13
室内で楽しげに交わされていた会話が途絶えた。
一瞬の静寂。遅れて各所で小波が生じる。金海の表面をさらう風が微小の砂粒を飛ばすように、あちこちから肌に触るそれらを無視して、クリスは正面の人物を見据えた。
彼女の前に立つベラウスギ公爵は、表情にはわずかな変化も表していなかった。壮年を迎えていくらかの皺を蓄えた内側にある知性と落ち着きを感じさせる深い双眸が、その中に厳しい面持ちのクリス自身の姿を映し込んでいる。
沈黙する公爵と男から目を離さないクリスの周囲では、招かれた客達の密語が徐々に音を高めていた。
彼らが敏感に反応する理由はクリスにもわかっている。
帝国宰相ナイル・クライストフの実子、ニクラス・クライストフ。六年前に帝都を出奔したその人物を名乗った男が、一年前、トマスに吹き荒れた魔女狩りの最中に姿を現したという話は、この街では珍しいものではなかった。
なにしろその裁判には多くの街の人々も聴講していたから、実際に男の姿を目にしている。雄弁な語り口で魔女の容疑がかかった少女を救い、開かれる前にすでに結果が定まっているといわれる魔女裁判において逆弾劾を成し遂げた男は、日々の生活に慢性的な鬱屈を抱えた人々に小気味良い痛快さを与えていた。
その裁判の後、異常に興奮した一部の聴衆が引き金となったといわれる大規模な暴動によって、トマスは街のあちこちに火災が起こる事態に至った。その混乱の中、裁判で活躍した件の人物の姿も何処かへと消えている。
結果だけを見れば、裁判後の暴動と火災によって、男は自身の姿ばかりか人々の印象すら煙にまいた格好だった。しかし、いまだに街ではその出来事について語る際にその男の話がでることも少なくないし、ある程度の立場と情報を手に入れられる者であれば、その人物の噂話に関わる裏の事情を察することも可能だった。
大帝国ツヴァイの主要都市であるヴァルガードとトマスが微妙な関係性にあることは、今さら言うまでもない。表だって歯を剥きあうものではなかったが、そこに関わる人々や事態には何事にも腫れ物に触れる慎重さが必要だった。
些細な問題でも火種になりかねない。帝国でも最重要と目される人物の身内がトマスで事件に巻き込まれる形で姿を消したとなれば、それは十分すぎるスキャンダルではあった。
だが、今回の場合は相手が宰相家を出奔しているというところが微妙だった。
家を飛び出した次息に対して、宰相ナイル・クライストフは今までに廃嫡等といった法的処置には出ていない。だが、同時に「既に死んだ者として考えてもらってよい」という発言が周囲には明らかにされていた。本音と建て前のいずれにせよ、奇矯な人柄と類まれな政治才能で知られるその人物の真意は不透明だった。
それ故に、トマス側としても例の人物の扱いについては慎重にならざるを得なかった。宰相ナイルはトマスとの関係について穏健派の姿勢をとってはいたが、同時に様々な謀略を一手に司る辣腕家でもある。
帝都からの任を受けてトマスに駐在するクリスも難しい立場にあった。
彼女は帝国に忠誠する騎士であり、宰相ナイルには生家が中央社交に復帰する機会を与えられた恩義がある。その息子とは過去、許嫁の間柄であるとさえされていた。
公私が混然とした心境で、一年前のトマスでの騒動に対してクリスがとった判断が、ニクラスの存在を公にしないというものだった。帝都とトマスの緩衝材であるべしという自身の立場と、騒動にまぎれて人目を逃れたいと街からの脱出を図った友人の意思。そのどちらも尊重した結果だった。恩人である宰相ナイルにしても、トマスとの間に無用の火種は好ましくないと考えているはずだろうと彼女は判断した。
彼女の行動に合わせるように、事件後、トマスからニクラス・クライストフに対する特別な言及はなかった。トマスでの暴動火災については帝都にも報が入り、調査や状況把握を目的とした人員が送られてきたが、街中で多くの噂を聴取したはずの彼らからもニクラスに関連する質疑が上がらなかったのは、明らかに宰相ナイルの、あるいはそれ以外の誰かからの意思に拠るものに違いなかった。ニクラスについての噂が躍起になって否定されもせず、かといって大きな反響にもならなかった背景には、そうした多くの人々の思惑が微妙に絡み合っていた。
そうしたクリスの判断を消極的とみる声もあった。帝都ヴァルガードと大商業都市トマスの緩衝を目的としてのこととはいえ、往々にして平和や平穏とは謙虚さから生まれるより、互いに折衝した結果の妥協、あるいは均衡状態からもたらされるものであるからだった。
少なくとも、クリスが一年前の事件において、帝都とヴァルガードの橋渡しとして積極的行動に出たわけではないことは確かだった。暴徒の鎮圧と被災民の救助(そこには当然、知人の安否を気遣う思いもあった)にクリスが尽力したのは、彼女が決して政治や謀略の面に明るくなかったからであり、そうした自分自身の不得手については彼女自身よく自覚するところだった。そして、その彼女があえてトマスに帝都からの代表として長く据えられたままでいる意味を考えれば、必ずしも積極的行動こそが正解であるとも言えない。
だからこそ、たった今のクリスの発言は、驚きを肌の下に留めおく術に長けた周囲の人々に、思わず素直な反応を示させるのに十分だった。
半ば公然の秘密であったとはいえ、今まで互いに示し合わせて「なかったもの」として扱っていたニクラス・クライストフの存在について、多くの目と耳がある場所で公言する。それは、彼女がこれまで貫いてきた政治的沈黙を破る行為に他ならない。
そして、そのクリスの発言は決して彼女一人によるものではなく、この数日にわたった出来事の累積した帰結だった。
東方で見つかったという新しい水場と、それに前後して動きを見せるトマスの大商人達。ラタルク地方で計画されているという河川水路の件も含め、それぞれ決して小さな話ではない。小さくはないが、話がそれだけであれば恐らく彼女は今まで通り、最終的には静観という構えをとっていたに違いなかった。自分の立場で可能な範囲の情報を収集し、帝都に報告をあげる。それまでの行動ですんでいただろう。
しかし、そこにもう一人の人物が関わってきたことが、彼女の判断をさらに難しいものにした。
一年前、トマスに現れ、そこで姿を消した宰相家の次息の行方について話をちらつかせたのはコーネリルばかりではなく、トマスを治めるベラウスギ公爵直々の伝言でももたらされている。まるでニクラスがこの度の何かしらに関わっているのではないかというような、それは露骨なほどの思わせぶりさだった。
クリスもそれに気づいた。謀の類には長けていない彼女だが、それは能力より気性の所以とするものである。十分に理知的な思考能力で考えれば、彼らがニクラスの名前を持ち出すことで、自分からなんらかの成果を引き出そうとしているのではないかという推測は難しくなかった。
ならば、その成果とはいったい何を意味するのか。
そこになにかの思惑があることはわかっても、その背景や謀略の先にあるものまでが見通せるわけではない。クリスティナ・アルスタという人間の本質はあくまで軍人であり、彼女の周囲には忠実な執事以外に頼れる相談相手はおらず、確かな情報元も少なかった。
戦場において状況が曖昧であれば、最低限の安全を確保し、無闇に進軍するより滞留してでも情報の精査に努めるべきだ――彼女の理性がそう囁いたが、一方では違う声もあった。――もし、本当にニクラスが関わっているとしたら?
トマスの大商人達を中心に画策されようとしている何事かに、あのニクラスが関わっているとするならば、事態は重要性を飛躍的に高めることになる。出奔したとはいえ宰相家の人間の振る舞いは、帝都とトマス双方に多大な影響を与えかねなかった。
彼女の決断は慎重であるべきだった。それはクリスの基本的な姿勢だったが、こと今回に限ってはそれが正解か判断がつかなかった。彼女が今までトマスでどのように立ち振る舞ってきたかは誰の目にも明白であり、ニクラスの存在はそれを覆す為の手札として扱われているように思える。そして、彼女にそう思わせる為の見せ札であるようにも思えるのだった。
その二つの可能性を並列に想像してしまった時点で、彼女に向けられた計略は既に意味を為していた。そのことを自覚して、彼女は忌々しく思った。
このような場合、十分に謀略に長けた人物であれば、表の顔と裏の顔を使いわけて器用に立ち回ることも可能かもしれなかった。ニクラスの影が意味するところと、トマスで密かに企まれつつある計画の仔細について、自らの立場を危なくすることなく真実の切れ端を拾い集めることは、しかしクリスの手にはいささか以上に難事だった。ここ数日の行動はそれに対する彼女なりの挑戦であり、どうやらこのあたりが限界らしいというのが彼女の苦い感想だった。
これ以上、不得意な領域にうかつに足を踏み入れば、ただでさえ不安定な足場はたちまち泥沼となって彼女を陥穽へと落とし込んでしまう恐れがあった。彼女が帝都とトマス、ひいては帝国全体の平和に責を負っている身であることを考えるなら、そうした判断は決して怯懦や怠慢といえるものではない。
それでもなお、クリスが一つの決断に振り切ることができなかったのは、やはりニクラスの影が頭にあったからだった。公と私を同一のものとして己が身に抱える彼女の限界だった。
昨夜中、一睡もせず思索に沈んだクリスだったが、十分に納得した解を自身の内に見つけることはできなかった。その彼女に最終的な判断をもたらしたのは、朝方、白みがかった窓の外の景色を眺めながらふと脳裏に浮かんだ知人の言葉である。
澄んでいるようで、濁ってもいた。他人からは杳として知れない眼差しでこちらを見上げて、その男は言うのだった。――それでこそクリスだと。
まったくその通りだ。クリスは重さを感じる瞼を瞬かせ、硝子窓に映る自身を嗤った。だから、私はこんなところにいる。今さら六年前の自分を悔いてどうなるものか。
忍び寄る眠気に侵されつつあった思考が冴え、その勢いのままに彼女は立ち上がった。家の者を呼んで指示をだし、文をしたためて用意を整えて、茶会の時間にそこに赴いたクリスはたった今、自身の決断を公爵の前に示してみせた。
それを受けた公爵はしばらく落ち着いた眼差しでクリスを見通すようにしてから、小さく息を吐いた。
「……何時だったか。帝都で不思議な若者と話したことがある。雨季が終わり、新年の宴にと皇宮に参内したその帰りだった」
目線を上げる。過去を辿る口調で公爵は続けた。
「その若者は空を見ていた。長らく帝都中を覆う雨雲が晴れ渡って、真っ新な蒼だった。私は彼に、一体なにを見ているのかと訊ねた」
「……その若者は、なんとお答えになったのですか」
公爵は自分の問いをはぐらかしているわけではないはずだ。クリスは訊ねた。
「水の行方だと、若者は言った」
公爵は答えた。
「一年の僅かな間に限って、地上に与えられる天の恵み。それをもたらす白黒雲と、そこから落ちる無数の水滴はどこから来るのか考えていたと」
毎年、決まった時期に短く訪れる雨季は、ほとんど年中を乾燥した状態で過ごすこの惑星の生命にとって文字通り恵みの雨だった。全ての動植物を生かし、地表を湿らせて地下に溜る。
「水天の教えではそれを、地母神の慈悲によって与えられるものという。延々と渇きに飢えて苦しむ我々を憐れみ、頬に流す涙が空から降り注ぐのだと。私がそう言うと、若者は言った。では、その地母神の涙とはいったいどこから来るのでしょうと。素朴だが面白い問いだ。その若者は、神の御業に理由を求めていたのだ」
クリスの脳裏で、公爵によって語られる人物がはっきりとした像をかたどった。間違いなく、帝都を出奔する以前の若きニクラス・クライストフに違いなかった。
「少し意地悪い気分になって、どうして神が涙する理由を知りたいのかねと私が問いかけると、若者は首を振った。自分は神の由縁ではなく、水の所以が知りたいのだとね」
目の前で言われた台詞ではないのにクリスは冷やりとした。厳格な水天教関係者であれば眉をひそめかねない文言だった。
「……大胆な若者ですね」
「まったくだな。幾らか言葉を交わしたが、意味をすべて理解することは私にはできなかった。どうも、会話のやりとりというより、向こうの自問自答にこちらが横からちょっかいをかけているようなものだったな。ともあれ、興味深いひと時ではあった」
公爵の意図が読めず、クリスは黙って続きを待った。
「私が背を向けたところで、ぽつりと若者が言った。私に向けられたものというより、独り言を聞いたといったほうが正しいだろう。“水は巡る”。女爵はこの言葉をどう取るかね」
クリスは眉をひそめた。
言葉そのものはありふれたものだった。それだけでは特に感想も湧きようがないが、それを言ったのがニクラス・クライストフであり、その為人とともに当時の情景を脳裏に描いてみれば、想起されるものはあった。雨季終わりの大空を仰ぎ、あの奇矯な男が瞳に映し込んでいたもの。
「――水は、地に沈み底に溜まるのと同じように空に溜まる、と。フォキュエルだったと思いますが」
「万物は流転する。そう言った哲学者だな」
公爵が頷いた。
哲学とは元来、人の営みに寄り添って発生する。世界の生末や万物の根源に思いを馳せることは贅沢な人々に許された娯楽であり、もっとも効率のよい暇潰しでもあった。
この惑星においても、多くの知識者や権力者がそれぞれの識見から独自の哲学を生み出し、その一部は後世に残されている。個人の歴史と感性が様々に彩られるように、残された哲学も多彩だった。
その一人、フォキュエルはいまだツヴァイが水陸の中堅国家であった時代に存在した思想家である。飲み残しのコップの水が減っていることに着想を得て水という物質が変化していることを知ったフォキュエルは、コップの中の水がいったいどこにいってしまったのかと考えた結果、それは空へとのぼったのだと結論づけた。沸かした水が湯気となるように、すべての水は底に溜まるだけでなく、一定分が空へと溜まり、それが集合してある程度の分量になることで、地上へと落ちる。それこそが、定期的に訪れる雨季の正体だと考えたのだった。
そこからさらに論を進め、万物流転の考えにまで至ったフォキュエルの思想は、しかし大衆には受け入れられなかった。既にその時代、人々の間にはある教えが広まっていたからだった。
水を神聖なものとし、その象徴を唯一神として崇める水天教にとって、“水は絶対などではない”というフォキュエルの考えは危険なものに映った。フォキュエルは激しい思想弾圧を受け、失意のままに生涯を終える。
その存在が歴史の闇に葬り去られていないことがせめてもの幸運ではあった。フォキュエルの残した思想は朽ちることなく、その後も幾人かの後継者を得て今に伝わっている。この時代、知学の最先端であった帝都ヴァルガードの大学でも、あくまで水天教を慮りつつではあったが、講義中にその名を聞くことはできた。
「さすがに女爵は博識だな。できれば私も若い頃、あの大学のような学び場に接する機会を持ちたかったものだ」
公爵は息を吐いた。
「もちろん、学ぶことはどれほど年老いてからでも可能だ。意欲と、自らに囚われない自由ささえ持ち続けていれば――もっとも、それこそが一番の困難なのだが」
これから先の未来より、これまでの過去を長く持つ眼差しがクリスを見た。
「我らは惑う。そして縋る。流れる足元に怯え、己が中に積み上げたものに固執する。人とはそういうものだ。だが、彼は違ったな」
「……そうでしょうか」
薄く唇を噛むクリスをちらりと見やり、公爵は小さく頭を振った。
「あくまで私の印象だ。お互いの差分について語らうのも面白くはあるが。女爵はそんなことを語りたいわけではないだろう」
「その通りです」
「ニクラス・クライストフか。確かに私は一年前に彼と話した」
クリスは目を見開いた。
公の場でベラウスギ公爵がその事実について言及したのはこれが初めてだった。一年前の出来事とはいえ、今後、ヴァルガードとトマスとの政治的なやりとりに使われることはほぼ確定的といえる。クリスが引き出した一言にはそれだけの意味があった。
ヴァルガードとトマスの小康状態が崩れる。自ら行動した結果に内心で冷たいものを覚えながら、クリスはそこで留まるわけにはいかなかった。一歩を踏み出した以上、トマス陣営がニクラスを引き合いにする何事かを確認する必要がある。
あるいは彼女がそう考えることが相手方の思惑だとしても。クリスは真っ直ぐに公爵を見つめ返した。それを眩しげにベラウスギ公爵が目を細める。
「彼の所在については、残念ながら私にもわからない。私が彼と面会したのは、あの騒動の前だったのだ」
クリスが口を開くより早く、しかし、と公爵は続けた。
「彼が息災であれば、今も砂海のどこかを旅していることだろう。彼は探していた。多くのことを知りながら、たった一つを求めて彷徨っているだろう」
「……閣下も、彼と話すことで何かをお知りになりましたか」
「とても大切なことを教えてもらったよ」
「それは――例えば、どのようなことでしょう」
公爵が口をつぐむ。そして短く囁いた。
「大いなる水元。生命の起源。永劫と恵みを与え続ける祝福の泉。もちろん、女爵もご存じだろう」
「基水源ですね」
「そうだ。そんなものはないと、彼は言った」
「基水源が、ない?」
クリスは驚き、声を失った。
「そうだ。それで私はふと昔のことを思い出した。水は巡る。下から上へ、上から下へ。つまりあの若者は、水は循環することを言っていたのだ。なるほど、それを念頭にしてみれば“基”などということは確かに奇妙ではある。水が流れ巡るのであれば、それは上下左右、全てが繋がって輪となっているべきなのだから」
クリスは沈黙している。内心でひどく動揺していた。
基水源とは、水天の教えにいう神が地上に始めて降り立った場所とされている。その基水源が実際にどこかということはとかく議論の的になるが、その実在を否定することは決してない。というより、許されない。それは水天という一大宗教の成立前提を覆すだけではなく、水天教を国宗として武威を誇る大帝国の存在についても疑問を投げかけることにも繋がるからだった。
ツヴァイ帝国は水陸中央バーミリア水源を擁し、そこを基水源として恩恵に預ける下流域を国土とする。唯一の水源の基を握る者こそが、バーミリア水陸でもっとも強大な権力の証――皇帝である。
ならば基水源の否定はそのまま、皇帝権の否定でもある。
そして、それをベラウスギ公爵ほどの立場の人物が公言することは、ほとんど一つの意味しか為さない。
クリスは素早く周囲に目を配った。今のベラウスギ公爵の発言に対して、招かれた人々の表情に格別な反応はなかった。この場に居合わせる立場で、まさか聞いた言葉の意味を理解できないはずもない。つまり彼らにとっては当然の認識であるということだった。大勢の客人の姿にまざって、微笑を浮かべるコーネリルの姿がある。
「ご自分の仰っていることをおわかりですか」
クリスは低く抑えた口調で訊ねた。声がわずかに震えている。
「無論だ、女爵。私は常識を言っている。人は死ぬ。どのような大国もいずれは滅び、永遠に湧き続ける水場などありえない。それは既に始まっている」
「……始まっている?」
「水が減っているのだ」
公爵は言った。世間話でもするような口振りだった。
「徐々にではあるが、水量が低下している。ゆっくりとだがね」
「――それは。一時的なものではないのですか」
どの水源でも、水の湧出量は必ずしも一定ではない。小幅な水量の増減があることの方がむしろ一般的だった。
「楽観的に見ればそう捉えることも可能だろう。しかし、誰の目にもそれが明らかとなってからでは、事態は間に合わんのだよ」
「いったいどこの水源が。まさか、トマスの」
水陸の経済を握っているといっていいトマスの水源が枯れれば、それはツヴァイのみならず水陸全体に影響を与える。いや、それどころか――
「トマスが水陸中の水源と繋がっている以上、そのどれがと当たりをつけることは難しい。原因が一つの水源とも限らない。そして、どこかの水源が枯れてしまっただけで、その他全ての河川にも影響は甚大だろう」
その結果、もたらされるものを想像してクリスは顔面を蒼白にした。
さほど経済に詳しくない彼女でも、膨大な版図を抱えるツヴァイが大水源同士を繋げる河川水路によって成り立っていることは理解していた。
それがなくなれば――ツヴァイは、終わる。河川水路とはツヴァイを流れる血脈。それを干からびさせてはどのような巨獣も生き永らえようがなかった。
「まさか、そのようなことが……」
呆然とつぶやくクリスに、公爵はゆっくりと首を振った。
「女爵も覚えているだろう。数年前、同じような事態があった。ボノクスとの係争地、ラタルクを干ばつが襲ったことを」
続けざまの衝撃にクリスは声をなくし、その衝撃から立ち直る前に不吉を思い出した。
「まさか。では、ニクラスは――」
「“彼は知っている”」
重々しく、公爵は頷いた。
「我々のような者でも……いや、我々のように恵まれた水源に安住する者だからこそ、いつしかそれを無限だと錯覚してしまう。いつまでも平穏を享受できると。足元と、そこに湧く水が絶対だと勘違いしてしまうのだ。その愚かしさは、誰かがそうではないことを教えようとしても、その忠告を軽視してしまうほどだ」
沈鬱に息を吐き、
「真摯に受け入れられる者にとっては、警告を促す神笛。しかし、蒙昧にして固陋な者にとっては徒に不安を招き、ただ人心を誑かす邪輩の魔笛となる。そう。彼は錯覚の楽園に真実という名の終わりを告げる、幻想の破壊者だよ」