手を奥に、重ねるようにして。……もっと近く。――違う、そうだ。景色がぼやけてるか? 大丈夫ならそのまま、集団の中央辺りを見てみるといい。いろんな旗が立ってるだろう」

 男に言われるまま二つのレンズを覗き込んで、少年はこくりと頭を頷かせた。遠くにあるはずの光景が、まるで手に取るようにとはいかないが、多少は形がおぼろげになるくらいの大きさになっている。そこには確かに無数の人と、そして旗が突き立てられていた。

「陣旗っていうのは、名乗りだ。敵と、それから味方に喧伝するのさ。我何々、ここに在り――っていう。ボノクスの戦は機動戦主体だ。旗の上げ下げで命令伝達するのは、手っ取り早くはある」

 男の解説の大半は、少年の頭にはなじまなかった。だが、視界にある無数の旗がひどく不吉なものであることは本能で理解できた。すなわちそれは、旗を掲げる者達の猛々しい戦意の表れであるからだった。

「まだ細かい意匠まではわからない。けど、待つまでもないな。一番目立つのがどれかなんて、探さないでもすぐわかるだろう」

 少年は無言で頷いた。


 確かに男の言葉通り、わざわざ探し求めるまでもなくそれは明らかだった。無数に突き出された中でただ一つ、異なる気配を醸し出す一旗に彼の視線は自然と注目した。

 望遠の視界越しにもまだ麦粒のような大きさでしかないそれは、しかし明らかにその他のものとは異なっている。まずは色そのものから。


 濃紅。夕刻のただ一時、世界を塗りつぶす朱色を一点に凝縮したような色合いが、砂に煙る地表近くにあって燦々とその存在を誇示していた。

「真紅の戦旗。征服してきた人々のもっとも気高い血と、もっとも唾棄すべき血とを等分に吸わせて、染め上げられた死と勝利の旗。それを掲げる氏族は一つだ」

 男の説明が続く。その言葉に畏怖に近い響きがまじっていることに、少年はレンズから視線を離した。

 背後を振り返った少年に男が肩をすくめる。その表情に畏れや恐怖はなかったが、かわりに苦いものを口にしたような渋面になっていた。

「南の河川域の押し合いと同時に牽制を出すのは常道ではある。陽動か、それともそう見せかけて案外こっちが本命か。どちらにしても、できれば来てほしくない人がこちら側の担当になってしまってるらしい」

 辟易した様子で呟く。

 少年は男の表情から、再び遠方の光景へと視線を戻した。砂海の彼方、戦塵を立てて町に近づくその集団の中のたった一旗は、レンズを通さなければ判別することはできないが、しかしそうした行為にでるまでもなく、その不吉な気配は集団全体に影となって広がっているようだった。


 血の赤。死の赤。戦の赤。


 ツヴァイと水陸の覇を競うその国の主族構成や、それぞれの由来について少年はまったくの無知だった。孤立した豊かな水源に籠り、周囲との関わりを断っていた彼の生い立ちでは仕方がないことだが、同時に幸運でもある。それを知っていれば、不意の出会いで負荷がかかり、消耗した少年の未熟でか弱い精神は、さらに致命的な痛打を受けてしまっていたに違いなかった。


 東の大国ボノクス。諸部族の連合体を主導する四氏族の一つ、その中でもっとも苛烈な戦ぶりで知られる氏族の旗がそこにはたなびいていた。



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