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帝国内に湧く主要な水源を繋ぎ、流通の要として存在する河川水路。
流れる砂に阻まれず、人と物の安全で確実な運搬方法を可能にしたそれこそが、ツヴァイがバーミリア水陸の覇者となった最大の要因だった。
それが成立したのは三つの奇跡的要素が組み合わさった結果である。一つ目は比較的近距離に、二つの極めて高い湧出量を誇る安定した水源があったこと。次に、砂海を割ってその水源同士を繋げた魔術的な手法。最後にそれを発想して実行した魔術の担い手。
繋がれた水源の一方で街を興し、後に水陸経済の中心にまで発展させた「流通の父」ジュスター・ベラウスギ。その子孫であるベラウスギ公爵を目の前に、クリスは肩まで震えだすほど、きつく両の拳を握りこんだ。
水陸とは密集した広範域に広がる動植物の繁栄地を指す。豊富な水源と、そこから枝分かれして派生する無数の水場の集合群。惑星中を覆う広大な砂海に、地から湧いては枯れる水源の仕組みについては明らかになっていないが、それが地下に偏在する以上、その根源というべき存在を疑う考えが芽生えることはむしろ自然ではあった。
基水源。水の起源、生命の大元。まったく同一ではなくとも、似通った思想であればそれは水天の教えに限らず、多くの土俗や信仰のなかにもほとんど共通して見出すことができる。
砂に逐われる人々にとり、基水源とは希望であり救済だった。そこでは果てなく湧き続ける水によって草木が枯れず、人は無数の果実に囲まれて永遠の生命を謳歌する。まさしく万人の夢見る理想郷である。
同時に、それは権力者の求める究極でもあった。この砂吹く惑星でいうところの権力とは、つまりは水のもっとも高きを我が物とすることであるからだった。
水陸の中央大水源を擁するツヴァイ帝国が、そこをバーミリア水源と称し、これこそが水陸の基水源であると喧伝することも同じ理由に拠る。実際上、そして思想上でも水陸の覇権国家として君臨する以上、基水源の存在を無視することはできない。
水源とは人の営み、そして国体の基礎である。特に、幾つかの水源を遊牧するのではなく、一つ所に留まって興隆するツヴァイのような水と石の国家にとっては、その大元の水源が枯れることはそのまま国家の滅亡を意味していた。
過去、水陸とまで呼ばれる湧出量を誇る大水源が枯渇した例は記録にない。しかし、それが未来永劫に至って約束されている道理はなかった。実際、過去にはバーミリア水陸の西方にあって中陸とまで呼ばれた大水源が枯れ果てており、近年においても水陸中東部のラタルク一帯が大規模な干ばつに見舞われている。
そもそもが。クリスは考えた。ツヴァイの帝都ヴァルガードが抱える水源こそが、水陸の基水源であるという確たる根拠は存在しない。いや、それ以前に“基水源”という代物そのものがただの幻想でしかないとしたら――
一体なにを考えている。胸中での彼女の罵倒は二人の人物に向けられていた。ニクラス。あの男はいったいどのような理由があって、基水源の否定などしてみせたのか。それは自由闊達な学問の場である大学でさえ許されていない、絶対の禁忌だった。帝都にあるヴァルガード水源こそがこの水陸の基水源である、ということがではない。基水源がこの水陸に存在しない、ということがだった。基水源は権力の象徴であり、思想的な拠り所でもある。それを否定することは権力者への反逆、そして水天の教えへの冒涜とも受け取られかねない。
あるいは、――だからこそか? だからお前は帝都を出たというのか。私になんの説明もせず。彼女の脳裏に浮かぶ男は答えない。
彼女が知人以上に意図の読めないもう一人は、ルートヴィヒ・ベラウスギ公爵だった。
公の場で基水源への疑問を口にしただけではなく、河川水路を構成する各水源、そのいずれかに水量低下という事態が生じていることまで明らかにしてしまった。それが本当の事態であるかどうかはともかく、たとえそれが間違いのない事実だったとしても、その公表には慎重に時機を図って然るべきだった。
ベラウスギ公爵ともあろう人物が、自身の発言における政治的意味を理解していないはずがない。そう、理解していないはずがないのだ。つまりは、これは失言でもなければ思慮の不足でもなく、意識的な発言としか考えられない。
ならばその意図するところは? 落ち着いた眼差しをたたえる公爵を瞳に映しながら、クリスは考えを巡らせた。
このベラウスギ公爵の発言によって、どのような事態が引き起こされるか。基水源の存在の是非はともかく、河川水路の水量低下という事態が真実であれば、それはツヴァイという水陸最大帝国の急所に突きつけられた致命の短剣となる。河川水路による流通を介さなければ、ツヴァイはその巨大な領土を保て得ない。
水源の枯渇。過去にあったラタルクのように。いいや、事態はそれよりもっと深刻なものとなる。
枯渇する水源が独立しているのであれば、それだけで済む話ではある。ラタルクがそうであったように、そこから人の営みは消え、動植物の一切は枯れ果て、黄土の砂が埋め尽くす。
しかし、その水源が河川水路によって他水源と繋がっているのであれば、枯れた水源には水路を通して他の水源から水が流れ込むことになる。一つの水源の問題は、その他全ての水源にまで波及する。
いったいどの水源が足を引っ張っているのかと、各地の水源領有者は他を疎み、疑心暗鬼にまで陥ることだろう。もしも、それが帝都ヴァルガードや水陸商業の粋トマスであるなら、ツヴァイの在り方そのものが問われてしまう事態にさえなりかねない。
思考を進めていたクリスは、不意に衝撃を受けて全身を強張らせた。たった今まで忘れていた事項があることを思い出したのだった。
今回の件について事の発端ともなった、水源が枯れ果てたはずのラタルクにいまだ枯れ果てていない新しい水場が見つかったという噂。それについて何やら動きを見せていたトマスの商人達の行いを、たった今あったベラウスギ公爵の発言に重ね合わせてみれば、彼らの目論見は容易に浮かび上がってくる。
トマスからラタルク地方へ伸びる河川水路の建築。それを計画する為には、まずは水場を手中にしなければならない。水場における主導権。そして、トマスの商人達がいったい誰との間にそれを争ってみせるのかといえば、想像の内で答えはほとんど一つに収束してしまう。――帝都ヴァルガード。
そういうことか。歯噛みする思いで、クリスはベラウスギ公爵を睨みつけた。
だとするなら、ベラウスギ公爵が今まで控えていたニクラスの存在についてあっさり認めてみせたのも納得がいく。
要するに、彼らはヴァルガードとの間に小康状態などもはや在り得ないものとして見ているのだ。東方の水場を巡り、今後、激しい政治抗争が起こることを確定した未来と受け入れている。
その対外的な宣言にこの日、場所が選ばれた。
そして、それを聞かせる相手にヴァルガードから送られてトマスに駐留するクリスティナ・アルスタは選ばれたというわけだった。
政治。政治か! まったく迂遠な行いに、辟易して顔を背ける自由はクリスには許されていなかった。ベラウスギ公爵を中心とするトマスの商人達による政治的告白が為されたのであれば、彼女は帝都からの代表としてそれを受け止める義務があった。
それだけではない。ヴァルガードとトマスが穏便な関係にあるよう努めることこそが自分の責務であるとクリスは信じていた。動揺する心中を抑えて口を開く。
「――閣下。私は自ら見聞きし、その必要があると判断したものについて帝都に報告しなければなりません」
公爵は鷹揚に頷いてみせた。
「女爵の立場については理解している」
「はい。そして、私は……トマスと帝都の間に、無用な誤解などが生まれることのないよう十分に配慮したいと思っております。平穏と繁栄を、帝国に関わる全ての人々が求めていると信じているからです」
彼女の慎重な物言いは必要なものだった。この場において、クリスは帝都代表として在ることに違いない。軽率な発言で言葉尻をとられることや、相手からの挑発に乗ってしまうことなどがあってはならなかった。それこそを相手が待ち構えているのではないかと思えてしまえるなら、なおのことだった。
「同意見だ。女爵の危惧しているものについて、疑念を晴らす必要があるだろう」
「では、お聞きします。一つは東の水源について。もう一つは、先ほどお聞きした水量の低下について。それぞれ、どのように公爵はお考えでいらっしゃいますか」
帝都へ報告するにあたり、最低限その二点だけは確認しておかなければならなかった。どうか過激な返答がもたらされないよう、祈るような思いでクリスは待った。
数拍の間をおき、ゆっくりと公爵が口を開いた。
「東の水源については、先日の夜会で話した通りだ。新しい水場が見つかったことは素直に喜ばしい。そこを経由して新しい交易の道が拓けることも。それは必ず、ツヴァイ全体に益をもたらしてくれると信じている。その為にできることであれば、どのような努力も欠かすことはない」
建て前じみてはいたが、そのまま帝都に伝えて問題ない内容に、クリスは内心で安堵しながら続きを待つ。公爵が続けた。
「もう一つの案件についてだが……これは非常に由々しき問題だ。女爵も十分に理解していることと思うが、水陸の四方に伸びる河川水路こそはツヴァイの血脈。ツヴァイの在り様とは、枝葉となって広がる水路とその周囲に湧く無数の水島を言う。今、そのどこか一つが枯れ落ちようとしている――あるいは、それが周囲にまで影響を与えようとしているのならば。水源同士を繋ぐ河川水路。その利点故の欠点というべきか」
「しかし、そのおかげである程度の水量低下にも、互いの水源同士で補い合うことが可能なのではありませんか」
「その通りだ、女爵。その間に我々は問題解決を考える貴重な時間が与えられるのだからな」
「……公爵閣下には、なにか問題解決のお考えがおありでしょうか」
クリスは訊ねた。公爵が頭を振る。
「残念ながら、天啓を得る幸運はそうそう訪れるものではない。そして、ここで我々が思い出すべきことがある。水源が枯れるのは至極当然だということだ」
「それは――その通りであります、閣下」
「だからこそ、東に新しく見つかった水場の価値もいや増すというものだろうな」
「……はい。閣下」
クリスは顔を俯かせるしかなかった。それ以上、踏み込んで発言する為には、彼女に与えられた以上の立場が必要だった。
「何卒。帝国臣民に穏やかな日々が続きますよう、それのみを願うばかりです」
「そう苦しげな顔をされるな、女爵」
公爵の声が和らいだ。
「平穏と繁栄を願う思いは我々とて同じだ。その思いさえ同一のものであるならば、どのような立場にあっても協力できる。そう考えることは私の浅はかさだろうか」
クリスはベラウスギ公爵を見つめた。
それが必ずしも公爵の本心であるとは思わなかった。政治とは表向きに笑みを浮かべたまま、隠した手に殺意の刃を握ることであるからだった。人の好意だけを信じて生きることができるのならば、それはなんと幸福なことだろうか。
「温情あるお言葉、誠にありがたく存じます」
硬い表情でクリスは応えた。苦笑するように公爵が口元を綻ばせる。
「――女爵に提案があるのだが」
「提案、と申されますと」
「水量が低下している件だ。これについては恐らく各水源地でもある程度、事態の把握が始まっていると思うのだが、はっきりとした情報交換もなされていないのが現状だ。事が帝国全体の河川水路に関わる以上、とかく騒ぎ立てるとかえって混乱を招きかねないことでもある」
「その通りであると思いますが……」
眉をひそめるクリスに、公爵は続けた。
「故に、まずは現状の把握こそが必要であろう。正しい認識こそが、正しい判断へと我々を導いてくれるはずだからな」
「異存ございません、閣下」
公爵がいったい何事を持ち出してくるのか身構えながら、クリスは頷いた。
「調査隊を編制しようと考えている」
「調査隊、ですか?」
「水量の低下は確かにこちらでは確認できているが、女爵も先ほど言ったように、それが一時的なもので終わればなんの問題もない。あるいはそれが一時ですまなかったとして――水量が減少しているのはトマスか、そうではないか。他水源の領主と話をするにあたり、せめて自前の状況を理解しておくことだけでも十分に有意義なことだろう」
「その調査へ、私にも加われとおっしゃるのでしょうか」
「無論、帝都からお越しいただいている女爵に対して、これはなんら強制するようなものではない。女爵の意向にあえばだが、如何かな」
「それは……」
穏やかな口調での提案を受けて、クリスは即答を控えた。
トマス水源とそこから繋がる河川水路の水量低下の懸念については、放置できる案件ではなかった。今後、東の水場を巡って様々な事態が起こるのは逃れようがないが、既にある水源と河川水路への疑惑こそがその問題を加速させることも明白である。
まず事実の確認から行うべしという公爵の意見は至極真っ当ではあったが、ことさら宣言するまでもないことでもあった。治水権を与えられ、そこに付随する土地と人を支配する領主にとって、自らが抱える水源とは秘中の秘ともいえる。それに対する調査に他家の、それも帝都から送られた人物を招き入れるということは、異例ではなくとも意外ではある。
調査の正当性。あるいは透明性についての配慮か。そう考えたクリスは、自身の思考の前提が一方に傾いていることに気づいた。
そもそもの水源と河川水路の水量低下について、現時点ではただの疑惑でしかない。実際にそれを確認したというのは彼女がベラウスギ公爵から聞かされただけであり、市井からもそうした話は噂にもあがっていない。密な情報統制の結果と考えることも難しい。外部からの情報を遮断することと違い、水量の変化は人々の日々の生活に直結するからだった。果たして、現実に水量低下などという事態は起こっているのだろうか。
疑惑の疑惑、か。面白くもない気分で呻き、クリスは自分に諧謔のセンスが欠けていることに失望した。物事を疑いだしてしまえば際限がない。まったく、自ら好きこのんで政治遊戯にかまける輩の気がしれなかった。もっとも、相手が躊躇なく攻勢に出続けるのは、もう一方が受け身にしか回らないと高を括っているからだということにも彼女は気づいている。
呼吸を整え、クリスは自身の回答を相手に伝えた。
「私は帝都より任を受けてこの地に駐在するものです。その職権において許される限り、どのようなご協力でも惜しむつもりはございません」
「左様か」
「はい。――私からのご提案もお聞きいただけますか。公爵閣下」
「なんだね、女爵」
凄烈な眼差しで、クリスは鷹揚な仕草で応える公爵を見つめた。
「調査を必要とされる閣下のお考えに賛同いたします。併せて、無用な混乱が人々を惑わすことのないよう、特別にご配慮もいただければ幸いです」
「なるほど。それは確かに必要だな」
思いつきもしなかったように目を細め、公爵が顎を撫でる。
「帝国内の水源、あるいは河川水路に不穏があるなどという風聞が流れてしまっては、どのような騒ぎの元になるか。たった一つの波紋から至り、別の面倒まで招きかねん」
「事態を利用しようと画策する、不逞な輩への牽制にもなりましょう」
周囲をかこう人々に視線を巡らせながら、クリスは言った。生来の気性に似合わない毒のこもった発言だった。
公爵はかすかな笑みを漏らした。
「承知した、女爵。……しかし、どうだろうか」
「何事がでありましょうか、閣下」
「なに。噂の元となる発言、噂にのぼる人物。様々に多岐へ渡る可能性があるだろう。いったいどのような者が網にかかることかと、ふと思ったのだ」
表情を変えないまま、クリスは奥歯を噛み締めた。公爵が暗に示している人物について、もちろんわからないはずがない。
「無論、謂れなき冤罪で人々が陥れられるようなことは避けねばなりません」
「ふむ」
公爵は相槌を打つ。思慮深い目線がクリスを見た。
――なるほど。クリスは胸の裡で冷笑した。この場を締めくくる一言に、目の前の公爵がなにを求めているか理解したからだった。
逡巡する。しかし一瞬のことだった。
想定の内だったというわけではない。だが、どのような事態にも揺るがないだけの覚悟があった。だからこそ、彼女はこの場所を訪れていた。
「それと同じく。帝国に対してもしも確かな根拠もなく、徒に人々の不安を煽り、国の安寧を損なおうとする輩がいたならば――その者は決して見逃してはおけません」
「どのような相手であってもかね」
念を入れるように、公爵は繰り返した。
「もちろん、どのような出の人物であろうともです」
クリスは断言した。
「――女爵はツヴァイ貴族の鑑だな」
公爵が微笑を浮かべる。求めた回答を得た表情だった。
無言のまま、クリスは極寒の眼差しで公爵を見返した。かけられた言葉が嫌味の類ではないとわかっても、それを誇ることや喜ぶ気分にはなれなかった。
場に乾いた音が鳴った。
公爵とクリスを取り囲む人々に生じて、間延びした間隔で室内に響き渡る音階は、タニル領主ケッセルト・カザロ男爵の手のひらから発されている。傍らにはほとんど無名といっていい歌姫の女性を連れていた。
周囲の注目を浴びたケッセルトが片方の眉を持ち上げた。
「おや。そろそろ終幕かと思いましたが、拍手にはいささか早かったようだ」
「……男爵はなにやら誤解をしているらしい」
苦笑を浮かべた公爵が頭を振った。
「その物言いでは、観劇でもしているように聞こえるが」
「まったくもってそのつもりでおりましたが、違いましたかな」
ケッセルトの発言に周囲がざわめいた。非礼ともとれる発言に誰かが激昂するのを制するように手をあげ、公爵が苦笑を浮かべた。
「観劇か。ならば是非、男爵の感想を聞いてみたいものだ。これでも演劇には目がないのだよ。自分に俳優の資質があるとは思わないが……」
「とんでもない。幾多の舞台に目の肥えた公爵閣下は、さすが自ら演じられても一流でいらっしゃる。トマスの大劇場で発表しても客足の途絶えることはないでしょう」
「世辞とはいえ嬉しい。では、その際にはどのような題目がふさわしいだろうか」
「そうですな。金と砂、銀と灰。というのは如何でしょう」
面白がるような口調でケッセルトが言った。
「文学的ではあるな」
公爵は端的に評した。それ以上でもそれ以下でもないことを残念がる様子もなく、ケッセルトは肩をすくめた。
「水陸における水源の動向は、この星に生きる全ての人にとって他人事ではない。それについて高貴な方々がお考えになり、行動される物事についても、大層興味深い視線が向けられるでしょう」
「それはそうだろう。水源とは彼らの命そのものだ」
「いかにも。そしてトマスに限らず、人が生きる為には水と金がいりますが、それだけでも生きられるわけじゃないらしい。拠り所が必要というわけですが」
「だからこそ、水天の教えが我々には与えられているのだ」
「まさしく銀と灰、ですな」
公爵が目を細めた。
「……これが観劇なら、今まさに男爵は舞台上にあがって来たことになるわけだが。いったいどのような役回りを演じられるつもりかな」
「これは気づきませんでした」
ケッセルトは大仰に首を振って、
「自分はこの街では観劇する立場でおります。美味い飯と麗しい女性さえいてくれればなんの不満もありません」
「男爵の言い様は、実際の行動と少しばかり齟齬があるように思えるが」
公爵の台詞には若干の困惑が含まれていた。
同じ感想をクリスも抱いている。昔から行動の読めない男だったが、場をわきまえない発言がいったい何を意味するのか、知己である彼女にもまるで見通せなかった。
「公爵閣下。実に簡単なことです。どれだけ気楽な休暇にも、終わりは来るということですよ。誠に遺憾ながら」
ケッセルトが言った。
その手にいつの間にか、小さな紙片が握られている。眉をひそめたクリスの視界で新しい紙片がケッセルトに届けられた。それは男に直接ではなく、その傍らに添う女性を介して届けられていた。
ベラウスギ公爵の元にも、家人の者からの使いが届く。耳打ちで報告を聞いた公爵が眉を跳ね上げた。公爵がはじめて見せた大きな表情の変化に、クリスばかりでなく室内にいた全員が眉をひそめた。
何事の連絡がもたらされたのかと一同が固唾を飲んで見守る中、しばらく無言をたもったベラウスギ公爵は、やがて可能な限りに低めた声音で告げた。
「……男爵。今、私が聞いた報告が、君の手のなかにも届いていると考えていいのだろうな」
「恐らくはその通りかと存じますな。閣下」
ケッセルトが笑った。
「極秘であって然るべき内容を、当然のように手に入れていらっしゃるとは、さすがはトマス商人の誇る情報網としか申せません。それが自分より早く届けられるよう、手を回されていることにもまったく手抜かりはありませんでしたが――身内の行いにまで、隅々に目が届くというわけにもいきませんようで」
公爵の目がケッセルトに寄り添う歌姫を辿り、それから周囲の一人へと向けられた。
知的な眼差しが一瞬、苛烈に輝く。それを向けられたトマス商人のフリュグトは膨らんだ顔面を青ざめさせて、子飼いのはずの女を睨みつけた。
「ミセリア、貴様……!」
震える声と、指先を向けられた女性は妖艶な笑みのみでそれに応えた。
いったい何が起こっているのかと、クリスは困惑して周囲の人々の様子を窺った。
動揺しているのは彼女ばかりではない。コーネリルも、その他の招かれた多くの客達も、皆一様に混乱した様子で互いの顔を突き合わせている。
その中でただ一人、ケッセルト・カザロだけが悠然とその場に佇んでいた。舞台における主役を気取る表情で、男は口を開いた。
「閣下。先ほどの演目についてでございますが、実は一点だけ不満がございました」
「……なんについての不満であろう、男爵」
「金と砂。銀と灰。それぞれ人が生きるうえで大変に重大な、なくてはならないものだと十分に理解しているつもりでおります。しかし、自分はそれと等しく、あるいはもっと重要なものが他に存在しているはずだと固く信じているのです」
ベラウスギ公爵が目を閉じた。
眉間に皺をつくり、沈黙の後に薄く唇を開く。
「それはいったいなんだろうか、カザロ男爵」
相手に訊ねてはいたが、公爵の口振りは既に答えを了解している口調だった。それをあえて口にしてみせたのは、はなむけを差し出したのに過ぎない。
舞台の最後を締めくくる役どころを譲られた男は、野性的な相貌に晴れやかな笑顔を満面に表して、告げた。
「それは無論、鉄と血こそであります。公爵閣下」
その後。
ベラウスギ公爵の口から、その場にいる人々に対して報告の内容が明らかにされた。
その内容は、居合わせた人々を動揺させて余りあるものだった。
――ボノクス、侵攻す。