エピローグ
砂原を行く一団に勝利の凱歌はなく、敗北に打ちひしがれた様子もない。
傷つき、少なくない仲間を失って、その憤慨の向け先として敵と殺しあうことすら許されなかった男達は、皆一様に強い疲労を背負っていた。しかし、砂に焼けた顔つきに不満の類だけは表れていない。
集団の先頭では、一人の女性が疲れ果てた男達を先導するように歩いている。
その足取りは決して力強く、自信に満ち溢れたものではなかった。傍から見れば頼りなく、足元の砂に流されているのではないかとさえ疑ってしまいそうな後に続くことに、男達は迷いがない様子だった。
それは信用とは異なるものに見えた。彼らが生きる為の前提、あるいは決め事と。
「……標って。ああいうものなのね」
帰途につくウディアの集団から少し離れて、それを眺めるように歩いていたサリュはぽつりと呟いた。馬に乗ってその隣を歩くユルヴが素っ気なく応える。
「そうだな」
部族の神子。あてのない砂海を生きる人々を導く為に求められる役割を、シオマは過不足なく果たしていた。
自分の見た夢に怯え、自分のもたらす言葉が誰かを死に追いやることを恐れていた、昨日までの女性の影はそこにはない。背後を振り向くことすらしない女性は、亡くなった先代神子が望んだように、その死をもってあるべき在り方を獲得したようだった。
……あるべき在り方。釈然としない気分でサリュは呻いた。
超然として敵味方に語りかける、あれこそが正しい姿だと言うのだろうか。確かにそうなのかもしれない。さっきの彼女には、一種の厳かさとさえ言える気配――部族と街の人間の争いを一瞬で収めてしまったあの山風さえ、彼女が呼んだのではないかと思えてしまうような――があった。
それは本当にシオマがなにかを手に入れた結果なのか。むしろ、
「……砂海は広大だ」
サリュの胸中の独白を聞いたように、ユルヴが囁いた。
「一面の砂を瞳に映すことは、自身をその大海に投げ出すことに等しい。だから、時々そこから帰ってこれない者もいる。魂が、砂海を彷徨うんだ」
サリュはシオマの眼差しを脳裏に思い出した。澄んでいて、同時に濁ったような。誰かに似た眼差し。
自身の連想にぞっとして、サリュは肩を抱いた。呻く。
「……私のせい?」
シオマを集落から連れ出すようなことをしなければ、彼女はああはならなかった。未熟で、たとえ何事にも怯えていても、それでも以前の彼女のままでいられたかもしれない。
私が、彼女を殺した。今の彼女は――砂そのものだ。
ユルヴは応えなかった。
顔を俯けたサリュの耳に、隣で馬から降りた気配が伝わった。砂を踏む音。
「――こっちを見ろ。サリュ」
顔を上げたサリュは次の瞬間、ユルヴに頬を張られた。
痛みはなかった。
驚きに相手を見やる。部族の少女が、睨みつけるように見上げていた。
ユルヴは顔に巻きつけた防砂具を乱暴に剥ぎ取ると、表情一杯に怒気を浮かべて口を開いた。
「わたしの目を見ろ。わたしの中に映る、お前を見てみろ」
噛みつくように告げる。
「わたしもか? お前と一緒にいた、わたしもあんな風になっているか? あいつはただ、弱かっただけだ。己がままでは部族一つの生末を抱えきれないと、だから砂にすべてを投げ出した。そして空っぽな己に砂を取り込んだ。逃げ出したんだ、奴は」
「ユルヴ……」
「逃げ出した。それでも果たすべき責があった。だからあいつは“ああ”だ。あれが、あの女なりの責任の取り方なんだ。サリュ、そんなことまでお前の責か? お前のせいで、あいつはああなったのか?」
サリュに寄り添うクアルが低い呻き声を発した。サリュに手を挙げたユルヴに怒ってというよりは、控え目に賛同するような声だった。
自分を見上げる二人分の視線に、サリュは黙ったまま叩かれた頬に手を当てた。じわりと熱を持ち始めている。湯に溶かされるように、ゆっくりと痛みが浮かび上がってきていた。
「わかってる」
サリュは頭を振った。
「わかってるわ。……でも、どうしよう。ユルヴ」
溢れる感情を押しとどめるように顔を覆う。悲嘆に暮れた声が漏れた。
「――もしも、リトもシオマさんみたいだったら。私、どうすればいい?」
いつか再会できた相手が、あんな眼差しでこちらを見てきたら。サリュの脳裏に過去の記憶が蘇った。一年前、暴動と大火に巻かれた街で、自分以外の何者も拒絶するような言葉を吐いた男の眼差しを思い出した。
彼をそうしない為に、追いかけた。けれど離れ離れになってしまった。そうして、今も彼を探している。また彼と会えた時、同じような目と言葉をかけられても竦まずにいられるだろうか。――あの人の代わりを務めることができるだろうか。
「決まっている」
ユルヴは断言した。
「思いきり殴ってやればいいんだ。わたしがお前にやったようにな」
リトを殴る。
トマスの女騎士からも似たようなことを言われていたことを思い出して、サリュは俯いた。
「わたしは殴るぞ。お前がくだらんことを言う度に、何度でもな」
サリュは顔を上げ、まじまじと目の前の少女を見つめた。
まったく本気の眼差しが返ってくる。
こんなにも自分を案じてくれている相手がすぐ傍にいることに、サリュは心から感謝した。目を閉じる。
「――ありがとう、ユルヴ」
ふん、とユルヴが照れたように鼻を鳴らした。目線をウディア族の先頭を歩く女性に向けて、
「で、どうする? あいつも殴ってやるか?」
「……わからない」
サリュは力なく頭を振った。
変わってしまったシオマに対して、どのような態度で応えるべきなのかわからなかった。あれが彼女の責任の取り方だというなら、それにどうこう言えるものとは思わなかった。殴りつけるなどとんでもない。そもそも、そんな権利が自分にあるとも思えない。
無力感に苛まれ、サリュは唇を噛み締めた。
それでも、と心に思う。どれだけ自分の非力さを痛感しても、その痛みを抱えたまま歩かないと。彼に会うまで。再会した彼に、なにかを言える為に。
「まあ、お前の思う通りにすればいい。いつまでもウディアの集落にいるわけにもいかないがな。ワームに行くんだろう」
「……ええ」
「調査に来ていた連中も、自分達の住処に戻ってからどう出ることか。すぐにこの辺りは荒れる」
そういえば、とユルヴが思い出したように頷いた。
「あの男。ヨウだったか。帰った連中に見かけなかったが、連中の持ち帰った死体の中にもなかったな。山風に巻き込まれて、そのまま埋まれでもしたんだろうな」
「ううん」
サリュは首を振った。
「多分、生きてると思う」
「そうなのか?」
「……なんとなく。そんな気がするの」
常識的に考えれば、足に傷を負った状態で、誰の目にも触れず逃げおおせたとは考えにくい。それでもあの冷ややかな眼差しの男が、あのまま朽ち果てたようにはサリュには思えなかった。あるいは願望じみているかもしれない、そうした確信があった。――なにより、リトのことについてまだ話を聞けていないんだから。死なれていたら、困る。
双眸に暗い色を浮かべるサリュを見やり、なにか言いたげに口を開きかけたユルヴが、ふと視線を転じた。
「――なにか聞こえないか」
「なに?」
言われて、サリュも耳を澄ませてみた。
風の凪いだ砂海は穏やかに静まり返っている。その静けさが、サリュにいつも聞く幻聴のような木霊を呼び起こす前に、小さな欠片を聴いた。
風に乗って届くわずかな音。それは、帰途につく集団の前に姿をみせた集落から届いていた。
集落に残された女子どもが、男達の帰りを待って奏でているのだろうか。そうとも思えなかった。声はひどく薄く、途切れるような音階は明らかに、女性達の喉から発されるものよりも低い。
サリュとユルヴは顔を見合わせた。
歩を急がせ、集落へ向かう。
集落へ近づくに連れて、徐々に声が大きくなる。ひどく皺枯れた一人の声だとわかった。
天幕が群がる外れ、集落の端に集団ができている。子供たちの輪をかき分けるようにして、サリュとユルヴは足元の高さまで視線をおろした。
「――ああ、これはこれは」
全身を埋められて、頭だけを地面から出した男がにこりと微笑んだ。
「随分と、お帰りが遅かったですねぇ。ひとまず、ご無事でなによりです」
「……こっちの台詞だ」
半眼になったユルヴが言った。
「よく生きていたな。まさか一日、そのまま歌っていたのか」
「いやあ。さすがに声も出なくなってきて……困っていたんですよ」
吟遊詩人のラディが笑う。体中から水分をなくし、掠れきった声だった。
「部族の人達がでていってから、ずっと。そうしてたんですか? そんなの――」
目の前の男の生存を信じられず、サリュは頭を振った。
ンジとの距離を考えて、部族の男達は少なくとも一日以上前には集落をでていたはずだった。砂海に丸一日間を埋もれて命があるだけで奇跡だというのに、歌まで歌っていてはただ命の猶予を短くするだけのことにしか思えない。
「いやいや、逆ですよ」
砂にまみれた男が言った。
「聞いてくれる人が周りにいれば、日差しを防ぐ影もできます。歌に興味があれば、どれもう少し生かしておいてやろうかと、水だってかけてくれるというわけで……。いや、さすがにレパートリーも苦しくなってきましたし、もう喉が限界でしたけどね……」
くたびれきった様子で、それでもなお笑ってみせる。砂に埋めて放置されるという拷問以外の何物でもない処置を受けて笑みを絶やさずにいられる男の肉体的頑強さより、精神的図太さにサリュは声もなかった。
ユルヴを見ると、彼女もまったく同意という表情だった。肩をすくめてみせる。
「……これだから、町の連中は理解できん。阿呆か、それとも大阿呆なのか」
ともかく、砂から出してやらなければ。その前に水を飲ませるべきだということにサリュが気づいて、腰元の水袋に手をやったところで影がかかった。
振り向くと、すぐそこにシオマが立っていた。
砂色の感情を宿した眼差しが、埋められた男へと向けられている。
出かけの時とは明らかに異なる雰囲気をまとった女性に、砂中からそれを見上げたラディは、眩しそうに目を細めて。
にっこりと微笑んだ。
「……おかえりなさい、シオマさん。何事もなかったようでなによりです」
シオマの様子が違うことに、一目見て気づかないはずがなかった。だがラディはなにもいわず、笑顔を向けている。
声をかけられた女性は無言のまま、男の声など届いていないように聞き流しているように見えた。
いや、違う。小さな変化に気づいてサリュは目を見開いた。
凪いだ大海のように平坦だった瞳に、うっすらと透明なものが浮かび上がっていた。内側から沸き上がったそれが、ゆっくりと女性の砂色の瞳を潤ませていく。肩が震えていた。
「シオマさん……」
声をかけられた女性は、そこではじめて自分が泣いていることに気づいたようだった。
恐る恐る頬に手をあてる。そこに、砂ではない涙が伝って零れた。
女性の顔が歪む。
そのまま、声もなく女性は涙を流し始めた。
「水天の恵みは空に、そして人の心にあるものと申します」
周囲をかこむ誰も声をかけられない。そうした場の雰囲気をまったく無視するように、干からびる一歩手前のはずの男が砂に埋もれたまま、表情だけは揚々とした笑顔で口を開いた。
「ともかく、まずは皆様のお帰りをお祝いしましょう。不肖ながら歌わせていただき――」
「まずは水でも飲んでいろ」
呆れた様子でユルヴが頭から水を浴びせかける。子ども達もそれを真似た。
「ああ、これはどうも。ありがとうございます――いえ、あの、ちょっと歌いにくいんですが……」
四方から水をかけられ、溺れそうになりながら男が苦悶の声を上げる。それを見て喜んだ子ども達が手を叩くのを見ながら、サリュはそっとその場から離れた。
「どうした」
気づいたユルヴが後を追ってくるのを振り返って、サリュは頭を振った。口を開きかけ、なにを言おうとしていたか自分でもわからなくなって、再び頭を振る。
「……歌えるのって、やっぱりいいなって」
彼女達の場所まで歌声が届いている。ひどくしわがれた、情けない音階の調べを聴きながら、ユルヴが肩をすくめた。
「練習するんだろう? 約束を忘れたとは言わせないぞ」
「わかってる」
はにかむように微笑む。告げた。
「――ワームに行くわ。自分にできること、やらないと」
「そうか」
ユルヴはあっさりと頷いた。
サリュも頷き返して、ふと空を見やる。
声を聞いたわけではなかった。聞いたとしても幻聴だろう。あるいは何かの予感かもしれない。
風が吹く。
その風は、熱さをともなって東から吹き込んで来ていた。
◆
ツヴァイ東部の砦、タニル。
ここ数年、東の大国ボノクスとの国境を務めてきたその町は軽い混乱状態にあった。
原因は、町から見届けられる視界に確認できる軍勢の存在にある。地平線に現れたボノクスの兵団は、ゆっくりと、だが確実にタニルへとその距離を近づけていた。
ここ数年なかった戦が始まる。それに関わる人々の緊張は当然のものだったが、とはいえ砦の防衛に励む兵士達に動揺はない。彼らの指揮官である領主が今現在タニルを留守にしていても、兵達に対する訓令はよく行き届いており、少なくとも今のところ指揮系統に乱れは出ていなかった。
動揺と混乱の大半は、兵以外の民間人の間に生じていた。
先の戦役でタニルを奪還して以降、タニルはツヴァイ所属領として再建が進められた。単なる軍事拠点ではなく、衣食住を目的とした後方施設も含めた“町”としての機能を持つために、税制の優遇などで活発に他所からの移住者を募って来ている。
その結果、タニルには数年前の戦役を知らない住人も多い。むしろ、比率としてはそちらの方が圧倒的だった。
無論、タニルが国境に面している以上、戦争に巻き込まれる可能性があることは誰もが事前に承知していたことではある。それでも、実際にそうした事態を目の前にして落ち着いていられる者ばかりではなかった。
人々は不安と興奮に駆り立てられ、砦町タニルは奇妙に賑やかな戦前の雰囲気に包まれていた。
そうした時、いてもたってもいられない人々が集まるのは酒場、あるいはそれを兼ねた食堂になる。不安と緊張を紛らわす為に昼間から酒を飲み、大声でがなり立てている男達の中には非番の兵士の姿もあり、食堂は常にない繁盛さだった。
「ああ、もう。大の男がうるっさいったら!」
右から左から注文の大声を浴びせられ、若い女給が毒づくように天を仰いだ。
「今はあたし一人しかいないんだから、そんな次から次に追加追加言われたって追いつかないでしょ! 大人しく待っててちょうだいっ」
不平の声をあげる男達を睨みつける。年若いが堂々とした態度で、女性はてきぱきと厨房に注文を伝え、奥からできあがった料理や酒を配りまわった。その帰りに空いた皿をまとめて片づけ、手早くテーブルを拭いておく。酒の勢いで喧嘩を始めそうな男どもを引き離し、どさくさに尻を触ってこようとする相手を蹴り飛ばした。
文字通り、目も回るような忙しさで店内を駆けまわりながら、女性はふと店の隅に目をやった。
そこには周囲の騒動とはまったく無関係を決め込むように、暗い顔つきで一人が座っている。子どもだった。
「美味し?」
彼女が声をかけると、こくりと頭を頷かせる。陰気な反応に、彼女は気にした様子もなく微笑んだ。
「よかった。変なのに声かけられても無視すんのよ? 酔っ払いに絡まれたら、こっちの厨房に入って来てもいいからね」
再び無言で頷く。
「よろしい」
女性はにこりと笑った。同じ年頃の弟のことを思い出していた。
しばらく前から姿を見せるようになったこの少年について、彼女は深い事情を知っているわけではなかった。本人が喋ろうとしないし、彼女からも聞こうとはしていない。
彼女が知るのは、少年が少し前からこのタニルで兵役についていること。そして、それより少し前に、別の相手とこの食堂にやってきたことがあるということだった。
その時、少年と一緒にいた不思議な雰囲気をまとった女性が、今はどうして側にいないのか。それはわからないが、その時とは少年の雰囲気がまったく違うことから女給は何事かを察していた。この世の中には、いくらでも不幸が落ちている。
だが、それでも少年は生きているし、生きているからには食べなければならない。
少年が皿のものを平らげていることを確認した女性は、気配を覚えて店の入り口へ顔を向けた。
そこには新しい客がやってきていた。
店内の混雑ぶりに辟易するように立ちすくんでいる。全身に防砂具を纏った、いくらでも見かける旅人風の男だった。
「いらっしゃいませ――お一人ですか?」
フードを被ったまま無言で頷いてくる相手に、にこやかに微笑んでみせる。
「ちょっとばかり騒がしくしてますけど、それでもよかったら」
「頼む。なにか一皿と、それと水を二杯」
新しい客の響かせた声が若いことに、女性は軽く驚いた。それから男の言葉に疑問をもつ。
「二杯です? 他にお連れさんがいるのかしら?」
「いや、一人だ。水は二杯でいい」
よほど喉が渇いているのだろう。もうすぐここで戦が始まることも知らず、町に着いたばかりなのかもしれない――あまり深く考えずに自分を納得させて、女性は頷いてみせた。
「わかりました。今、混み合ってるんでこちらにどうぞ。ね、いいわよね?」
最後の言葉は目の前の少年に向けられたものだった。少年は黙って頷いた。
喧騒を抜けて店内を歩いた男がテーブルにつく。深い息を吐いて、それから忘れていたようにフードを取り払った。露わになった顔つきは意外に若い。
男の存在に関心を示していなかった少年が、ふと顔をあげ――その表情が凍りついた。
少年の反応に気づいた相手が、小首をかしげてみせる。
「……俺の顔になにか?」
静かな声音で訊ねた。
投げかけられた眼差しは声と同様、静かに乾いており。
その右目は、なにかに潰されたように固く閉じられていた。
水下の幻想 完