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砂の星、響く声  作者: 理祭
 四章 誰何の幻想
80/107

15

 大型荷船の往来する河川の両沿いには無数の人夫が群がり、遠方より送られた品物が積み下ろされ、また遠方へと送られようとする品物が途切れることなく運び込まれ続けている。商業都市トマスの繁栄を象徴する日常的な光景だが、今はその中に普段にはない雰囲気が紛れ込んでいた。


 水陸各域に伸びる大水路、その一方へ発する河川港で働く人々の顔は生き生きと精気に満ち、闊達な掛け声で物品を受け渡しながら、その表情にふとした影がよぎることがある。高く壁のように積み上げられた荷の影では、仕事の手を休めてひそひそと囁き声を交し合う姿もあった。

 東方での事態について、既に彼らもある程度の情報に触れていた。枯れたラタルクで生きた水場が見つかったことに加え、先年の戦役以来、大人しくあったボノクスが動き始めたらしいこと。それらをまるで実際に目にしてきたかのように、人々は様々な尾ひれを加えて語り合っている。


「まったく。実に恐ろしきはトマス商人の耳と口ってやつだな。いったいどこから聞きつけたのやら」

「あのような場で公にされたことだからな。無理もない」

 耳をかすめた水夫達の噂話に、軍装を着崩したケッセルトがうんざりとした表情を見せる。クリスは男から周囲で働く人々へと視線を移した。

「既に多くの商人は戦時用品の買占めに入っているだろうし、卸す方は卸す方で売り値札を書き換えるのに忙しくしているだろう」

「まさに商人どもの戦というわけだ。ふん、結構なことだ」

 口を歪める相手に、クリスは鋭い眼差しを向けた。

「貴公の思惑通りにな」

「おいおい、よしてくれよ」

 ケッセルトは大げさに肩をすくめた。

「その言い方じゃ、まるで俺がボノクスの連中を呼び込んだみたいじゃないか」

「違うのか?」

 クリスの表情と口調は、冗談といってすませるにはいささか厳しすぎた。


「貴公が任地を離れ、帝都へ向かったところを図ったかのような時機での出兵だ。そのような可能性に思い至らぬ貴様ではあるまい。少なくとも、ケッセルト。貴様はこの事を予測していたはずだろう」

「――よろしければ、そのお話は私にもお聞かせいただけませんでしょうか」

 桟橋に姿を見せたのはコーネリルだった。トマス上層部の末席に名を連ねる若い商人は表情にやや苦い笑みを刻み、背後にもう一人を連れている。

「先程は随分と驚かされました。この上、胸に疑問のもやを抱いたままでは寝るに眠れず、今後の商売にまで支障がでかねません。男爵にはご出立の前に是非、この疑問の幾ばかりかだけでも晴らしていただけるとありがたいのですが」

「ふむ。麗しいご婦人ならともかく、野郎なんかをいくら寝苦しくさせたところで少しも楽しくはないんだがな。その上、それを晴らしてやる義理もないわけだが」

「――ケッセルト!」

「おっと」

 コーネリルの脇をすり抜けて駆けだしたミセリアが男の胸元に飛び込んだ。女性を抱き留め、口づける。クリスが呆れるほど長い抱擁の後、ようやく顔を離した女性の顔をケッセルトが覗き込んだ。

「ミセリア。お前さんも一緒に来るか? といっても、ここなんかとは比べられんド田舎の、それもこれから戦場になろうって場所だからな。とてもお勧めはしないが」

「戦場の歌姫というわけ? それはとても惹かれるお話ね」

 ミセリアが笑った。

「でも残念、私はここに残るわ。まだ私はこの街でなにも成し遂げていないのだもの」

「そうかい」

 ケッセルトが肩をすくめる。数日の逢瀬を重ねた二人の別離は、それだけですまされたらしかった。


 クリスは眉をひそめ、遠慮がちに女性に声をかけた。

「ミセリア。いいのですか。街に残れば、なにかの嫌がらせがあるかもしれません」

 ケッセルトにもたらされた連絡はミセリアを介して伝えられていた。ケッセルトへの連絡が意図的に妨げられようとしていたのなら、ミセリアは自身のパトロンであるフリュグトを裏切ったことになる。これまでと同じ援助がミセリアに与えられるとは思えなかった。

「心配してくださるの? ふふっ、ありがとう。でも大丈夫よ。この街にはたくさんの人がいるんだもの。そのたった一人と関係が終わったところで、まだ知り合えてもいない人の数の方が大勢よ。また別の相手を探すわ」

 ミセリアはさらりと言ってのけた。名のある商人を袖にして後悔するところのない強さに痛快さを覚えて、クリスは柔らかく微笑んだ。

「わかりました。よければミセリア、私が――」

「ああ。待て待て、待ってくれ」

 渋面になったケッセルトが慌てて口を挟んだ。

「よしてくれよ。自分の女の世話を他の女にしてもらうなんざ、いくらなんでも情けなさすぎる」

 クリスは嫌そうに顔をしかめた。

「私がいつ貴様の女になった。これは私とミセリアの個人的な友誼の問題だ」

「いいや、こいつは外聞の問題だ。俺のな」

「貴公に自分の外聞を気にする繊細さがあったとはな。寡聞にして知らなかったぞ」

「意外だろ? また一つ知られざる内面ってやつを知ってもらえて嬉しいね」

 ケッセルトがコーネリルを見た。


「と、いうわけでだ。おたくのところで新進気鋭な歌姫の後援なんざしてみるつもりはないもんかね? 歌はもちろん、器量の方だって十二分ってことはよぅくわかってると思うが」

「……なるほど」

 控えめな笑みで、コーネリルは頷いた。

「かしこまりました。そういうことでしたら、喜んで支援の名乗りをあげさせていただきます」

「話がわかる相手は好きだぜ」

 ケッセルトがにやりと笑った。

 ミセリアのパトロンとなることで、コーネリルはケッセルトとの間に繋がりを持ち続けることができる。それが今後、有利に働くかもしれない可能性を考えれば、女性一人を世話することなどたいした出費ではないという判断だった。

「さて、となると少しは胸のつかえをとってやるのもやぶさかじゃない。とはいっても、別に誇って語るようなこともありゃしないんだが」

「では、ボノクスの出兵は貴公の企んだことではないのだな」

 ケッセルトは顎を撫でるようにしながら首を傾げてみせた。

「別に企んだわけじゃないさ。まあ、しばらく留守にするってことを隠しもしなかったがな」

「それでは結局、誘ったようなものではないか」

 クリスが睨みつける。男が肩をすくめた。

「一応、水場のことは伏せておいたが、それも知られてるんだろうな。タニルからボノクスにいく連中だっているんだ。他国に流れる相手に口止めをしたところでたかが知れる」

「近いうちに攻め込んでくると、前もって予想していたわけだ」

「そりゃそうだろう」

 ケッセルトは悪びれた様子もなかった。

「相手はボノクスだぞ。ラタルクで水が湧いたとあれば、連中が黙ってるわけがない。それに、自慢じゃないが俺もそれなりに連中には好かれてるって自負もあるんでな」


「忌々しい貴様の留守中にタニルを攻め落として、意趣返しに帰る場所をなくしてやろうというわけか。……気持ちはよく理解できる」

「もてる男は辛いね」

 嫌味を気にも留めない男に、クリスはやれやれと頭を振った。

「それで、貴様は手ぐすねひいてボノクスが兵を出すのを待ち構えていたわけだ。仮病まで使って、帝都に上がるのを渋っていたのもそれが理由か」

「帝都に近づけば近づくほど、タニルまで取って返す日数が増えるからな」

 指を折りながら、単純な算術の結果を示すように男は言った。

「あえてトマスを選んで留まった理由は。待つなら、もっとタニルから近い場所でもよかったはずだ」

「答える必要があるか?」

 クリスは渋面になる。確かに聞くまでもなく、それについてはケッセルトがベラウスギ公爵との会話の中で明らかにしていることだった。――美味と美女。クリスはこめかみを抑えた。

「どうした。頭でも痛えのか?」

「誰のせいだと思っている……」

「そりゃ悪かった。いや、クリス、帝都に出向かなかったのはもう一つ理由があるんだ。よければ聞いてくれ」

 不意に、ケッセルトは真面目な表情をつくってみせた。

「なんだ」

「ああ。実はな」

 睨みあげるクリスに対して告げる。

「――帝都まであがって大貴族のお歴々を前にしての上奏なんざ、考えてみたら面倒臭くてたまらんじゃないか」


 もはや怒鳴り声をあげる気力もなく、クリスは深い嘆息を吐き出した。

「……ケッセルト。いい機会だから言っておこう。私はな、貴様がそのニクラスと似たようなことを吐くのが、昔から嫌で嫌でたまらなかったんだ」

 男が顔をしかめる。

「なんだよ。ニクラスはよくて、俺は駄目ってのか」

 せめてもの仕返しとばかり、クリスは冷ややかに微笑んでみせた。

「当たり前だ。貴様はニクラスではない」

「ひでえ話だ。そう思わんか、ミセリア」

 同意を求められた女性は左の頬にえくぼをつくり、小首を傾げる。

「あら、私はむしろ女爵様の言う通りだって思うけれど? だって、女ってそういうものだわ」

 あっさりと裏切られ、ケッセルトは大げさに天を仰いだ。

「女って一言で世の中の理の大半を決めつけてみせるんだから、女は恐ろしい。お前さんならわかってくれるよな、コーネリル」

「中立の立場ということでお願いします」

 コーネリルは苦笑した。

「しかし、得心しました。情報とその鮮度をこそ命とする商人が、もっとも大切なものを忘れていたようです。我が国とボノクスとの間には、いつ戦争が再開してもおかしくはなかったというのに」

「迂闊ではあるだろうな。それを、おたくらが本当に忘れていたんだとしたらな」

 ケッセルトは言った。皮肉るような物言いだが、商人はそれに反応を見せない。肩をすくめて男は続けた。

「東の水場と水量低下が云々で、せっかくトマスの駐在武官を政治的に引っ張り出せたところだったのにな。わざわざ出奔した帝国宰相の息子の名前まで持ち出して、だ」

 クリスは視線をコーネリルに向けた。成熟した青年といえる年齢の商人は笑みのまま、しばらくしてから短く返答した。

「……もう少しで、我々が心強いお味方を得られるところだったことは確かです」

 ケッセルトはにやりとした。

「ちゃんと邪魔はしなかったぜ? 約束したろ」

「そうですね。男爵には終始、観客という立場を貫いていただけました。せめてあと少し、最後の連絡さえ入るのが遅れてさえいれば――いえ、今さら言っても仕方がありませんが」

 歌姫の女性が小首を傾げてみせた。

「ごめんなさいね」

「ミセリア、お前さんが謝ることじゃないさ。俺の身辺には念入りに人をつけさせておいたくせに、あてがった女への注意を欠いてたんだからな。それこそ迂闊ってもんだ」

「その通り。誰かを恨むなら、まず自分達の間抜けさを呪うべきでしょう」

 淡々としているが、語尾に無念さが滲んでいた。ケッセルトは人の悪い笑みを浮かべた。

「フリュグト氏にはいさかか気の毒なことになりそうだがな」

「それも仕方がないことですね。トマスでは、無能と見切りをつけられればそれにふさわしい扱いを受けるだけですから」

 冷ややかな感想を聞いて、クリスは脳裏に顔中を青くしていた肥満気味の商人の姿を思い出しながら訊ねた。


「結局、貴方がたはいったい何を目的としていたのですか。企みが失敗したというなら、お話してはいただけませんか」

 謀略の内容を正面から訊ねられ、コーネリルが困ったような苦笑を閃かせる。短い嘆息のあと、男は告げた。

「金と砂、そして銀と灰ですよ。アルスタ女爵」

 それぞれ、商いと宗教について皮肉の意味を込められた隠喩を囁いてから、

「東の水源と帝国に張り巡らされた河川水路への不安。女爵にもご想像がおつきでしょうが、これから帝国内の状況は大きく動きます。それに関わってくるのはまず水、そして金。帝都。それから水天の教え」

「……基水源」

 コーネリルは断定を避けるように目線を伏せた。

「我々トマスの商人は、我々の立場と役割でもってその変化に対するつもりです。そして、是非アルスタ女爵にもそのご協力をいただければと考えておりました」

「私はあくまで帝都から任じられているのに過ぎません」

 クリスは戸惑いながら応えた。

「それに、アルスタの家名も古くから続いてはおりますが……。私如きをどうにかしたところで、どれほどの価値もないと思われますが」

「そんなことはありません。女爵の勇名はこのトマス以外にも知れ渡っています」

 クリスは眉をひそめた。

「……私は帝国と皇帝陛下に忠誠を誓っています」

「もちろん、存じております。女爵の忠義を疑う者などおりません」

「ならば」

 問い質そうとするクリスの言葉を遮るように、コーネリルはかぶりを振った。

「帝都にも様々なお方がいらっしゃいますから」

「どういう意味ですか」

 鋭い問いかけに、コーネリルは唇すら動かさなかった。それ以上自分から話せることはないという意思表示だった。

 沈黙を決め込んだ商人が、ちらりと視線だけをケッセルトに向ける。それを受けた男が愉しげに目を細めた。考えるような素振りを見せてから、クリスに言う。

「なあ、クリス。商人連中にとっての聖地がトマスなら、聖職者どものそれはどこになるんだろうな」

「水天の教えか? それはもちろん――」

 答えかけて、クリスはその言葉の意味に気づいた。

「そうか。そうだな。少なくとも、彼らにとっての基水源はすでに“定まって”いる」


 バーミリア水陸各地に広く布教される水天教は、ツヴァイ帝都ヴァルガードを中心に活動している。基水源が云々という話があがった際、それにもっとも反発するのは帝都の、その中でも水天教の関係者で間違いなかった。

「なにしろ我が麗しの帝国と水天教との関わりは深いからな。別に水天に限った話じゃないがな。帝都にいる連中こそ色々だってのは、俺よりお前さんの方が余程よく知ってるはずだろう」

 クリスは苦い顔になって目をそらすと、商人を見た。

「つまり、貴方がたは、水天の教えとさえ事を構えようとしているのですか」

「我々はただ、目の前の現実に則したいと考えているだけです。それこそが市場の原則であり、また流れるままに形を変えることこそが水本来の在り方でもあるはずでしょう」

 クリスは頭を振る。この場で、宗教観も含めた論議に華を咲かせるつもりはなかった。

 少なくとも、コーネリルが否定はしなかったということは、そうなる可能性も十分にあるとトマスの商人達が考えているということなのだろう。――だからか。ケッセルトとベラウスギ公爵との間に交わされた会話を思い出して、クリスは胸の裡で呟いた。


 金と砂、そして銀と灰。

 商人達と宗教者達の対比を、それぞれまったく異なる価値観によるものと捉えることはできなかった。商人は黄金を貴び、宗教家は神を崇めるが、同時に水天教こそはバーミリア水陸における最大の既得権益集団でもある。

 それだけではない。ケッセルトがいったように、帝国の在り方には水天の教えが深く関わっている。そうした話を抜きにしても、帝都ヴァルガードでは日々、様々な派閥がそれぞれの思惑で策謀を巡らせているのだ――


「……では、ニクラスの名前を持ち出したのも。そうした帝都側への意思表示だったということですね」

 商人は答えない。クリスが睨むようにケッセルトを見ると、男は肩をすくめてみせた。

「俺に聞かれても知るかよ。だがまあ、そうなんじゃねえか。出奔して行方不明の宰相実子となれば、色々と使い道はあるからな。それが生きているにせよ、死んでいるにせよ。事実でも偽者でもか。いっそ幻でも構わないというわけだ。幻想の破壊者だったか? ベラウスギ公は仰ったが、それに幻を以て当てるってんなら、こいつはなかなか洒落が利いているな」

「それが本人の残した言葉かどうかさえ定かではない。当人が表に出てこない以上、その真偽を確かめる術も、ない」

 基水源を否定するような発言者が帝国の政治中枢を司る人物の身内であったなら、それだけで政治的効果が見込めるというわけだった。帝都、そして水天教関係者への牽制としては十分すぎる。


 クリスは烈しい眼差しをコーネリルに向けた。それから逃れるように、商人は頭を垂れて表情を隠した。

「……お答えしづらいですね、としか私から申し上げることはできかねます」

 せめて言葉に表そうとしてみただけでも誠意とみるべきなのだろう。腹立たしい気分を押し殺し、クリスは深く長く息を吐いた。ちらりとそれを見やって、ケッセルトが顎を撫でた。

「ま、あいつならそんなことだって言いかねんと誤解される行いをしてた方にも、問題はあるだろうよ」

「貴様が言うな」

 憮然として、クリスは黄金の長髪を振った。

「結構です。お答えできる範囲だけでも、お答えいただけて感謝いたします。どうぞ顔をお上げください」

 心のすべてが晴れたわけではなかったが、クリスは内側のわだかまりを押し流した。もとより、政治に関わってはっきりと白黒を得ようとすることが無謀な願いであることは、彼女も承知していることだった。

「そう言っていただけると。……いずれにせよ、私どもは女爵にトマスへ留まっていただきたいと考えておりました。それが叶わない時点で目論見は半ば潰えたわけですが」

 恨みっぽい視線がケッセルトを見て、男はおどけるように応えた。

「そいつは悪かった」

 ボノクスから侵攻があったとなれば、国防の砦であるタニルの領主ケッセルトは急ぎ帰還しなければならない。タニル近辺で見つかった水場について、代わって帝都まで上奏にあがる人物が必要であり、それに選ばれる人材はトマス駐在武官たるクリスティナ・アルスタしかいなかった。


「ようするにだ、クリス。お前さんは俺のおかげで余計な面倒事に巻き込まれずにすんだってわけだ。感謝してくれていいんだぜ」

「私を助けるためにしてくれた行為ならそうしよう。しかしお前が報告を怠けたがり、好きな戦争に出向く為にやったことに感謝しなければならない謂れはない」

 冷たくケッセルトに告げてから、クリスは息を吐いた。

 男にはそう言ったが、ケッセルトが公爵に突きつけた言葉は、金砂と銀灰のやりとりのみで事態が推移することを当然のように考えていた人々にとって、冷や水をかけられたものに違いなかった。鉄と血。それを司る軍人として、このケッセルトという男が十分すぎる野心と能力を持っていることを彼女は改めて痛感した。


 ――本当にこの男をこのまま行かせてしまってよいのか。一瞬の逡巡を彼女は得た。目の前の男が、これから大きく揺れ動く事態の中心に居座るという事実についてどこか不安が拭えなかった。

 しかし、彼女がいくら本意を勘ぐったところで、タニル領主である男が留守の間に敵国から攻められた本拠に戻ろうとするのを止められる理由はなかった。少なくとも、男の行動は物事の道理に適っている。


「……そろそろ時間ではないか、ケッセルト」

「ああ。そうだな。少しばかり名残は惜しいが、行くとしよう」

 桟橋につけた船は既に出立の準備が整っている。小船だが、その分小回りが利く。トマス近辺ではただでさえ川面に多くの荷船が浮かんでいる以上、もっとも急ぐためにはそちらの方が適していた。当然、小さい船であるからひどく揺れてしまうことにはなる。

「船酔いを思うと今から憂鬱だよ」

 ケッセルトがため息をついた。この傲岸不遜な男が弱音じみた言葉を漏らすのはそうそうあるものではない。クリスは悪戯っぽく笑った。

「兵達の前で情けない足取りをみせることのないよう、気を張ることだ」

「そうしよう。それに、俺を待ってくれているのは戦争だからな。多少の苦労は我慢するさ」

 やり返すようにケッセルトが口元を歪めた。

「大変なのはそっちだろう。損な役目を押しつけておいて言うのもなんだがな」

「本当に、貴様に言えることではないな」

 苦虫を噛んだ表情のクリスに、ケッセルトは人の悪い表情で続けた。

「いざ伏魔の巣食う、黄金と聖銀の都へか。あそこにはもう昔のようにお前を護ってくれる奴もいやしないんだ。せいぜい用心しろよ、何事にもな」

「言われるまでもない」

 クリスは男を睨み、そしてもう一度息を吐いた。


 この古い知己に対して思うところは多々あったが、それとは別として、戦場へと赴く相手に向かってとるべき態度と贈るべき言葉が存在するはずだった。

「――ではな、ケッセルト・カザロ男爵。貴公の武運を祈る」

「おう。またな」

 気取った言葉もなく応えると、ケッセルトはひどく嫌そうに船に乗った。

適当な場所でさっさと横になる。そのまま一度も起き上がろうとしない男の態度にミセリアが呆れたが、慣れていたクリスはただ笑うだけでそれを見送った。



 コーネリルとミセリアの二人と別れ、クリスは河川港から離れた場所に待たせている馬車の元へ向かった。

 往復する物資で混雑する河川の近くでは馬車の利用が制限されている。クリスの立場であれば無理に乗りつけることもできたが、彼女はそういったことを好まなかった。


 活気に満ちた人ごみを避けるように歩きながら、今後の予定を考える。

 帝都に赴くにあたって必要な手立てを頭に思い浮かべ、ふと懐かしい帝都の情景を描いた。たちまち郷愁の想いが滲むが、彼女が胸に抱くものはあくまで過去のそれだった。

 例えニクラスが今も生きていたとして、二度とあの男が帝都に戻ることがありえるだろうか。――あるわけがない。

 そんなことはとっくにわかりきっていた。

 だから、これは未練だ。もしかしたらあったかもしれないなどという幻を夢見て執着する。我ながら女々しいことだとクリスは気丈に鼻を鳴らした。

 胸を張る。貴族である以上、いかなる場所でも見栄は必要だった。


 一年前の火災でも陣頭に立って活躍したクリスの存在はトマスでもよく知られている。供も連れず、颯爽と歩く姿に周囲から驚きの視線が向けられた。学生時代からよく護衛も連れなかったとはいえ、市井を出歩いて平然としている様には明らかに誰かの影響が強かった。

 大なり小なり、他人から関心を向けられることにも慣れていたが、クリスはふとその中に紛れた異質の存在に気づいた。

 歩速を緩めないまま、周辺の地形を確認する。密集した建物の隙間にある路地裏の前を通りかかったクリスは、自然な態度を取り繕ってそちらへと足を向けた。


 路地裏に消えた姿を追って、人ごみから数人が路地裏に駆け込む。

「私になにか用か?」

 自分の後をついてきた三人の男達に、クリスは冷ややかな言葉を投げかけた。


 無言のまま、男達の手にはそれぞれ得物が握られている。短剣に、皮袋に砂を詰めた鈍器。貴族を狙った物取りでも手に入れられそうな代物だったが、男達の表情はただの強盗のそれではなかった。

「誰に雇われたのか知らんが、止めておけ。治療費の方がよほど高くつくぞ」

 忠告を受けた襲撃者達は身じろぎも見せない。相手に引くつもりがないことを知ってクリスは剣を抜いた。短剣と長剣の中間のような、鍔のないそれは鞭剣と呼ばれるものだった。


「……!」

 男達が一斉にかかる。

 明らかに訓練された挙動に、クリスは眉ひとつ動かさなかった。


 二人の男達が迫る。残る一人が後方でなにか投擲物を探るような仕草をしているのを見ながら、クリスは先頭の一人へと向かった。狭い路地裏に並ぶ襲撃者の動きは制限され、ひどく対しやすい。彼らが互いの距離をとろうとする前に一気に間合いを詰めると、まず右側の男の顎先に鞭剣を振るって相手を打ち砕いた。


 悲鳴もなく倒れる男の脇から、もう一人が短剣を突き出す。鍛え上げられた俊敏性で一歩をひいたクリスは、三人目が腕を振り上げているのを視界の端に捉えた。

 二人目の身体を盾にするように射線から逃れる。耳に障る甲高い音が、近くの石畳を叩いた。

 暗器に使われる刃物の類。見えづらいよう、ご丁寧に色まで塗ってある――やはりただの素人ではないという事実を改めて確認して、クリスは鞭剣を正面に構えた。


 逆手に短剣をかまえた男と対峙する。

 目の前の男が邪魔をしている限り、後ろからの投擲には身を隠せておける。だが一歩でも射界に入れば、すぐに投げつけられてしまうだろう。目に見えにくいのであれば、それを完全に避けられるかどうかは確実ではない。急所に受けることだけは避けられても、刃先に面倒なものを塗りつけられている恐れもあった。

 ならば、目の前の相手を盾にしたまま三人目を始末するまでのことだ――冷静に思考して、一歩を踏み出す。それを待っていたかのように男も動いた。


 低い、低すぎる疾走。


 舌打ちしてクリスは大きく横に飛んだ。後方で金属音。暗器の投擲を避けて体勢を崩した彼女に、接近した男が下側から潜り込むように短剣を振り上げた。

 それなりに息の合った連携に感心しながら鞭剣を合わせる。練達の術技で相手の武器を絡めとろうと動き出しつつ、注意は油断なくもう一人から外していなかったクリスの視界で、その三人目の男が次の投擲を準備しようとする途中、小さくのけぞるような動きを見せた。

 その不自然な挙動に意識をとられつつ、その手はほとんど思考とは無関係に襲撃者の短剣と刃を噛み合わせ、流れるような動作で相手の得物を弾き飛ばしている。返す動作で鞭剣の腹が男の脳天へと叩き落とされた。


 残る最後の男は、その時点でようやく投擲の構えに入ろうとしていたところだった。

 男が暗器を投げつけるよりもクリスの次の行動が勝った。

 右手に握った鞭剣を彼女は迷うことなく相手に投げつけた。投げて狙うにはまるでふさわしくない形状の一投は、吸い込まれるように相手の肩口に貫き刺さった。

「ぎゃ!」

 悲鳴をあげた男が地面に転がる。


 石畳をのたうち回る相手へと近寄って、クリスは傍に転がった愛剣を拾った。「すまないな」憎悪の眼差しを向ける襲撃者に短く謝罪する。

「あまり切れ味だけは良くなくてな。傷がふさがるのにしばらくかかるかもしれん」

 そして、握りしめた鞭剣で礼儀正しく相手の横面を張り倒した。

 三人の襲撃者を立て続けに無力化して、クリスの息はほとんど乱れてさえいない。こうした荒事には慣れていたが、また家の者から怒られてしまうななどと考えながら、彼女は倒れた男の周囲を探した。

 目当てのものはすぐに見つかった。

 硬い表皮に包まれた胡桃の類が一個、男の足元に転がっていた。投げつけられたそれが相手の体勢を崩し、投擲を遅らせてくれたのだった。

 周囲に視線を巡らせてみるが、当然のように誰の姿もない。まあ、姿を見せられるのならはじめからそうしているだろう。彼女は気に留めなかった。

 名も知れぬ何者かに感謝の文句を呟きながら、足元の胡桃を拾ってみる。そういえば、昔もこんなことがあったな――不意にクリスは強い既視感に襲われた。


 顔を上げる。


 先ほども確認した通り、路地裏には彼女以外に誰の姿もない。

 自分に手助けした何者かを今さら追ったところで追いつけるはずがない。どこに去ったかさえ定かではない。

 冷静な思考の全てを投げ打って、クリスは駆けだした。


 血相を変えて走る。どこに向かえばいいかもわからないまま、ただ内側からの衝動が彼女を突き動かしていた。

 拾った胡桃を握りしめる。なにかの予感があった。

「どこだ――」

 震えた声を漏らす。

「どこにいる……姿を見せろ!」

 入り組んだ路地裏を駆ける。なんの手がかりもないまま駆け抜けて、ふと視界に何者かが映った。フードつきの外套を被った男が、まるで逃げるように走り去ろうとしている。

 ほとんど相手を射殺しかねない眼差しで、その後ろ姿に向かってクリスは吠えた。

「止まれ!」


 男の足が止まった。

 ぼろぼろの外套をまとった相手が振り返る。目深にかぶったフードのせいでその顔はまったく窺えない。

 にじるように相手に近づきつつ、クリスは懸命に心臓の鼓動を落ち着かせた。絶え絶えになっている呼吸を整え、口内にたまった唾を飲みくだす。

「――お前は、誰だ」

 誰何の声。男は答えない。


 相手の反応を窺いながら、クリスは目の前の相手の姿かたちを自身の記憶のそれと重ね合わせてみた。背格好は――似ている。肉付きも。顔立ちは、彼女の位置からではわからない。

 すぐにでも駆け寄って相手のフードを剥ぎ取りたい衝動を抑えて、

「ニクラス。お前か……?」


 縋るような声色を聞いて、男が嘆息した。

 ゆっくりと腕を持ち上げてフードの縁に手をかけると、一気にそれを取り払う。男の顔が露わになった。

「お前は」

 クリスの全身から力が抜けるのを自覚した。

「お前は、クライストフ家の――」


 そこに現れたのは、確かに彼女が覚えのある相手だった。だが、心から期待した人物ではない。

 彼女が学生時代、帝都で何度か顔をあわせたことがある。名前までは覚えていないが、クライストフに仕える従士としてニクラスの護衛についていた若者の一人だった。

「お久しうございます。クリスティナ様」


 ――結局、ただの幻か。無様に取り乱した自身を哂い、忌々しい気分でクリスは頭を振った。

「……助けてくれたことに感謝する」

 少なくとも不機嫌さを除こうと努力した声で、彼女は言った。

「しかし、クライストフ家の者がいったいどうしてこんな場所にいる。私に用件でもあったのだろうか」

「いいえ。そういうわけではございません」

「ほう」

 クリスは険しい視線をつくった。

「では、用もないのに私の身辺警護でも務めてくれていたのか? そんなわけがないな。……宰相閣下のご命令か、それともオルフレット様か」

「お答えできません」

 男は愛想のない表情で言った。

「なるほど。つまり、目の前に現れたという事実から察してみせろと言うことだな。わかった。では伝言だ。私はタニル領主ケッセルトから上奏の役を継ぎ、近日中に帝都へ上がります、と。それが確認できればいいのだろう」

「ありがとうございます」

 男が頭を下げる。そのまま去ろうとする相手に、クリスは声をかけた。

「――待て。……投げつけるのにわざわざ胡桃というのは、よほど慌てていたからか」

 振り返った男が静かな表情のまま、「いいえ」と小さく頭を振った。

「ナイフより、そちらの方が好ましいかと思いましたので」

「……そうか」

 クリスも表情を変えず、頷いた。

「わかった。改めて、感謝する。どちらの元にかはわからないが、戻ったらよろしくお伝えして欲しい」

「は。それでは」


 男が去った後、クリスはしばらくその場から動かなかった。正確には動けないでいた。

 握った胡桃を見下ろす。その手が震えていることに気づいた。


 クライストフ家に仕える従士が、護身の剣や投擲に使えそうなものを持参していないわけがなかった。襲撃者の邪魔をするのにそれを用いず、わざわざこんなものを使ってみせたのは、それそのものがメッセージであるからだった。

 思い出す。あれは大学の、はじめての夜会だったな――その場に崩れ落ちそうになる体躯を貴族としての矜持で支えて、クリスは握った胡桃を胸に抱え込んだ。

 夜会の帰り、一人でいたところを集団に襲われた。その時に彼女を助けてくれた人物が相手にぶつけたのが、ちょうどこの胡桃のような、硬い表皮の果実だった。


 ……ニクラス・クライストフは生きている。クライストフに仕える者が、言葉に拠らず教えてくれたその事実が胸を打った。大きく深呼吸する。なにかにつっかえたように上手くいかなかった。

 胸に抱えた手のひらが震えだしそうになり、さらに強く抑え込む。外向けの仮面をかぶった彼女の表情はまったく動揺の気配はなかったが、押し殺した感情が吹き上がる場所を求めるように、クリスは細かく全身をわななかせた。


 ――生きていた。生きている。


 もとより生存を固く信じてはいたが、それをはっきりと他者から伝え聞いたことに彼女は安堵した。いったい今はどこへ。クライストフの人間が知っているということは、既に身柄もそこにあるのだろうか。

 渦巻く疑問とそれに伴う感情に、クリスは痛みすら覚えて顔をしかめた。手のひらにも激痛が走る。握り込んだ胡桃の痛さで己の動転を相殺するように、彼女はさらに強く拳を握り込んだ。

 意識して呼吸を落ち着かせ、一歩を踏み出す。自分がどこへ行こうとしているのか方向を見失い、苦笑してから馬車を待たせてある大通りへととって返す。


 彼女の内心はいまだ動揺の極致にあったが、自らの情動に全てを委ねておくわけにはいかなかった。彼女には役目があった。

 帝都に上り、タニル近辺に湧く水場について報告しなければならない。その頃には帝都にまでボノクス出兵の連絡は入っているはずだった。――東で騒乱が起こる。

 手紙にあった通りだな、とクリスは思い出した。まさか、ボノクスが兵を向けることまで予期していたわけではないだろうが。とにかく忙しくなる。


 どれだけ忙しくあろうと彼女の中ならニクラス・クライストフの存在が消えることはなかったが、今すぐこの街を飛び出して男を探しにいける自由はなかった。それが一年前、そして六年前に彼女が選んだ道だった。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。帝都に戻ればクライストフの人間と接する機会もある。彼らがなにかしらニクラスについて情報を手に入れているというなら、それを聞き出せるかもしれない。

 なにか有力な情報があれば、それを基にアルスタから捜索をだすなり、サリュに伝えるなりもできる。その為にも、まずは帝都へ赴いて責務を果たさなければならない。


 不可思議な瞳をした少女を思い出したクリスの内心に、幾つかの微妙に混ざり合った情念が生まれていた。


 男に対して真摯な情を抱き、今も彼を探して水陸を彷徨っている。過去の自分にはできなかった姿を実際に体現している少女への信頼と憧憬、そしてわずかな嫉心。クリスは苦い自己嫌悪を味わった。結局、自分が身勝手な望みを相手に押しつけているのにすぎないことを自覚したからだった。


 ……サリュが元気でいるといい。はやくニクラスに会えるといい。

 二人が自分の前に姿を見せた時、笑顔で迎えられれば。それでいい――だからこそ。不意に湧いた不安に、クリスは内心でその不吉な靄を振り払った。


 だからこそ、ニクラスよ。今どこで何をやっているか知らないが、帝国に仇を為すようなことはしてくれるなよ。

 もしもそんな未来が来てしまったなら――それ以上を考えることすら疎ましく思い、そこで思考を中断した。


 頭に描くことでそれが成就してしまうことを忌避したからだったが、同時に、考えたところで仕方がないことでもあった。

 たとえ将来に何が起ころうと、クリスティナ・アルスタはクリスティナ・アルスタでしかない。そう男に言われたからこそ、彼女はそうであろうという誇りを持って、足を踏み込んだ。




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