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砂の星、響く声  作者: 理祭
 三章 魔女の証明
8/107

 目覚めは窮屈な呼吸とともに訪れた。

 窒息しそうな息苦しさに目を見開く。自分が息を吸っているのか吐いているのかもわからず、混乱がさらなる危機を招いた。ようやくのところでか細い呼吸を整えると、リトは左側に自分以外の重みを感じて視線を送った。


 穏やかな表情で眠る少女の姿がそこにあった。

 それで昨夜のことが一気に思い出されて、彼は目を閉じてうめき声を上げた。

 今までの人生の中でも飛び抜けて大きな自己嫌悪に襲われた。目眩がする。目を閉じてもまぶたの裏で世界が歪んで崩れ、リトは大きく息を吐き出した。


 最悪だ。考えるまでもなく最悪だ。偽善の方がまだましだ。

 その場に丈夫な紐があればすぐにでも首を絞めたくなるような気持ちで彼は天井を見上げて、それから改めて自分の胸元で眠る少女に目を移した。彼の胸を枕にする少女の寝顔はただ健やかで、しかしそれが唯一の幸いだと考えるような思考は彼にはなかった。

 他者の受容によって許される行為などない。つまり彼は自分自身をとても許せそうになかった。あの集落で出会ったサジハリの得意げな顔が浮かんで、振り払う。


 ふと、寝台の向こうからの視線を感じて顔を向けると、横椅子の上からクアルが物言いたげな表情で彼のことを見ていた。

「……なんだよ」

 不満そうに一鳴きしてそっぽを向かれる。

 サリュはこの猛獣を人を襲わないように育てると言っていたが、彼女は無事でも自分は食い殺されることになるかもしれない。


 どうでもいいことに思考を漂わせながら、リトは少女が起きるのを待った。

 やがてサリュが目を覚ますと、少しだけ恥ずかしそうにする彼女に仏頂面で接して、まずはすっかり常温になった風呂で順番に汚れを落とした。

 衣服のない彼女に手持ちの中から適当なものを渡して、クアルを連れて食堂に降りる。宿屋の主人はひどく嬉しそうに笑って、それからサリュの頬の怪我を心配した。

 サリュは小さく首を振って大丈夫だと答えた。その姿に何を感じたのか、

「今朝の食事は奮発させてもらいますよ」

 厚い胸板を叩いてそんなことを言いだした主人に、能天気な性格だなと皮肉っぽい感想を抱いて、リトはすぐにそれを自省した。能天気だろうがなんだろうが、自分よりは何十倍もましだと思えたのだ。

 どうやら、しばらく自虐的な思考に困ることだけはなさそうだった。


 大人でも食べきれないほどの量の食事を用意され、サリュは目を白黒させながら朝食を済ませた。クアルは思う存分にミルクを舐めた後、途中からさっさと床に丸まって眠っている。

「しかし、その格好は少しいけませんな」

 ほとんど自分の娘のような感覚になっているのか、客足が一段落してから近づいてきた主人が言った。

 確かにそのとおりだった。もともと小柄なことに加えて細い体つきもあって、背の低くないリトの服ではさすがに無理がありすぎる。袖や裾はともかく、胸元から肌がはだけているのはあまり好ましくなかった。

「服を買うような店をどこか知らないか?」

 主人は、近くにある服飾屋と、自分の名前を出したら少しはサービスしてくれるだろうことまで教えてくれてから食堂に戻っていった。能天気というより、単純に人が良いだけの性格らしい。

 心配そうにサリュが見上げているのに気づいて、彼は訊いた。


「どうした」

「お金……」

 リトは肩をすくめた。

「別に金欠ってわけじゃない」

 強がったわけではなかった。一般的な旅人は当然のことだが定職を持たず、基本的にその日暮らしの生活をしている。リトとてそれは同じであるが、しかし彼には他と違う点が二つあった。国の最高学府で教育を受けてきたという事実と、そこで得た人脈である。


 辺境では作物の育て方や灌漑手法を教えて謝礼をもらうこともあるし、代書書きなどで賃金を得ることもできる。死の砂に魅入られた集落を救うようなことは出来ないが、学のある旅人という特性は食いはぐれない程度には活用できた。加えて、昔からの付き合いが続いている友人が地方の街にいることがあり、そこでやっかいになることもある。

 その辺りでは、人を襲い、しのぎを削ってでも生きなければならない旅人と彼は意味合いが異なっていた。言うなれば、彼の立場は道楽者であるからだった。


 もちろん、無駄をすればその限りではない。部屋に戻るとリトは手早く荷物を片付けた。昨日の礼もある為、クリスに会うまではこの街にいるつもりだったが、今いるような高い部屋の代金を払っていてはすぐに財布が空になるのは目に見えている。

 宿ごと変えても良かったのだが、せっかく主人が良くしてくれていることもあるので、部屋の質だけを一番安いものに変えてもらうことにした。


「荷物はこちらで運んでおきます。どうぞいってらっしゃい」

 主人の好意に甘えて、ついでにリトは起きようとしないクアルも彼に任せることにした。

 顔をややひきつらせ、しかしサリュの前では笑顔を崩そうとしない主人に、リトは尊敬に近い感情さえ覚え始めていた。



 『冬の道』には朝早くから大勢の人が溢れていた。

 宿屋の主人に教えてもらった服飾屋は南のメインストリートの外れにあり、そこに向かう途中、サリュは昨日と変わらない興味深そうな視線を周囲に投げかけていた。

 はぐれないように彼女の手をとろうとしたリトの動きが止まり、元の位置に戻る。すると少女の方からその手をとってきて、彼はぎょっとして少女を見た。


 控えめな表情の中に不安を混ぜて見上げるサリュの顔がある。手を離したくなる衝動をかろうじて抑え、彼は渋面になって耐えた。

 小さく温かな生命の感触は、そのまま昨夜のことを生々しく思い出させる。それがなによりの苦痛だった。鬱々としたものを振り払えずにいながら、リトは歩みを進めていた。

 ふと、サリュが一所から目を離さずにいるのに気づいて、彼は足を止めた。慌てて視線を戻す少女を連れて、そちらに向かう。


 そこは飾り道具を専門に扱っている露店商だった。色鮮やかな石をあしらっただけのものから細工に一々凝ったものまで、大小様々な飾りものが並んでいる。眩しそうにそれらを眺めている少女を見て、リトは素っ気無さを装った口調で言った。

「どれがいいんだ?」

 昨夜の行為への負い目が言わせた台詞だった。小心者の考えそうなことである。サリュは瞳をまばたかせ、しばし考えるようにしてから結局首を振った。頭にあるものにそっと触れると、


「これで。十分です」

 言った。

 店に並んでいる品物とは比較するのもおこがましい、その白い偽花のどこをそんなにも気に入ったのか、彼にはわからない。

 彼には少女が理解不能だった。


 服飾屋では、恰幅のいい女店主が彼らの応対をした。仕立てが良く、丈夫で長持ちするものを。彼女は彼の要求に過不足なく応え、すぐに何着かの衣類が並べられた。

 会計の際にリトが段階で宿屋の主人の名を出すと、店主は心得た顔で値引きをしてくれた。それでも彼が思っていたより総額の値段はいくらか高かったが、今目の前で起きていることがまるで信じられない夢のように、目を白黒させているサリュの様子を見れば何も言えたものではなかった。


 さっそく新しい服に身を包み、淡々とした仕草の中ににじみ出るように嬉しさを隠し切れない様子でいる少女を連れて、リトはクリスの家に向かった。

 高級貴族の邸宅が並ぶ街の中央部では、サリュよりむしろ彼の服装の方が場違いだったが、周囲の視線を気にせずに向かった先でリトは主人の不在を告げられただけで終わった。明日は在宅予定と聞き、訪問を改める旨を伝言に頼んで宿に帰る途中、広場に人だかりができているのが目に入った。

 判決。有罪。魔女。火炙り。物騒な単語を聞きとがめて立ち止まると、隣にいるサリュが彼の手を握る力を強めた。

 サリュの二重に描かれた不可思議な瞳と、その名前が意味するもの。彼女が故郷の集落でどのように扱われていたかを思い出して、リトはサリュの手を引くと足早にそこから去った。


 宿屋に帰る前、彼はサリュが目深に被ることのできる外套を新たに買い与えた。



 その日の夕食も豪勢だった。

 彼らを出迎えた宿屋の主人には誰の仕業か一目で分かる引っかき傷が生々しく残っていて、リトは迷惑料を払うつもりだったのだが、主人は新しい服を着て嬉しそうにしているサリュを見ただけで十分らしい。無言の笑顔で突き返されてしまった。


 食事を終え、部屋に戻りながら、リトは胸の裡に湧き上がるものに気づいていた。それが何であるか考えるまでもなかったが、それでも彼は意識してそのことを考えないようにして、サリュを風呂に入らせた。

 そして、程なく浴場から出てきた彼女に先に寝ているように告げると、自分はいつもより長く湯に浸かった。

 風呂から出てきた時、部屋の中は蝋燭が消えていて、既に暗闇に沈んでいた。安堵の息をついてベッドへ向かう。その端に、丸まるように寝ている少女の膨らみが見えた。


 そうではなかった。サリュは眠ってはいなかった。

 リトがベッドに近づくと、彼女はゆっくりと起き上がった。音もなく床に降り立った、そこには肌着が身につけられていない。

 月夜に照らされて、銀色の髪とそこに挿された白い花、二重に円を描く銀色の瞳が光っている。思わず声を失う彼を見上げて、彼女は言った。

「どうぞ、食べてください」


 ぞっとする言葉だった。事実、リトは恐れを抱いていた。昨晩の行為そのものや、そのことを思い出しての恐怖ではない。

 目の前の少女そのものに、恐れを抱いた。

 彼は拒絶するべきだった。しかし、それは今この時ではなく、昨晩の話であった。一度口にした以上、否定には意味がなかった。

 どこかで聞いた笑い話を思い出す。


 ――知ってるか。不作続きで食べ物が全てなくなって、近くに鶏がいたっていうのに、ついに餓死してしまった間抜けな男がいるらしい。いったいどうして、男はその鶏を食べなかったんだと思う?


 ――そりゃ、そいつが人生で一度も鶏を食べたことがなかったからだろうさ。


 彼は、彼女を食った。



 なんだこれは。

 行為の中、何十度目かに至るその問いを、リトは自身へと投げかけていた。これはいったいなんだというのだ。


「お前はなにがしたいんだ」

「あなたに食べてもらいたいのです」


 意味が分からない。わけがわからない。


「死にたいのか」

「生きたいです」

「なら、俺を殺せ」

「あなたが食べてくれたら。そうします」


 その時、彼女の小さな顔を至近距離にして、彼は彼の人生で初めての思考に奪われた。


 食っているのか。それとも食わされているのか。

 あるいは、実は俺のほうこそが食われているのか。


 自分の行動が果たして自分の意思のものなのか。人生の中で唯一度たりとも崩したことのなかったその不文律を、彼は始めて飛び越えた。そして絶望的に思う。


 もしかすると自分は魅入られてしまっているのではないのか。


 銀色の瞳の中で二重に描かれた円。昼間、聞いた言葉を思い出す。集落で聞いた話。呪われた子供。呪われた名前。死を呼ぶもの。


 ――サリュ。


 少女は微笑んだ。

 昨日の笑みそのままに。


 人を越えた妖艶さがそこにはあった。



 翌日、朝食をとってから改めてクリスの邸宅に向かった二人を、ゆったりしたシルクのコットに身を包んだ主人が出迎えた。

 中庭のサロンで読書に耽っていた彼女は、二人が現れるとかけていた眼鏡をとり、薄く微笑んでみせる。細作りの装身具に目を向けて、リトは訊ねた。

「目を悪くしたのか?」

「少し前にな。生活に不便はないが、物を読むときには少し困る」


 この時代、眼鏡をかけられるのは一部の特権階級で、その多くが男性である。不恰好な姿を見られたことを恥ずかしがるように肩をすくめ、クリスは二人に席をすすめた。使用人を呼び、新しい葉茶と果汁水を用意させる。昨日買ったばかりの服を着たサリュが胸に抱えているクアルには、冷たくないミルクを出すようにも言いつけていた。

「買ってもらったのか?」

 サリュの真新しい服を見てクリスが訊ね、嬉しそうにサリュは頷いた。リトに視線を移す、クリスの表情に意地悪そうな光が瞬いた。


「珍しいな」

「必要だったから買っただけだ」

 仏頂面で答えるリトだったが、その品が「必要」以上のものであることは誰の目にも明らかだった。

「大学にいた頃はあれほど異性へ物を贈ることを毛嫌いしていたお前がな」

「不要だと思ってたからな」

 彼は吝嗇ではなかったが、必要でもない高級品をねだることも、それをただ買い与えるだけの行為も軽蔑していた。


「確かに浪費は好ましくない。お前が必要と感じたというだけで私には面白くあるが」

 からかい、渋面になった友人の表情を察して、クリスはそれ以上の追求を控えた。

「昨日はすまなかったな。公務で一日留守にしていた」

「いや、こっちこそ急に悪い。街を出る前に挨拶だけはしておきたいと思ったんだ」

 クリスの眉がぴくりと動いた。

「出るのか」

「ああ」

 手に持っていた陶磁のカップを下ろして、彼女は息をついた。


「そうか……。せっかくの再会だ。引き止めたくはあるが、そういうわけにもいかないか」

「この街での生活は高くつくしな」

 じゃれつこうとしているクアルを押さえるのに懸命なサリュの、むしろひっかかれて早くも傷みだしていそうな服のほうを見ながら、リトは言う。

「滞在費ぐらいなら都合するが……まあいい。話もある」

 彼女が口を閉じたのを見計らって、使用人が飲み物を運んできた。リトの前に葉茶、サリュには葡萄の果汁水。テーブルの下にはミルクが置かれる。

 ミルクの入った平皿に飛び掛かるクアルにほっと息をついたサリュに微笑んで、クリスはテーブルに置かれてある菓子皿を少女の目の前に置いた。


「よかったら食べてくれ。私には少し甘すぎる」

 銀の輪の瞳を伏せる。

「……ありがとう」

 礼を言う少女に柔和な表情を浮かべるクリスを見て、仕返しの意味も込めてリトは言った。

「確か、そっちこそ子供嫌いなはずじゃなかったか」

「子供だったからな。大人になれば変わる」


 それなら自分はまだ子供というわけか。皮肉な感想を抱いた彼に、クリスは至極当然とばかりに頷いた。

「そういうことだ」

 これにはさすがにリトも渋面になって、首を振った。

「心を読まれるのは気分がいいものじゃないな」

 それを聞いたサリュが驚いたように顔を上げた。まじまじとクリスを見て、恐れを含んだ声音で言う。

「魔法使い?」


 クリスは笑った。

「そうではないよ。付き合いが長いからな。サリュもすぐにこれぐらいわかるようになる」

 本当かと真摯な瞳で彼を見る少女に、なんと答えることもできずにただ視線を返したリトは、場を保たす為にカップを持ち上げた。品のいい香りが鼻をくすぐる。しばらく飲んだことがないような高級な茶の葉だった。飲んでみると、刺激がなく舌に心地いい。


「それで、話というのは?」

「ああ。まず、これはアルスタ家の名代としてだが」

 一旦、葉茶を口に運んでから、クリスは言った。


「まだ家に戻るつもりはないのか?」

 彼女の真意を確かめるように、リトは傾けたカップの向こうで視線を細めた。

「今でも何かと懇意にして頂いているからな。あちらに戻れば、お前の父君とお会いすることもある。いまだに嘆いておられるぞ、帰ってきて欲しいとな」

 そこで肩をすくめた。

「安心しろ。連絡はいれていない」

 リトはカップを置いた。告げる。

「帰るつもりはないよ」


 彼が五年前に家を出たのにはもちろん彼なりの理由があり、一度そう決心した以上、考えを変えるつもりはなかった。彼の頑迷さを知るクリスも、ただ苦笑いするだけである。

「だろうとは思ったが。しかし、これだけは覚えておけ。父君は健在だが、最近は病気を召しがちとも聞く。お前の兄君は慈君だが生来お身体が弱い。お前の家が乱れれば、国が迷う」

 言葉に抜き身の剣のような冷たさが含まれた。射るような友人の瞳に対して、

「俺のような人間がいたほうが乱れるさ」

 リトはそう答えるだけでその舌鋒を交わした。

 甲高い音が鳴り、「クアル!」という制止の声が響いた。ミルクを飲み干したクアルが中庭に駆け出して、それを追いかけようとしたサリュが彼を振り返る。


「転ばないようにな」

 少女は頷いて、やんちゃな砂虎を捕まえに走っていった。

 明るい質のいやらしさを笑い声に交ぜて、クリスが茶化す。

「なかなかの保護者振りじゃないか」

「そんなんじゃないさ」

 保護者なら、少なくともまともな保護者なら、あんなことはしない。

「さっきの話だがな。いまさら議論を蒸し返そうとも思わん。昔さんざんやったことだからな。納得もしている。そうするしかない我が身が歯痒くはあるが。結局はお前の意思次第だということも承知している。だからこそだ」

 クリスは彼の顔を見ないようにして、言った。

「私にお前を怨ませるなよ」


 リトは返事をしなかった。

「……家の話は終わりにしよう」

 視線を戻し、表情を和らげて、クリスは中庭の向こうで駆け回っている一人と一匹の姿を視界に入れた。

「それで、あの子はどうするつもりだ? この間は確か、街に連れてくるだけと言っていただろう」

「連れて行く」

 リトは答えた。

 いまだに迷いがないわけではないが、かといってそうするしかないというのが結論だった。それが消極的な答えであることが、彼にしてみれば珍しい。


「あいつの勝手を止めた責任があるからな」

「言っただろう。意志だろうがなんだろうが、あのような処に落ちるのを見過ごしていたなら、私が許さん」

 不快に眉をしかめる、その感性が騎士としてのものか、それとも女性としての情によるものか判別しづらかった。恐らく両者だろう。

「どこか働き手を見つけてやろうかとも思ったんだが――そういうわけにもいかないようだ」

 その言葉を聞いたクリスの顔に翳りが差したのを、リトは見逃さなかった。それをあえて指摘せず、彼女から口を開くのを待つ。


「話というのは、実はそのことだ」

 頷いて、クリスは言った。

「出るつもりなら、むしろ早いうちのほうがいい。そうお前に言おうと思っていた」

 街がぶっそうなことになるかもしれん。清廉な女当主の表情は暗かった。

「昨日、公務だったことはさっき言ったな。そのことなんだが」

 珍しく迷うような仕草を見せるクリスの言葉を、彼が補った。

「魔女裁判か」

「……知っていたか」

「昨日、広場で大声で叫ばれていた。有罪だったそうだな」

「ああ。例によってな」


 唇の端を歪めて、彼女は苛立たしそうにテーブルの上で指を躍らせた。

 魔法使いの存在は広く信じられている。そして、魔法使いがいるのならその中に好い者と悪い者がいると考えるのが、人間という生き物だった。その悪い魔法使いの別名が、魔女。明らかな女性蔑視の風潮が透けて見える、時代を端的に現した単語と言えた。

 何か悪い出来事があれば魔女のせいだとして、集団から見つけ、そこから追い出し、時に殺害することで不吉を取り除こうとする習慣。被害にあうのはあくまで「魔女とされた」人々でしかないのだが、常に大勢の前に少数は力を持たないのだった。

「しかし、いまさら魔女狩りとは」


 皮肉な想いだった。この国ではさほど遠くない昔、国中でその魔女狩りが横行した時代がある。燎原の火として燃え上がったその風潮は、最終的には勅令が下りたことでやがてその終焉を迎えたが、辺境の地でならともかく、トマスのような大都市でその名残を見ることになるとは思わなかった。

「何があった?」

 苦虫を噛み潰したような表情で、クリスは説明した。

 事の始まりは公爵家に一人の高名な魔法使いが招かれたことであった。齢不明な老女はいくつかの秘蹟を見せ、さらにはトマスを襲った災害を予見してみせたことで公爵の信任を得ることになる。その老女が最近発した言葉が「この街に魔女がおる。その者を捕まえねば街が滅びる」であったという。


 リトは呆れた。今時流行の物語でも、もう少しましな文言を使っているだろう。

「公爵はそれを信じているのか?」

「というより、公爵夫人がな。大層可愛がっておられたご令嬢を流行病で亡くされて以来、そういったものに傾倒されている」

 公爵もいい顔はしていないものの、妻の悲しみが晴れることを期待して、口出しすることもないらしい。家が乱れれば国が迷う。彼女の言葉通りの事態というわけだった。

 リトは言葉を吐き捨てた。

「馬鹿馬鹿しい」

「お前にはそうだろう。私だってそうだとも。くだらん。ただ一言だ。だが、先週捕まった占い師は質の悪い奴でな、人を呪い殺すようなことまで喧伝していた。しかも有力貴族にも人脈があって今まではなかなか裁けなかったから、つい静観してしまったんだが」

 ため息をつく。


「その占い師が捕まって、魔法使いが昨日、この者以外にも魔女が存在するなどと言い出した」

「……なるほど」

 ありそうな話ではある。

「私の失態だ、不法で不法を正そうとしたのが間違いだった。一度目を許してしまったのがいけなかった。二度目はもっと軽い。三度目もあるだろう。罪なき人が投獄されるのは時間の問題だ」

 まさに魔女狩りというわけだ。その惨劇が大陸でも最大の都市でこれから起こるかもしれないという。リトは不愉快になって葉茶を飲み干した。

「そこまでわかっていて、打つ手はないのか?」

 クリスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「向こうとトマスの関係については説明は不要だろう」

 向こうというのはもちろん、ヴァルガードのことだろう。リトは頷いた。


「今の私は緩衝材だ。だからここにいる。下手に動けば均衡が崩れかねん」

「中立か?」

「政治は好きではない」

 まぎれもない帝国の上層にあって、そうあっさりと言ってのけるからこそのクリスティナ・アルスタであった。愚直。あるいはもっと卑下する言葉ならあるだろうが、リトには彼女のその生き方が羨ましかった。王道は、彼の行く道ではない。彼は逃亡者だった。

「流れなき沈殿は水を汚すが、かといって掻き混ぜる事がいつも最善とは限らん。この街はまだそこまで腐っていないと思いたい」

「帝国二大都市の行く末を担う女騎士、か。大した立場じゃないか」

「皮肉か?」

 クリスはぴくりとも笑わなかった。リトは謝罪の意味で手を上げて、ため息を吐いた。

「なら、確かに早くここを出たほうがいいな。あいつの風貌は」

「ああ。妙な疑いを持つ人間が出てきてもおかしくないだろう」


 瞳の中で二重に円を描いた目。魔女狩りで被告の身体的特徴が訴えられることは多い。より正確には、訴えたい人間の身体的特徴こそを挙げへつらうのだが、サリュの外見は十分すぎる嫌疑となるだろう。

 ふと、リトはこの街に入ってから出会った人々について思い出していた。彼らの中でサリュの瞳に気づいた人間がいないはずがない。

 何を言っている。彼は哂った。彼らより先に、そんなことの前にまず疑うべき人間がいるじゃないか。昨日の夜、お前は何を考えた。

 クリスから話を聞いて、一瞬だけ彼は思ったのである。もしかすると、だからこそなのではないか、と。


 サリュが魔女だから、自分はあんなことをしてしまうのではないか。

 全くもって馬鹿馬鹿しい話だった。愚かしさの極致と言える。自分は己のやった行為を、他者の所為にしようとしている。度し難い。お前のような人間こそ魔女ではないか。そう思った。


「私の屋敷ならかくまうことも出来るが、それでは外を出歩けなくなってしまう恐れもあるからな」

 それに、魔女狩りがいつ収まるかもわからない。この街に長く留まるつもりはなかった。リトは頷いた。

「今日中に出ることにしよう。クリス、世話になった」

 テーブルから立ち上がり、大声で呼ぶ。

「サリュ!」

 芝の上に転がっていた一人と一匹がすぐにやってくる。服はぐしゃぐしゃだったが、彼は叱らなかった。子供はそういうものだと思っている。彼自身はそうではなかったが、だからこそそう思っていた。

「帰ろう」


 告げると、サリュは大きく頷いて、それからクリスの前に立った。

「ありがとうございました」

 クリスは少女の服装を正し、頭についた葉を取り除くと柔らかく撫でる。ついでに彼女の胸元に収まったクアルの喉をくすぐると、気持ちのよさそうな一声がそれに応えた。

「気をつけてな。よかったら、また遊びに来て欲しい」

「はい」

 その光景は何かを幻視させるものではあったが、彼は目を逸らしてそれを無視した。過去から派生したかもしれない現実など、自分には想像する資格もないはずだった。


 サロンから出ていくリトの背中に声がかかった。

「ニクラス」

 彼が肩越しに振り返った先で、クリスは自身、表現に困ったような顔をしていた。笑っているような、泣いているような、複雑な感情が交ざりあった表情で、

「探し物は見つかったか?」

 その問いかけにリトは答えず、黙って旧友の前から去った。



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